第26話 四郡連合会(改1120)
関山新道開削工事が始動する中、東村山郡役所からの渡辺吉雄郡書記一行に対する安達峰一郎ら少年たちの狼藉事件は不問となり、少年たちはいつものように東子明塾で東海林寿庵先生からの教えを受けていました。また、峰一郎も勝海舟の言葉で師からの教えを受けます。一方、今回の件で、少年たちを一人前の村の男衆と判断した高楯村総代の安達久右衛門は、少年たちを集め、村が直面している関山新道問題について、ことの起こりから丁寧に語り始めるのでした。
安達久右衛門が思う通り、そして、安達峰一郎が不思議な違和感を感じた通り、この一連の民間からの請願運動の流れには裏のからくりがありました。それは飽くまでも表面的な事象に過ぎなかったのです。しかし、いかに戸長といえど、表面に現れている事象以上のことは、何も窺い知れません。ましてや、裏側のからくりを知る術もありません。
この一連の流れに出てくる村々は、住民運動だけでなく、起工式や連合会の場所にいたるまで、すべて北村山郡に存在する村々でした。そして、この北村山郡の郡長は三島通庸県令のブレーンのひとりでもある中山高明でした。
内務省からの指令で見積った予算では、ざっと9万円近い工事費、現在の価値でおよそ18億円の総工費が必要なことが明らかとなりました。それと知った三島県令は、すぐさま北村山郡郡長の中山高明を動かします。
三島県令の意を受けた中山は、郡の戸長会議で新道開削請願を議決させると共に、北村山郡独自で3000円、現在の価値で約6000万円相当の自発的寄付を申し出ることを決議させました。そして、この郡決議を県の土木課と庶務課に提出するさいに、付帯意見書として自らの意見を開陳します。
その郡長意見にいわく、「民費ヲ要セステハ修理イタシカネ」「隧道開削之利ヲ得ルハ、一人北村山郡ノミナラス」「商戸数ト輸出入之額ト貧富之差ヲ比較スルニ、第一ハ南部ニシテ、第二ハ東部、第三ハ北西部」と。
つまり、こういうことです……
『民間からの寄付がなければ工事はできないが、便利になるのは北郡だけではないから皆で負担しなければならない、商家の数や商い額、貧富の差を勘案して、県都のある南郡が一番多く出資し、次いで東郡が多く出すべきである。』……と。
あまりに手前味噌な北郡郡長の申し状ですが、そこには住民への飴と鞭が窺えます。どうせ逆らえないのならば、郡長のバーターに乗っかった方が良いとの住民側の魂胆も、そこに透けて見えそうです。
伊藤博文内務卿への陳情でも、この民意を大いに吹かします。いわく、「当村人民ニテモ金子五百円、其他人夫ヲ以テ費方万分之一ニ充テ」「我共ニ於テモ御費途ノ内へ幾分カ献納致シ人民ノ義務ヲ尽シ」……。
なんと殊勝な素晴らしき人民たちでしょう。「1000万円を自主的に寄付した上に人夫にも出てお手伝いして、国民の義務を尽くしたい」と申し出るとは、令和・平成の個人主義的拝金主義の日本国民も見習いたい犠牲的精神の発露です。それが事実であるならば……。
このような人民の心地よい歓呼に出迎えられた伊藤卿は、さぞかしご満悦な旅路を楽しまれたことと思います。
更に、伊藤卿は栗子視察から予定外の関山視察に向かうにあたり、随行員をすべて返し、山形県側吏員の案内で、単身、関山に向かいます。現地では、深津無一県少書記官以下の県高官と村山四郡郡長、更には有志住民たち多数が伊藤卿を熱烈に出迎え、共に関山峠を越えての視察行となりました。
ここでもうひとつ注目すべきは、有志住民の存在です。もちろん、多数が地元北村山郡の住民ですが、少なからぬ西郡住民もこれに加わっていました。この後、住民側で新道建設について話し合いを行う四郡連合会の議長・副議長は、四人の郡長の指名で選ばれますが、なぜか両者ともに西郡から選出されている県会議員でした。
この状況の意味するところは、北郡住民だけでなく、利害関係を同じくする西郡住民もまた、裏で北郡住民と連帯している県側与党であることが分かります。4人の郡長と住民の半数が県側に付いていることは、その後の四郡連合会の推移を見ても明らかなことでした。
こうした伊藤卿の関山視察は、何のことはありません、すべてが既に出来上がった県側のシナリオ通りなのでした。伊藤卿ですら暗黙の了解であったことは、栗子で内務省随行員をすべて帰らさせたことでもよく分かります。
明治初年より、大村益次郎、岩倉具視と、政府トップへの襲撃事件が繰り返されましたが、中でも極めつけは紀尾井坂事件での大久保利通の遭難であり、以後、政府高官の護衛体制が強化され、大臣クラスである高官の単身行動はあり得ないことでした。
しかし、この時に単身行となった伊藤卿は、いちいちうるさく言うお側付きの内務官僚もおらず、山形県側の独壇場の裡に、視察も滞りなく終了したのです。ここに関山隧道は内務省の認可を受け、国費の投入も決定通知されたのでした。
