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第25話 ことの起こり(改1120)

 関山新道開削工事が始動する中、東村山郡役所からの渡辺吉雄郡書記一行に対する安達峰一郎ら少年たちの狼藉事件については、安達久右衛門や安達久左衛門ら村の大人たちの尽力によって不問となりました。少年たちは川掃除をさせられ、いつものように東子明塾で東海林寿庵先生の教えを受け、峰一郎は東海林寿庵先生から勝海舟の言葉による教えを受けて、今回の自分たちの行為を振り返ります。一方で、郡役所では潜在的な住民の反発の匂いを嗅ぎつけ、一層の警戒感を高めることとなります。

 そろそろ梅雨明けが待たれる7月の初旬、高楯村ではざーざーと雨が間断なしに降り続いて、村全体が雨煙に霞んでいます。外での仕事も遊びもできない大人も子供も、こんな日は家の中に閉じ籠っているようです。


 そんな雨の日、高楯村の総代、安達久右衛門の家に、安達峰一郎、三浦定之助、石川確治のいつもの3人が座敷に上げられて久右衛門に対面しています。今回は親はおりません。子供たちだけです。


 緊張の面持ちの子供たちは、意を決したように揃って畳に手をつきました。


「総代さん、今回は迷惑ばおがげして、ほんてん、われっけっす!ごめんしてけらっしゃい!」


 3人が手をついた上に額を畳にこするように付けて、久右衛門に謝りました。しかし、久右衛門はにっこり微笑んでそれを制します。


「いや、おめだは、村のため、してけだんだがら、何もわれごどはね。おめだの気持ちだば、ありがだぐ思うべ。……今日はほだなでねぐ、おめだば一人前の村の男衆として話すだいど思てよ。」


 手を付いた姿勢から上体を起こした少年たちは顔を見合せます。


「おめだも数えで十四、大人にはまんだ、ひどづ早いべげんど、……峰一郎は十三だっけが、……んだがらて、今回の事も、ちゃんとおしぇでおがんなねべ。」


 久右衛門は、村の大人として少年たちを迎え入れるため、今回の騒動の引金となった新道開削問題について、そもそもの起こりから子供たちに語り聞かせようと言うのでした。


**********


 山形は四方を山に囲まれ交通は途絶し、文化文物の流入は限られ、産業もなかなか育ちません。一方、仙台は広く肥沃な平野部を持ち、太平洋に面した寒風澤湊さぶさわみなとには明治初期より蒸気船航路が開かれ、東京へのアクセスも便利です。


 このような山形の閉鎖的状況を切り開くため、仙台山形間に新道を開削しようという考えが生まれるのは自明の理でした。


 山形と仙台の間にある峠はみっつ、しかし、笹谷・二口は900メートル越えの峠道、残る関山峠せきやまとうげは海抜600メートルですが、頂上は頗る急峻で距離が最も長くなり、どの峠も一長一短でした。


 しかし、決め手となったのは仙台の北東、宮城県寒風沢港への蒸気船就航、そして、野蒜築港工事の着手という状況の変化でした。


 それは内務卿大久保利通の肝煎りで策定されたもので、東日本全域にわたる広域交通網整備計画の中核事業でした。これに山形県側からのアクセスを絡めることによる交通量の増大が予想されたことで、一番北側の関山ルートが、一躍、本命に踊り出ました。


 当時、既存の関山ルートでは、僅か16~7里の道程が奥羽山脈に阻まれ5~6日もかかる上に、冬季は降雪で完全不通、吹雪や雪崩での死亡事故も多数に上る過酷な道路環境でした。しかも、基本的な道幅が狭く、急峻な坂道の連続で、馬挽きの荷馬車や荷車での通行が不可能なために、物資の輸送量も限られます。


 明治11年4月、県は新道開削につき内務省に伺い出て、隧道開削に官費下付を願い出ました。更に、5月13日、山形県令と宮城県令代理大書記官・成川尚義なりかわ・なおよしの連署で、隧道経費官費下付について伺い書を提出しました。


 この新道開削に対する山形県の動きに対して、内務省は、5月30日、予算書と計画図面を添えて改めて伺い出るように指令しました。


 これに基づいて山形・宮城両県は現地測量を開始して路線確定を行い、翌明治12年1月22日、作成した予算書と計画図面を添えて官費下付の伺い書を再提出いたしました。


 しかし、この伺い書を受理した内務省では、6月2日、山形県の要望を却下し、開削工事自体の一時見合せを指示したのでした。国としても幾らでもお金の欲しい時期であり、一地方のために国費を削る余裕はありません。


「総代さん、道をこしゃうんだば、ほがいにわれ事ではねぇんでないべが?仙台さ通じだら、物ば売りにも行ぐいし、都会の珍しい物も、もっと入いてきて便利になんねが?」


 道を作るのはそれほど悪いことではないのでなかろうか、前にも、子供たちの話し合いで、同じような意見を言った三浦定之助が、久右衛門に聞き返します。


「んだ、定之助の言う通りだべ。俺だも道ばこさえるごどさは反対すね、ありがでえごどだど思う。なんぼがでも県さ協力さんなねども思う。んだげんどな……。」


 少年たちは真剣に久右衛門の話しの続きに耳を傾けます。


「おらだの作物どがは、荷車・馬車でいづでも運ぶいぐなっど、今まで最上川から酒田湊さ出しった時よりも、もっともっといっぱい売るいぐなる、ほれは、ほんてん、しぇえ事だど思てる。」


