第14話 郡長布告奉呈(改1005)
関山新道問題に対して峰一郎を始めとする少年たちは村のために役人を追い払う決意をします。一方の郡役所では、影の実力者たる郡書記留守永秀以下、粛々と計画実現に邁進し、また、東村山郡住民の唯一の頼りでもあった別段建議書は、郡住民も知らない内に闇へ葬られました。大久保内務卿に見出された県令三島通庸は国を豊まし祖国を守る信念をもって計画遂行に邁進します。そんな中、村山四郡長が郡長布告を持参し県庁へ報告に来ました。
「本日は遠路、よぉ、来てくれもした。起工式も無事に終わって、ひと安心でごわんど。あとは、住民だけでごわすが、各郡長殿のご尽力のお陰で、まずは万事つつがなく、ほんなこつ目出度いことにごわす。まっこて、皆々、おやっとさぁでございもした。」
三島通庸県令は、洋風大広間の大テーブルを挟んで、いかにも南国薩摩人らしい、快活な大声で、喜びをあらわにしていました。
その三島の目の前には、4つの金縁漆黒の漆器盆に入れられた各郡の「郡長布告」が置かれています。
そして、三島県令に対面するように、テーブルの反対側には、郡長布告の並び順と同じ東西南北各郡長と、その補佐に当たる各郡筆頭書記の合計8人が並んでいました。
一方の三島県令の両脇には、三島のブレーンでもある県高官がズラリと並んでいます。 深津無一少書記官(東京)、村井元善出納課長(山形)、高木秀明土木課長(鹿児島)、鬼塚綱正一等警部(鹿児島)といった県庁トップ4が三島県令を囲むように中央をしめます。
そして、その両脇に野間政壽衛生課長心得(鹿児島)・奥野弦地理課長(東京)・久留清隆出納課主任(鹿児島)・原口祐之土木課主任(鹿児島)・城親良土木課主任(東京)・東忞勧業課長(熊本)等、関係する各実務部署の代表者が肩を並べています。
既に、山形県庁のトップは鹿児島士族および西国諸藩出身士族により固められ、山形および東国出身者は末端の下級官僚として使役させられる地位に甘んじる他に存在を許されませんでした。
「これも皆、県令閣下の御威光のおかげにございます。」
やにわに郡長側の席から五條為栄東村山郡郡長が立ち上り、やや甲高い声で挨拶を述べ、満面の笑みと共に恭しく頭を下げました。
「いやぁ、五條さぁ、困った時はいつでん言ってたもんせ。巡査の10人や20人、すぐにでも送りもんそ。ぐだぐだ言う奴にゃ、サーベルがいっちゃん効きもんそ。はっはっはっはっ!」
そう笑って言った三島県令の右隣、警部の制服に身を包んだ1人の筋骨逞しいカイゼル髭の人物が、腰のサーベルをじゃらつかせて立ちあがりました。そして、慇懃に一礼をすると、大きな声で挨拶をしました。
「ご命令とあらば、いつでん、どこでん、良かでごわす。すぐでん参上つかまつりもんそ。」
彼こそ山形警察署のトップ、一等警部・鬼塚綱正、彼もまた薩摩出身で、三島と共に山形に来た1人です。その名の通り、県庁造営では「鬼」と言われた苛烈な人物です。
鬼塚は警察官僚であると同時に、八等出仕・兼任典獄の肩書きで庶務全般を兼務しています。これは表向きには監獄長および監獄管理を任務とするものですが、一方で、常に県庁に登庁し県令との密接な意見交換を可能にするだけでなく、行政の動きを逐一つかみ、時には治安業務の立場から、行政行為に一定の影響力を行使することも可能であることを意味していました。
鬼塚警部の威圧的な挨拶に、元が公家である五條郡長が、追従の愛想笑いをしつつも、度肝を抜かれたような焦りの色を表します。それを見た三島はにんまりとほくそ笑みました。一般に薩摩人は相手を脅かすような児戯に類することが大好きでした。
「ばってん、ここまで来っとじゃ、大事なかろうが。……残念じゃっどん、鬼塚くんの出番はもうなかぞ。わあっはっはっはっはっ!」
