第1話 小鳥海山の大杉(改0630)
山形盆地の西端、出羽国東村山郡西高楯村に生を受けた安達峰治郎、後の外交官・安達峰一郎の幼少期から話は始まります。今、彼は父親に連れられて、ある山の山頂にある神社の前に来ています。そこには大きな杉の木がありました。
空がとても高い日でした。雲ひとつなく、真っ青な青空がどこまでも広がっていました。そして、その青空を背景に見事に大きく太い杉の木が高く聳えています。
周りに群生する杉の木を高みから睥睨するかのごとく、その大きい杉の木は突き抜けて高さを誇っていました。
まさしく、大きく、高く、そして、太い大杉でした。その杉の大木は、下から見上げると、まるで山頂から突き出た槍のように、天空を真一文字に突き刺すがごとく屹立していました。
「おどぉ、でっけぇなぁ!」
杉の大木の根本から、十字絣の粗末な綿の小袖着物に股引き姿の少年が、空を見上げて感嘆しています。その少年は、思わず、その杉の木のでかさを、改めて父に言わずにはおれない様子でした。
すると、隣にいる父親らしい茶色い小袖の野良着姿の人物も、少年と同じように上空を見上げながら答えます。
「村のわらすだば、みんな、この杉の木ば見でおがる。んださげ、おがたら、こさ来んだ。」
少年の住む西高楯村にある吉祥天宮は、近所の子供たちのよい遊び場でもありました。そして、そのお宮は高台にあり、そこから遥かに望む小鳥海山の山頂に、ひときわ高く聳えるこの大杉がよく見えるのでした。
だから、村の子供達はこの杉の木を見ながら成長していき、ある程度の年長になったら親からこの山に連れてきてもらうのでした。子供たちにとっては、その大杉のある小鳥海山に、いつ父親から連れて行ってもらったか、それが子供たちの間では一人前に認めてもらう道程の一里塚でもありました。
そのため、西高楯村の子供たちは小鳥海山の大杉をお宮の高台から眺めながら、そこに登る日を期待を込めて待ちわびていました。
「俺が、じいさまから、こさ、ちぇできてもらたのは、にさより、もちぇっと、おっきいっけ。」
その父親と思われる大人も、そのまた父親、つまり少年のおじいさんから連れてきてもらったようですが、父親が連れてきてもらったのは、その少年よりも、もう少し大きくなってからのようでした。
「んださげ、まだちぇっと早えがども思たんだげんど、にさ、わらすのうぢがら詩文も読むべす、こんどは学校さもあがっべし、んださげ、じいさまも、『しぇえべ』て、言ってけだんだ。」
どうやらその少年は、まだ学校に上がる前でありながら、すでに詩文をたしなむ俊秀のようです。それで祖父の諒解を得て父との小旅行に来たものでした。最初、上を見上げて口をあんぐりと開いていた少年でしたが、父の言葉から祖父の意向をも踏まえて連れてきてもらったことを聞かされ、改めて口を引き結び、緊張感をもって大きく頷きました。
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そこは、現在の山形県にあたる羽前国、村山盆地の西側に重畳と連なる出羽山地の一角、朝日連峰の東端にある小鳥海山という山の頂上でした。
山形県の県都、現在の山形市は、山形県の中心にある村山盆地の中心地にあります。その村山盆地は日本有数の一級河川である最上川に沿って南北に細長く広がり、東に蔵王山を擁する奥羽山脈、西に出羽三山を擁する出羽山地に挟まっていました。
その親子がいま立っている小鳥海山には、出羽国随一の霊峰、鳥海山から分祠された鳥海神社が祀られ、あたかもその大杉が神社の御神木のようになっていました。
鳥海山とは、出羽の国の真ん中、現在の山形県にあたる羽前国と、秋田県にあたる羽後国の境にまたがり、日本海に面した標高2236mの活火山です。山頂に雪を頂いた姿が美しく、出羽富士とも庄内富士とも呼ばれ、出羽国では最高峰であるだけではなく、その山頂の雪模様が古来より庄内平野の稲作の自然暦として目安にされるなど、地元の生活にも密接に繋がった山で、山岳信仰の対象ともなっていました。
鳥海神社は、正式には鳥海大物忌神社と称され、大物忌大神を祭神とし、創建時期は確定できないものの4世紀~6世紀頃の古い由緒あるものでした。
「わが安達家は源氏の出だ。」