 山形県内陸部の米やその他の換金作物は、最上川の舟運によって、これまでも全国の市場に登場はしていました。しかし、道路などの運輸網の整備は、量と規模において更に深く広く、山形県の経済を全国と世界の経済に結びつける可能性を高めてくれます。


 道路の存在が当たり前になっている現代からは分かりにくいことですが、道路というものの恩恵は計り知れないものがあるのです。


**********


 内務省の工事見合せ指令に対して、山形県が改めて請願を繰り返したのは言うまでもありません。しかし、ここで新たな動きが出てきます。官ではなく民からする請願運動の開始がそれです。


 11月1日、関山村一同総代が、福島県下を視察中の内務卿伊藤博文に関山峠視察を陳情し、同時に北村山郡内8ヶ村の嘆願書も奉呈しました。伊藤は、その陳情を受けて、11月4日に福島との県境から工事中の栗子隧道を視察しましたが、住民の陳情を受けた形で更に足を伸ばし、7日に関山峠を視察して仙台に向かいました。


 そして、それから半年後の翌明治13年6月1日、内務省は工事の着工と、約5万円、現在の価値に換算して約10億円の官費下付を許可したのでした。


 明治13年6月25日、東根村の若宮八幡神社わかみやはちまんじんじゃでは三島県令臨席で関山新道工事の起工式が行われます。そして、同日、楯岡村郡役所では、峰一郎の父・安達久が代表委員として出席した村山四郡内数町村連合会が開催されたのでした。


 工事内容を決めるべき連合会が開かれるその日に、その話し合いとはまったく関係なく、話し合いの結果も出ない内から、まるで既定のことのように工事自体の起工式が執り行われたのでした。


「ふ~ん……。」


 峰一郎はそこまで聞いて、分かったような、分からないような、不思議な顔をしています。


「なした?峰一郎、何か分がらね事でもあっか?」


 久右衛門が、峰一郎の様子に気付き尋ねました。


「別に……。んだげんと、北郡の人だが、道、こさえでけろって、自分だから頼みさ行ったなが?」


 誰に言うともなく言った峰一郎の言葉に、久右衛門は目を見開いて驚きました。峰一郎の鋭敏な感受性が、この新道開削の一連の流れに妙な違和感を感じたのでしょう。


(ほう、峰一郎の奴め。今、聞いたばかりのことで、何がどうかは分からぬながら、わしらと同じことを感じたというのか?)


 峰一郎はなんとなく釈然としないように、口をモゴモゴしています。


(俺たちは百姓だから百姓の気持ちはよく分かる。目の前の用水路を作るかどうかなら必死にもなる。百姓の生活は常に水争いだ。しかし、行ったこともない仙台や東京に繋がる道をどうこうしたいなんて、百姓は絶対に考えたりはしない。まして、自分から金と時間を使ってわざわざ陳情に行くなぞ……。)


 実際に、僅か1年前の明治12年、山形県はひどい日照りに悩まされ、あちこちで旱魃の害が広がったのを久右衛門も子供たちも覚えています。


 山野辺地区は玉虫沼水元として代々安達本家が玉虫沼を管理し、この旱魃の際も久右衛門が先頭に立って高楯村を含む山野辺地区の村々で水を分け合ったために、作物への被害は僅少で済みました。


 しかし、天童地区では、天童村を含む14ヶ村で深刻な水不足に陥り、天童地区の水源たる山寺村やまでらむらとしばしば水騒動が発生し、重傷者まで出る大きな騒ぎに発展したことが何度もありました。


 ことほど左様に百姓にとっての水不足は死活問題に直結する重大事案だったのです。


 久右衛門は、目の前で不思議そうにしている峰一郎を見て、子供たちに話して聞かせることは決して早すぎでも間違いでもなかったことを確信し、ホッとしました。そして、少年たちが既に素晴らしい若者に育っていることをヒシヒシと感じ、嬉しく、そして、頼もしく感じるのでした。


**********


 しかし、住民の中でも事態を深刻かつ正確に受け止めている筈の久右衛門であっても、まだ状況に対する認識は甘い物でした。というのも、この事業が内務省の今は亡き大久保利通内務卿の肝煎りで始められた事業であるということです。


 すなわち、これは単なる経済的な交通網整備のためだけの事業ではなく、国内的には治安維持、対外的には対露作戦・国土防衛のための兵員物資の移動をも念頭に置いた国策事業であったということです。


 国策事業とはそういうものでした。故に、住民運動によって住民の願いを入れた計画修正が出来る余地は当初からまったくなかったというのが真相でありました。

 安達峰一郎ら少年たちを一人前の村の男衆と判断した高楯村総代の安達久右衛門は、少年たちを集め、村が直面している新道問題について、ことの起こりから丁寧に教えてくれました。それは単純な地方の道路拡張工事ではなく、内務省の進める東日本広域交通網整備計画の一環に組み入れられた国策工事のひとつでした。そしてそれは、その過程を見ると、驚いたことに住民から自発的に国へ請願されて始められた工事ということでした。そこに不自然さを感じた峰一郎はひとり頭をひねります。

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