三島県令の言葉に、郡長側の列席者が慇懃に会釈します。そして、その中の五條郡長は、汗を拭き拭き、三島にお追従します。
「それはもう、県令閣下のお手を煩わせるまでもありません。」
「まぁ、もう巡査が出張るこつもなかじゃろうが、こっからはいよいよ高木くんの出番じゃっで。栗子で見せた腕ば、また関山で振るってくいやんせ。」
三島の左隣、細身の眼光炯々たる官吏が立ちあがり、無言で一礼しました。
彼の名は県土木課長の高木秀明一等属、彼もまた薩摩出身です。一等属とは行政官の階級で、土木課長とは言いますが、現在の県庁職員に当てはめるならば部長クラス以上に相当すると思われます。実際、山形県庁にある全6課の中でも土木課は最大の陣容を誇り、県令の県政施策の眼目が土木事業にあるのは明白でした。
階級の上では高木課長と鬼塚警部に並ぶ村井出納課長、更に上級者の深津少書記官がおります。しかし、深津少書記官は江戸の国学者、村井課長は地元山形の上級士族階級出身で、表向きの看板以上の存在ではありません。
彼は既に山形県と福島県を結ぶ栗子隧道の建設遂行にその辣腕を振るっており、県令からの信任も厚く、関山新道の建設においてもその政策遂行の手腕を期待されていました。
薩摩士族出身の三島県令と高木課長・鬼塚警部の3人が実質的な山形県政の首脳部と言えます。鬼塚警部が三島県令の武を担う片腕ならば、高木課長は行政を担うもう一方の片腕でした。この両輪で三島の山形県政における現場が動いていたと言って過言ではありません。
「関山の計画が進めば、おいの県令としての役目は終わりでごわんど。こん次は、また別の県にでも行きもんそ。」
上機嫌の三島は、冗談とも抱負とも取れる話を、笑顔で語っていました。
三島県令が取り組んだ政策は、すべて近代化の一言に尽きます。中央から地方に伝播する西洋化・近代化の波は各種インフラ整備なくしては不可能でした。
そのため、三島はすべての新道を近代的馬車道としての産業道路とすることを目指しました。それまでは、足で踏み固めただけの細道だけで、車馬や荷車が通行可能な道筋は皆無だったのです。だからこそ、峠道だけでなく、街と街を結ぶ幅の広い新道が必要だったのです。
また、峠道は勾配がきつく、区間によっては獣道程度の道でしかなく、当初の内務省指導に従った既存峠道の拡幅整備だけでは、車馬や荷車が通行するのは不可能でした。だからこそ、勾配をならす隧道、トンネルが必要だったのです。
殖産興業を推進し日本津々浦々に産業を浸透させるには、物流がもっとも肝心であることを、戊辰戦役の前線で小荷駄隊を指揮し兵站業務を担当していた三島は、痛切に感じていました。
いかに薩摩兵が精強でも、食糧・弾薬がなけれは戦えない。前線まで物資を送り届けられなければ意味がないのです。……現代では当たり前のロジスティック理論を、三島は頭ではなく、肌で知っていたのです。
内務省としては、予算のかかる大規模工事には難色を示し、従来の峠道の整備にとどめておきたいところでした。そんな中央に対し、三島は何度も何度も談判を繰り返したのです。その末に「隧道」……つまりトンネル開削を含む新道工事着工の認可を獲得したのです。
「交通網の整備」、それは三島の信念でした。……その結果、それが正論であるが故の悲劇が、山形県の至るところで繰り広げられたのです。
「道路は国の血管でごわす。そこを行き交う人や物は血でごわす。こいは1日も欠くことはできもさん。国を開化するには、第一に道を作ることでごわんど。おいどんらがやっとるのは、山形県だけのためではなか、この日の本全体のお国のためでごわす。」
雄弁に信念を語る三島に、北村山郡郡長中山高明が賛意を述べます。
