第29話 新たなる戦いに向けて(改1120)
関山新道開削工事が本格的に始動する中、高楯村総代の安達久右衛門は、安達峰一郎ら村の少年達を集めて関山新道問題について説明をします。村山四郡連合会では西村山郡選出県会議員の西川耕作議長主導で北村山郡と西村山郡のペースで進められ、それに対抗して東村山郡では独自の建議書を作成する動きが始まります。そもそも北村山郡と西村山郡での工事でありながら、工事費の3分の2を東村山郡と南村山郡で賄う筋の通らない構造であることに対して、東郡の住民は承服しかねていたのです。
無邪気に喜ぶ少年たちの前で、高楯村総代の安達久右衛門は、改めて姿勢をただすと、顔を引き締めて言葉を続けました。
「んだげんと、久や村のみんな、天童・山野辺のみんなが頑張ってこさえだ建議書だっけげんと、郡長さんださは、どうやら目も通してけねっけみだいだべ。多分、県庁さも行ってねど思う。」
意外な成り行きに、少年たちは色をなして驚き騒ぎます。
「なして!」「議長さ渡したんだべ!」
この建議書の求めている修正内容は、東南村山郡住民が考えている以上に、官側にとっては見過ごせないほどの重大な変更でした。議長はもちろん、郡にとっても、第一に三島通庸県令にとっても見過ごせないほどの大きな変更が、その建議書には書き記してあったのです。
既に述べましたように、東村山郡の別段建議書は、郡の役人の目にするところとなり、竈の火に投じられ、歴史の闇の中へと葬り去られていたのでした。
実際、郡側により闇に葬られたはずの建議書の内容が、なぜ、後世に伝わったか?それは、天童地区荒谷村から楯岡村の連合会に来ていた委員のひとり、村形宇左衛門が写しを控えて後世に残してくれていたからでした。
もし、これがなければ、東南村山郡の別段建議書の存在そのものすら後世に伝わることもありませんでしたし、住民による関山新道建設反対運動の実相は歴史の中に埋没していたことでしょう。
「俺だの生活さも関係する新道の建設だがら協力はさんなね、……ほれは分がる。んだげんど、東郡の天童ば路線から外した上に、金だげは寄越せって言うのは筋が通らね。んだがらごそ、こさえだ建議書だったんだげんども……。」
久右衛門は悔しさをにじませて、腕を組み天を仰いで嘆息しました。
「ただでさえ、東村山郡の役所ば建てる寄付で5千円近い金ば出したばがりだ。いづまでも言う事ば聞いっだら、どごまでも金だげむしり取られる、俺だはそれが、おかながった(恐かった)。」
昨年、東村山郡役所が総工費6297円、現在の価格で1億2600万円をかけて作りました。ですが、この約7割を越える5千円弱、およそ1億円近くが東村山郡住民の寄付金という名の臨時徴収金で作られたものです。そして、この地所自体が地元地主からの寄付という名目で、住民からむしり取ったものでした。もちろん、工事の夫役自体も近隣住民の「自主的」な労力奉仕とされています。
……すべてが、まったく同じ構図でした。県庁造営も、郡役所建設も。そして、関山新道開削工事が郡役所から提議された時、久右衛門だけでなく、東村山郡住民の全員の頭をよぎったのはそれでした。
しかし、久右衛門としては、連合会というものの開催に一縷の望みを賭けて、住民の主張を、そして、声を、県庁に届けたかったのです。このままでは、毎年のように、住民自発の寄付金という名目で、永遠に県から絞り取られるばかりです。
「この前のあの郡の役人は?あの役人はなんもやねんだっけべが?」
少年たちの中から安達峰一郎が久右衛門に尋ねます。
「吉雄さぁも、郡からの説明ば持てきたんでなくて『こう決またがら、7月9日に郡役所さ来い』ってだげだっけ。俺だの建議書の事もしゃねっけ。」
久右衛門は、先日、少年の親たちに語ったことと同じことを話して聞かせました。親たちと同様、少年たちも絶句しました。
「親父だで頑張た事、全部、無駄だっけなが……。」