おもむろに父が話し始めました。安達家の遠祖は室町幕府将軍家・足利家一門の別れであり、源氏の流れをくんでいるものと伝わっていました。それは、少年も祖父や父からよく聞かされていることでした。
「その昔、源氏の大将が、天朝様さ楯突いだ賊の討伐さ来た時、この山さ登って山形の盆地ば一望にのぞんだ。」
少年はじっと父の話しを聞いています
「ほの時だ、どっからがやって来た真っ白い大鳥が源氏の軍勢の上さ舞い飛んで、源氏の大将の旗の周りばぐるぐると飛び回った。ほして、しばらぐ軍勢の上を羽ばたいだ後、叛徒どもがたむろしった東の空さ向げで飛び去っていった。源氏の軍勢の行く手ば指し示すみだぐな。」
父は東に開けた盆地を指し示しながら話しを続けました。
「神仏の使いである霊鳥の飛び去った方角さ向げ、兵ば進めだ源氏の軍勢は、神仏の御加護で、見事、叛徒ば蹴散らして大勝利ばおさめだ。ほの勝利ば神仏さ感謝もうしあげ、こさ鳥海の権現様ば勧進したのが小鳥海神社の始まりだ。」
少年は、この小鳥海山に来たのは初めてであり、その謂われを教えて貰ったのも初めてのことでした。恐らくは、父もまた、幼き頃、祖父に連れられて同じような話しを聞かされたものでしょう。
「んださげ、こごの神社だば、安達家さも縁があるなだ。」
源氏の一員を自負する
言い伝えによれば、源氏の祖である源義家が、前九年の役、後三年の役の時、軍勢を引き連れてこの山頂に立ち寄った処、そこに薬師堂を見つけた義家は、奥羽の平定を鳥海神社大物忌大神に祈念したのでした。まさにその時、北方より一羽の霊鳥が飛来し、源氏の軍勢の旌旗の周りを飛び回ったのでした。義家はその霊鳥の飛来に神慮を感じ、同地に神社を創建して鳥海大物忌神社を勧進し鳥海大権現と薬師如来を祀りました。それが、この小鳥海神社の始まりであると伝わります。
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その父親は、大杉の偉容を子供に見せると、神社の石段に腰をかけ、竹筒の水を美味そうにゴクリと飲みました。
「峰、こっちゃ来で飲め。」
父親に言われた少年は、名残惜しそうにまだ上を見上げつつ、ゆっくりと父親のもとにやって来て、その隣の石段に腰掛けました。
「ほれ、こごだば村山の盆地がぜんぶめっべ(全部見渡せる)。山形のお城もめるべ(お城も見えるだろう)。」
父親は、少年に竹筒を手渡しながら話しました。村山盆地の西端に位置するその山からは、東側に面して広々とした盆地が見渡せました。そして、その盆地の真ん中に、かつて戦国期に栄えた清和源氏の名家・最上氏が居城として築いた山形城の威容が見渡せました。
そのお城は、現代においても日本百名城のひとつに数えられる美しい威容を誇り、季節によっては霞たなびく美しさを幽玄に醸し出し、別名「霞城」とも称されており、現在は「霞城公園」として山形市民の憩いの場となっています。
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既に時代は明治の御一新を迎え、そのお城には、もう藩主という殿様はおりません。最後の山形藩主・水野忠広は、明治3年7月に近江国へ転封となり、そこで山形藩は消滅しました。
それからの旧山形藩領は明治政府直轄領となり、前年7月に既に発足していた酒田県の所管となりました。そして、2ヶ月後の明治3年9月に山形県が発足となり、山形城内の元藩主邸内に政庁が開設されました。
政庁は旧山形藩主水野家の屋敷に置かれていましたが、しばらくは県令不在で、この時はまだ、次席にあたる権令が県政運営を担当しておりました。
この地では、明治4年7月の廃藩置県よりも2年も早い段階で既に県が設置されていたのです。しかしながら、それはこの地域の先進性を表すものではありませんでした。
事実はその真逆で、新政府に逆らって奥羽越列藩同盟に加わり、朝廷に対して武力をもって刃向かった賊軍として処断され、羽前国にあった各藩が次々に転封・改易されたのです。
その結果、無主の地となった多くの地をまとめて明治政府直轄領とし、廃藩置県に先んじて県を設置したというだけのことでした。
「おどぉ、お城さ、もう殿様いねて(もう殿様がいないというのは)、ほんてんだが(本当ですか)?」