「県令閣下のおっしゃる通り。栗子隧道で福島へ、小国片洞門で新潟へ、更に関山隧道で野蒜湊から太平洋に渡れるようになれば、四方を山に囲まれた山形県にも、ようやく開化の波が押し寄せて参りましょう。」
中山は尊王攘夷運動の総本山たる水戸藩士族の出身で、関山新道計画では積極的な推進派でした。もちろん、三島県令の取り巻きの1人ですが、東郡の五條郡長と違うのは、中山自身が優秀な能吏であることでした。
なお、野蒜とは、東北の拠点港とするために、内務省肝煎で宮城県において築港が進められている近代的港湾設備整備予定地域で、現在の東松島市の石巻湾に向いた地域、当時の野蒜村一帯に建設が進められていました。
この野蒜築港事業には、運河・道路・鉄道をアクセスさせて、東北における水上・陸上の物流拠点として一大ネットワークを形成する狙いがありました。これは紀尾井坂で遭難した大久保内務卿が、生前から強力に推進してきた東日本広域交通網整備計画の中核事業でもありました。
三島の関山新道計画もまた、この野蒜湊を中核とした東北ネットワークの一翼を担うものでした。故にこそ、東郡や南郡が期待する笹谷峠が、いかに山形~仙台間の最短ルートであるといえども、そのルートは最初から考慮の埒外にあったのです。
「まったく同感でごわす。交通を整備して中央と直結せんければ地方の発展はありもはん。まして、野蒜と繋がることで、山形は太平洋にも道が開けもす。」
中山郡長の言葉に続けて、南村山郡郡長・村上楯朝が賛意を示しました。村上は元肥後熊本藩士で、彼もまた、三島の実務ブレーンの1人です。県庁造営では、お膝元の村々からの「寄付」を強引に募った輝かしい「功績」があります。
続いて、同格の二人の郡長に負けじと五條郡長が追従の言葉を並べます。
「閣下のご尽力で、この奥羽の僻遠の地にまで陛下の御稜威と恩寵があまねく広がり、県の民草に染み渡ってまいることでありましょう。」
しかし、先の二人が明確な事業の意図を把握して発言しているのに比べ、五條の言葉は、空々しい美辞麗句を並べただけで、どこか空虚なものに聞こえたのでした。
残るもう一人の郡長、西村山郡郡長の海老名季昌は、ひとり無言のまま瞑目し、各郡長の話しに頷いて聞き入るのみでした。
しかし、その存在感は、他の3人の郡長を圧していました。他の3郡長が三つ揃いの洋服姿であるのに対し、彼は鬼塚警部と同じく、警視庁制服の出で立ちでした。しかし、それのみならず、海老名自身の無言の佇まいは、常人ではない圧倒的な存在感を出しています。
海老名は元会津藩家老で、会津籠城戦でも勇名を馳せた家老山川浩とともに藩命で欧州視察を命じられ、英仏伊蘭普露その他欧州各国を歴訪した経歴を持つのみならず、禁門の変・鳥羽伏見の戦い・会津籠城戦と幕末の硝煙弾雨・屍山血河を潜り抜けた猛者でもありました。
まさに、幕末の会津藩士を象徴するラストサムライのひとりでもありました。会津藩降伏後の幽閉を経て、警視庁警部補となった彼は、三島に見いだされて西村山郡郡長を拝命します。つまり、彼もまた三島県令のブレーンであると同時に、鬼塚警部の片腕でもあったわけです。
かくして、四郡長の復命はつつがなく終了したのでした。
県庁で、各郡長からの報告を受けた三島県令は上機嫌で、自らの所信をおおいに披歴します。そして、三島県令の県政施策の両輪たる高木秀明土木課長と鬼塚綱正警部が圧倒的な存在感をたたえて郡長に相対します。一堂に会した郡長もまた個性的な人物が並び、東村山郡の五條為栄を始めとして、元水戸藩士の中山高明、元肥後熊本藩士の村上楯朝、極めつけは元会津藩士たる歴戦のラストサムライ・海老名季昌でした。各郡長は県令の政策をおおいに称賛したのでした。