細分化されたモザイク状の領主経済体制が、廃藩置県による広域経済圏に変わって、いまだ9年、公共事業の概念も未熟で、広域事業の地域的財政的区割も明文化制度化もされていない近代化の過渡期に起きた悲劇でした。
「この前来た、郡庁の吉雄さんは、ほだな建議書が俺だから出っだのも、全然しゃあねっけ。吉雄さんの口上も、北郡と西郡で決めだ内容、そのまんまで、俺だが書いで出した内容はひとつも入いてねっけ。」
「なんでや!」「どういう事や!」
激昂する少年たちでしたが、峰一郎が冷静に質問をします。
「んだて、あの役人は山野辺村さ住んでんだべ?総代さんがら前もって言っておぐって、さんねんだっけべが?」
地元に居住しているのであれば、その渡辺吉雄を通じて、東郡南郡共同提出の別段建議書がどうなっているか、郡役所に探りを入れるようなことはできなかったのだろうかと、峰一郎が策士ぶりをうかがわせるような呟きを言います。
「俺だもほれば考えねぐはねっけども、万が一、郡役所さ俺だの建議書の事が漏れで、役所から邪魔さっだりすねように、こっちでも天童でも、地元から役所さ行ってだ役人さは内緒にしったんだっけ。」
峰一郎が考えるように、久右衛門たちも、事前に、地元採用郡役人へ探りをいれることも検討はしていたようです。しかし、それにより郡役所からの干渉を招き、妨害されるリスクの方が大きいと判断したのでした。
「んだば、しゃあねずなぁ(仕方ないなぁ)……。」
落胆する峰一郎の言葉に続けて、久右衛門は淡々と話しを語り聞かせました。
「最初っから、工事の決める内容は決まってだんだっけ。路線ば天童さ来ねようにしたのも、営業税ば入れんのも、北郡と西郡ば工事さ協力させるぐ、最初っから仕組まってだんだ。」
会議をする前から、会議の結論は決まっていたのです。久右衛門は悔しさをにじませて言いました。
「んだば、なして楯岡で会議なんかしたのや!」
「んだ!会議なんか、はなっから、要らねべした!」
当然に少年たちの疑問が噴出します。しかし、それを受けて、悲しそうに語った久右衛門の言葉に、少年たちは絶句してしまいました。
「道ばこさえでけろ、俺だ住民がみんな賛成しった、住民が県庁さ協力してお金ば出しあうぐ自分だで決めだ、……県庁は、そういう事にすっだいっけだげなんだっけ。」
住民が賛成し協力して工事費も拠出するから、どうか道を作ってください、県庁はそういう形にしたかった。そのために連合会を招集して会議の真似事をしたというに過ぎなかったのです。
「ほだな……。」
子供たちは絶句しました。
「ほっだな事の為さだげ、わざわざ会議の真似事して、親父だば3日も4日も、何十人も、楯岡さまで集めだなが!」
少年たちにはあまりにも馬鹿馬鹿しくも下らないことでした。最初から決まっていることに、大人も子供も振り回され、踊らされていただけのことでした。
自分たちが村のためと思って立ち上がったことも……、
戸長たちが知恵を絞って建議書を考え作ったことも……、
峰一郎の父親が連合会委員の間を走り回り説得に動いたことも……、
……すべては何の意味もなかったのです。
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「鬼県令」「土木県令」と言われた三島通庸県令は、道路・橋梁・堤防などの土木工事を積極的に進めていました。
山形・鶴岡・置賜3県の合併による統一山形県の誕生以来、県会計からの最大の支出は土木費で、明治9年から15年までの土木費総額は84万円、現在の価値に換算して約168億円、当時の山形県の歳入の丸々2年分を注ぎ込んでいました。
しかし、中味を見ると県土木事業における官費支出は4分の1、僅か26%に過ぎません。実に、その経費の73%以上を民間からの自発的寄付という名目の強制的臨時賦課税で賄っていました。つまり民費、住民負担でした。
その一方、この明治12年を境に風向きがやや変わってきたのも事実です。具体的には県令の強圧的な収奪の有り様に微妙な変化が見られてきました。それはなぜか?