「んだ、いね。……今度、県令どがゆうのが来っど(県令と言うのが来るらしい)。ほいが、あだらすい(新しい)殿様だべ。」
「ふ~ん……」
意味が分かったのかどうか、少年は気のない返事で流しました。
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羽前国は既に全国に先駆けて山形県が発足していましたが、現在の県知事にあたる県令は、前述の通り、まだ空席のままでした。その時点での山形県のトップは権令という立場の者が務めていました。いわば、トップ不在で次官が代行しているようなものでした。
県令が制度的に設置されるのは、明治4年7月の廃藩置県後、11月に公布された太政官623号・県治条例により、県の長官の名称を知県事から県令に改称されてからです。
版籍奉還の当初は、旧来の藩主がそのまま県のトップに横滑りして知藩事となり、更に廃藩置県を迎えて知県事となり、旧来の藩の統治システムを流用して地方政治が行われてきました。
しかし、明治政府による中央集権化が進むにつれて、かつての藩主は天皇制を支える藩屏として華族制度に組み入れられていきます。そして、県令も中央政府の意向を汲んだ官僚が中央から派遣されるシステムに変わっていきます。
当時の県令は現在の県知事のように民主的な選挙で選ばれた地元の人物ではありません。中央政府から命ぜられて派遣される官僚ですから、もちろん、地元には縁もゆかりもない場合が多々あります。
現在の山形県の地域は、廃藩置県の当初、7県にまで細分化されており、実態は小藩や代官所が乱立していた江戸時代と大差はありませんでした。
それが、何度かの統廃合を経て、明治9年8月、山形・置賜・鶴岡の3県を統合して現在の山形県となりました。これによって新たに広域行政単位が生まれ、初代山形県令が山形に派遣されることになったのでした。
「にさ、みなから神童、神童、言わっでっげんど、とどにゃわがる。にさは神童でも何でもね。普通のわらすだ。ほいが詩文ば詠むぐなったな、じいさまが、読み書きば、おしぇでけだがらだ(教えてくれたからだ)。あがすけつかさねで(慢心せず、調子に乗らず)、感謝すねばなんね、しぇが(よいな)。」
少年はしっかりと頷いて父親の言葉に応えました。
「どだな世の中さなっか、分がらねげんど、お侍も百姓も、みんな同ずぐなるなんて信ずらんねげんど、峰、おめは、じいさまから、しっかりおしぇでもらえ。どだな事さなても、頭さ入たのは無ぐならね。」
少年は、その父の言葉に応えるように、力強い言葉を返したのでした。
「おどぉ、……俺、この杉の木みでえに、まっすぐで、でっけえ大人さなる。」
息子の意外な決意の披瀝に接した父は驚きつつも満足そうに話しを続けます。
「んだ、がんばれ。安達家だば甲斐源氏武田家の筆頭家老職の由緒ある家柄だべ。いづまでもガギ大将なしてねで、御先祖様さ恥ずがすぐない立派な大人さなれ。」
父は、その小鳥海神社が源氏の祖である源義家の創建になることを教えた上で、殊更に安達家と源氏との繋がりを強調して息子を教え諭します。
父からそう諭されるとと、少年は振り返って再び杉の木をまぶしそうに見上げました。
その少年の名前を安達峰治郎といいます。後にアジア人として初の国際司法裁判所所長となる安達峰一郎、その人です。
安達峰治郎が父の安達久に連れられて初めて小鳥海山に登った時期がいつであったか、正確な日付は伝わってはおりません。しかし、この大杉と出会った小鳥海山登山と鳥海神社訪問が少年の心に大きな足跡を残したことは間違いありませんでした。
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安達家の遠祖は、清和源氏の流れをくむ足利一門の出身であると伝わり、鎌倉幕府の有力御家人、斯波家初代当主となる足利尾張守修理大夫家氏から始まります。宗家・宗氏と続き、現在の岩手県・紫波郡にあたる当時の斯波郡に下向したこの宗氏が最上家と安達家の共通の先祖となります。宗氏の次男・家兼が奥州管領となり、更に家兼の次男・兼頼が延文元〔1356〕年に羽州探題として山形に入部して山形城を築城、後の最上氏の基礎を築きました。