しかし、最大の問題はここから始まるのです。
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明治13年6月25日、この日、北郡の東根村で三島県令親臨のもとで賑々しく神式にて起工式が催されている頃、そこからおよそ2里ほど北の楯岡村にある北村山郡役所で『村山四郡内数町村連合会』が開催されました。
東西南北の各郡からそれぞれ20名の郡代表の住民が集まり、新たに作る関山新道についての協議が行われました。そして、峰一郎の父、安達久も東村山郡を代表してこの会議に出席したのでした。
「峰一郎の親父、すげえな!東村山郡の代表だもんな!おらだの村の代表だもんな!」
石川確治が峰一郎を突っつき誉めそやし、峰一郎は思わず照れ笑いをしています。
この会議の目的は、関山新道の路線と経費について、四郡の郡長側から出された原案を審議することです。しかし、先にも述べましたように、政府側与党の真っただ中の土地、楯岡村の北郡役所で開かれるだけでなく、事前に北郡と西郡の連携が水面下で諮られている上に、議長・副議長までもが政府側与党で固められているとは、東郡や南郡の議員たちもまったく想像もしていなかったことでしょう。
そして、会議は始めから恣意的に進行されました。
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まず、当初のルートにはなかった西郡の谷地地区が新道の経由地とされました。
路線の設定は新道の恩恵がストレートに関わるもので審議は紛糾しましたが、西郡から選出されている県議でもある西川耕作議長と細谷巌太郎副議長が、指導力を発揮して最終的な決定に持ち込みました。
当初の原案にあった東郡の天童村が路線から外されたことで、東郡にとっての新道の利はかなり減退してしまったことは言うまでもありません。
更に、西郡と北郡の強硬な主張で、原案にはなかった営業税割が新たに導入されました。この結果、商家の多い山形や天童など、南郡・東郡の負担が一層、強めるられる結果となりました。
「なんだがしゃあねげんと、北ど西のしぇえように決めっだんだべが? ほだな感じすっけげんと……」
「前に太郎吉が言ったっけ通りだべ!東郡は山野辺ど天童の間ば、長崎で、ちぇっと通り過ぎるだげだべ!」
「税金も、おたながあって、商いのうがい山形ど天童ば、狙わっだみだいだんねが?」
少年たちは思い思いに感想を言っていますが、その言葉を聞いた久右衛門は、少年たちの理解の早さに感心してしまいました。
久右衛門は改めて新しい世代が育っていることをひしひしと感じます。そして、この子供たちの未来のためにも、自分たち大人が恥ずかしいことは出来ないという責任感の重圧も感じました。
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この四郡連合会の協議の4日間、東村山郡代表委員は、地元の天童地区・山野辺地区と連絡を密にしつつ対策を講じます。内心では心情的に推進派に近い長崎地区から来た委員も、消極的ながら東村山郡代表委員として足並みを合わせていました。
「峰一郎の親父さんの久だば、村のためさ、いっくど頑張ってけだ。楯岡でも、西郡や北郡の委員さ、一生懸命に話しばしてけで、向ごうの委員も久の話しさだば、いっくど頷いで聞いでけっだ人も、うがいっけ、って、天童衆からも話しば聞いだ。」
「峰一郎の親父さん、カッコいいなぁ!」
子供たちは、まるで自分のことのように誇らしく感じ、目を輝かせて久右衛門の話しの続きを聞いています。
しかし、そんな少年たちの明るい瞳とは裏腹に、話しは次第に怪しい方向に進んでいきます。
「思うだぐはねぇげんと、……なしても西郡と北郡が組んでだみだいで、意見がぶつかても、最後に西郡から来った県議の議長決裁で、なしても意見が通らねぐなんだ。」
「ほだな……。」
「汚ねぇべ!」
絶句する子供たち……
「はなから話し合いにな、ならねべした!」
最後に、吐き捨てるように三浦定之助が叫びました。それは、3人の少年たちに共通する思いでもありました。
伊藤博文内務卿への陳情活動の裏側には三島通庸県令の命を受けた北村山郡の中山高明郡長の姿が仄見えるのでした。そして、伊藤卿は、福島や仙台に繋がる栗子・関山の視察を行って、関山隧道工事への理解を示し、その実施が事実上決定されます。そして、その決定を受けて開催された住民同士の話し合いという建前のもとに開催された村山四郡連合会は、西村山郡選出県議西川耕作議長の主導のもと、最初から最後まで北村山郡と西村山郡のペースで恣意的に進められたのでした。