それは、山形県会の発足でした。
全国的に明治12年から府県会が開設され、各地で府知事・県令と県会との対立が繰り広げられる「府県会闘争」が活発化しました。
山形県では、明治12年3月から第1回山形県会が開催されます。
全国的に普及しつつある民権思想を背景に、有力地主や開明的士族からなる県会議員は、「冗費節約」と「県民休養」を主眼として県予算案の大幅削減や修正を決議します。
しかし、一方の県においては、県会決議を無視して予算を執行し、両者の対立は激しさを増していました。
そんな社会背景の中、さすがの県側も、あまりに民意を無視した高圧的対応ばかりではまずいと思ったか、形だけでも民意を汲み取る姿勢を見せ始めました。その現れが、数町村連合会でありました。しかし、その実態は、高楯村総代・安達久右衛門が感じた通り、形を繕うだけのまったく無意味な会議でありました。
県庁側からする大義名分は、今の言葉で言うところの「受益者負担」ということです。しかし、長期的にはともかく、現実的な住民感覚としては、まったく「受益者」にもなっていません。
住民側としては、負担そのものを否定しているわけではありませんでした。より丁寧な説明と、より現実的な負担割合を提示することでの官民の歩み寄りは十分に可能なはずでした。しかし、自由民権運動前夜の明治13年の時点では、まだ、官側にはそこまで考慮する余裕はありませんでした。
東村山郡の住民たちは、全国組織を有する自由党などによる自由民権運動の気運が整うより前に、外部の支援も得られぬ孤立した状態のまま、単独で強大な官憲権力に立ち向かわねばなりません。
明治政府内部の政変を受けて板垣退助らにより自由党が結成されたのは明治14年、山形県から福島県に転じた三島通庸県令の土木事業への抵抗事件となる福島事件は明治15年、……そんな自由民権運動の全国的展開に先立つ明治13年、その時代に生きる東村山郡の住民は、これから孤立無援の孤独な戦いに突入しなければなりません。
それは、日本近代史の中では自由民権運動とは何ら関係のない地方の些細な混乱として、歴史のエポックにも取り上げられることもないでしょう。
しかし、彼らの運動は、従来の一揆的な暴動や混乱とは確実に一線を画するものでした。それは、間違いなく近代的自我に目覚めた先進的市民による合法的法律闘争であり、日本における近代的市民運動の嚆矢と言えるものとなるでしょう。
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関山新道開削問題と村山四郡数町村連合会、……それらは、少年たちにとってあまりに過酷な現実でした。大人の世界は……、大人の社会は……、そういう仕組みになっているのか?
今は茫然とするばかりの、素朴に純粋な少年たちを前にして、久右衛門はあらためて自分たち大人の努めと責任を強く感じました。そして、この純粋な少年たちの未来のために、自分に恥じない堂々とした行動を、久右衛門は自らに戒めます。
外では、少年たちの晴れない胸の内を表しているかのように、まだ明けぬ梅雨の雨がザァザァと降り続いています。この日、高楯村の吉祥天宮から、小鳥海山の大杉は見えそうにありませんでした。
関山新道の開削工事の内容は始めからすべて決まっていました。村山四郡連合会は、住民が賛成し自ら協力するという建前を繕うためだけに、結論ありきで開催されたのです。その現実を前に安達峰一郎ら高楯村の少年達は驚愕します。彼ら東村山郡の住民たちには、これから長く辛い孤独な戦いが控えているのです。しかし、高楯村総代の安達久右衛門は、子供たちの未来のために、自分に恥じない正々堂々とした合法的な法律闘争を行う決意をしたのでした。