この斯波兼頼の山形入部の際、要所に一族を配置して領地的結合をはかるため、兼頼の祖父・宗氏からの流れを汲む尾張の斯波義高を出羽に招請しました。これに応える形で尾張より出羽国・寒河江庄君田に下向して居を構えた義高が安達家の遠祖と伝わります。
記録に残る安達家については、室町時代の末期、甲斐源氏武田家の一族で出羽高楯城主となった武田信安公の家老を務めた安達縫之助兼直が安達家の初代とされます。
しかし、安達家の遠祖と伝わる斯波義高が寒河江に下向した時期と、武田信安が羽前国へ下向した時期などに整合性が取れない面もあり、また、斯波宗家から安達兼直への繋がりも明確に追跡できる記録がありません。更に、安達兼家が武田信安の家老になった経緯も判然とはしません。斯波宗氏から宗家、そして安達兼家に続く系譜には不明な点が多く、今後の研究成果が待たれます。
一方の武田信安は、戦国時代の名将・武田信玄の祖父の弟でした。政争に破れたかどうか、甲斐国を出奔した原因については定かではありませんが、源氏同族の誼で出羽国の最上家を頼り、宝徳元〔1449〕年、最上義春により須川西岸の高楯村一帯、現在の山形県東村山郡山辺町に封じられました。
当時、最上家は奥州探題として陸奥・出羽2国を束ねる地位にありましたが、村山盆地の北西、現在の山形県の寒河江市一帯に勢力を張る寒河江氏が、最上氏の采配に素直に服せず、激しく抗争していました。
この不穏な状況の中、武田信安は、朝日連峰に連なる西側、現在の山形県西村山郡朝日町に勢力を張る岸一族と対峙しており、岸氏は北側に隣接する寒河江氏を後ろ楯として、村山盆地への進出を狙っていました。武田信安は高楯村の高台に城を構え、岸氏に対して睨みをきかせ、はからずも最上家の西の守りを託された形となったのです。
そのような情勢下、寛正元〔1460〕年、室町幕府の命により最上家から出羽国内に動員令が出され、武田信安も家臣を従えて出陣しました。信安公事績では『葦名戦争』と伝わる事件です。
室町幕府では関東に鎌倉府を設置し、足利一門より鎌倉公方を任じて東国の束ねを任せていましたが、関東公方とその執事である関東管領の対立に端を発した永享の乱により鎌倉府は滅亡してしまいます。直ちにその再興がはかられましたが、その後も関東の混乱は混沌としたまま続き、鎌倉公方自体が古河公方と堀越公方とに分裂対立する状況となります。堀越公方側に立つ室町幕府では、将軍足利義政の命として、古河公方・足利成氏追討令を諸大名に発します。この将軍家の御教書は羽州探題である最上義春の下にも届きました。
将軍家の御教書にしたがって出陣した最上勢ではありましたが、その遠征ルートにあった会津蘆名家では蘆名盛詮が12代当主を務めていました。蘆名家にも将軍義政の御教書は届けられていましたが、当時の会津蘆名領内では蘆名家臣団の反乱が相次ぎ、蘆名盛詮は内乱鎮定に追われて将軍家の指示に従って足利成氏追討に出陣するどころではありませんでした。恐らくは、武田信安の手勢を含む最上勢もこの会津内乱に巻き込まれたのではないかと思われます。それが『葦名戦争』と言われる言葉として語り継がれてきたのかもしれません。
この時の戦で、多くの家臣を失い世の無常を感じた武田信安は仏門に入って出家し、高楯村に庵を構え、高楯城の麓に浄土真宗・了広寺を開基したのでした。甲斐から付き従ってきた家臣の多くも、家老職にあった安達兼直も、この時、主君・武田信安に従い、刀を捨てて帰農し、了広寺周辺に居住したのでした。
少年の家も了広寺の南側のすぐそばにあり、少年の家の東側には、かつての武田信安公の居城である高楯城、当時は吉祥天宮のある高台がありました。明治の半ば、その北側にあった天満神社が焼失したために、吉祥天宮のある同じ宮境内に神社が再建され、現在は天満神社として地元で親しまれています。
少年は、西高楯村の少年たちと、吉祥天宮の高台を登り、了広寺の境内を走り回り、時に鐘堂の鐘を突いては住職に叱られ、世間の風雲とはまったく関係なく、のびのびとおおらかに成長していったのでした。
出羽国出羽山地に連なる朝日連峰の東端にある小鳥海山、その故郷の山に聳える巨大な一本杉、父の安達久に連れられて、それを見た少年・安達峰治郎は、その大杉のように大きく真っ直ぐな大人物になると誓ったのでした。