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第12話 郡書記留守永秀(改0929*)

 関山新道問題に対して、安達峰一郎を始めとする少年たちは純粋無垢な正義感に駆られ、東村山郡役所から来る役人を村のために追い払おうと決意し、役人を迎え撃つ準備を始めました。東村山郡役所では粛々と計画が進められる中、ただ待つしかない安達久右衛門ら村の大人たちはじりじりと不安にさいなまれて待ち続けます。一方の峰一郎たちも自分たちの考えで、村の役に立とうと必死に頑張っていました。

(パタン……)


 扉を閉めて郡長執務室を出てきた郡書記筆頭の留守永秀は、郡長室に続く書記室の大部屋で、窓を背にして部屋全体を見渡せる自分の机に腰を据えます。


(内容も知らずに、「よしなに……」もないもんだ。まぁ、お飾りの郡長閣下には、おとなしくさえしてもらえれば良い……。)


 窓を背にした留守の机は、他の書記たちの仕事ぶりをあたかも監視するかのように睥睨しています。


「和田くん、例の件は間違いなく始末できたんだろうね。」


 留守は、もっとも近い机で事務をしている和田徹わだ・とおる郡書記に声を書けました。和田の官位は13等の学務勧業兼庶務担当で、留守の次席でした。


「大丈夫です。たまたま柴くんの目に留まったお陰で助かりました。柴くんの気転で間違いなく焼却を確認しています。」


 和田はもちろん、山形の田舎の郡役所でありながら、驚くべきことに部屋の中の他の書記もすべてが洋装でした。書記以下の従僕たちは、ほとんどが白シャツに着物を合わせ、野袴を着けた書生風の出で立ちであり、他県でもまだまだ洋装が十分には浸透していない明治10年代でしたが、山形では三島通庸県令の指示で、官吏の洋装化が徹底していました。


 明治10年4月、第1大区杉原区長から県令に宛てた『奉職中誓約』に、「十七等以上に於て、出庁巡回共すべて公務上の節は、成る可く洋服相用う可く申す」とあります。結果的に、役人は見た目にも一般県民との判別がつきやすかったかもしれません。


 つまり、高楯や山野辺のような地方の村であれば、洋装しているのは巡査くらいであり、見た目にもすぐ分かる洋装の役人が歩いていれば、在所では「すわ、何事か!」と村全体に緊張感が走ります。


 洋装はともかく、その和田が言った柴とは、土木担当郡書記の柴恒玄しば・こうげんのことです。彼は担当事務方として連合会に出席していました。話しは数日前に遡ります。


**********


 北村山郡楯岡村にある北村山郡役所の中の郡書記職員室で、東村山郡役所から土木担当郡書記として出張していた柴常玄が、北村山郡の同じ土木担当郡書記の**と茶をすすりながら談笑していました。


「とにもかくにも会議が予定通りに議決されて良かったですね。」


「土民なぞは、国家の大事をも理解せずに、自分のことしか考えません。なんやかやと言っては出し渋りますからね。」


「東根村に行っている郡長閣下にも良き報告ができるでしょう、なにはともあれ、万事つつがなく……。」


 この日、北村山郡郡長**は起工式を終えて作業に取りかかる現場を視察に向かっていました。先々日の起工式にも参列していた**でしが、議長主導で思惑通りに進捗している会議二日目の状況を確認して、後顧の憂いなく、再び工事現場の視察に向かっていたのでした。


 その時です。ただならぬ喧噪が大勢の足音とともに室外から聞こえてきます。


「何事でしょう?」


 二人が立ち上がったときには、そのただならぬ雰囲気を察した室内の他の郡書記たちも扉に向かい、外の様子を窺っていました。


 そこには、つい先ほどまで会議場となっていた講堂にいて、今はとっくに帰途についている筈の各郡の委員たちがいました。彼らは議長室となっていた応接室から意気揚々と引き揚げている最中のようです。


「顔ぶれを見ると、地元の北郡の者はおりませんね。意見の通らなかった南郡と東郡の委員が腹立ち紛れに議長をつるし上げに来たのでしょうか。」


「いや、それならもっと悔しそうな顔をしている筈です。奴らの顔は、どこかしら、してやったというしたり顔にも見えませんか。」


 柴は何か胸騒ぎを覚えて、委員たちの波が引けた廊下を逆行して、議長控え室となっている応接室に足早に向かいました。


 ノックもせずに柴が扉を開いた先には、茫然と立ちすくむ西川耕作にしかわ・こうさく議長と細谷巌太郎ほそや・いわたろう副議長の姿がありました。二人は柴が部屋に入ってきたのにさえ気付かないほど、二人は茫然としていましたが、その二人の視線の先にあるものに柴が気付くまでさほどの時間は要しませんでした。


「議長、それは何ですか?」


 唐突に聞こえた……ように感じた西川議長の姿は、その立派な体躯には似合わぬうろたえぶりで、ようやく柴の存在に気付いたのでした。


「こ、これは……その……」


 二人の狼狽をよそに、ツカツカとテーブルに近寄った柴は、固まってしまって動けなくなったような二人を無視するかのように、その綺麗に和綴じされた文書を手に取り、頁をめくります。柴の後から部屋に入ってきた北郡の郡書記**も柴の肩越しにその文書を覗き込みます。


「こ、これは……」


 書かれてある内容をおぼろげながら推察した**は、驚きを露わにしました。


 その建議書は、工事それ自体のことは地方への文明波及を推進するものとして、殖産興業施策の壮挙と讃えてはいるものの、よくよく見ると工事費負担を新道路線の通過する各郡地域の自己負担とするもので、一見すると当たり前のように見えながら、結果的に路線の長く占める北郡や西郡の負担額が大きくなり、財政的に脆弱と思われる北西二郡から徴収するために、現実的な工事費捻出が不可能となる懸念が強くあります。


 だからこそ、県の策定された案では、地域別に路線工事を請け負わせる方法を取らずに、工事費総額を村山四郡の全住民人口に均等割する方策が取られたのです。そうすれば人口密度が高く比較的裕福と見られる南東二郡に負担を多く請け負わせることが出来、工事のスムーズな進捗に寄与できるものと考えたのでした。


 郡の官吏にその建議書を見られたと思うや、西川議長は虚勢を張って強弁します。


「さ、採決は、もう出だべずにゃ、こっだな、意味な、ねぇべした。」


 そこへ、不安そうに副議長の細谷巌太郎が言葉を返します。


「んだども、これだば採決のあどがらさ出さっだ建議書だべ、西川議長が委員の目の前で正式に受理したべがら、もっかい皆ば集めでこいづば否決さんなねずにゃ。」


「会議ざ終わたばりで、ほっだなめんどくさいごど、さんねべずにゃ。みな、帰たべず。」


「んだば、こいず、なじょすっべず。」


 新道建設事業に対する慎重派と見られている東南二郡の代表者から、改めて別の建議書を受け取ってしまった連合会の西川議長も細谷副議長も、両者ともに計画推進派の西郡選出県議でしたから、このタイミングで提出された慎重派の建議書に非常な戸惑いと不審感を抱きました。


 西川議長は勢いで無視しようとしたかったようですが、細谷副議長から言われることも至極もっともです。代表委員たちから正式に提出された建議書を議長が受領した以上、この建議書を再審議して否決するために四郡委員を再召集しなければなりませんが、一端解散を宣した会議を再開させるには数日かかるでしょう。既に新道工事は起工式を終えて着工していますし、会議結果を県令閣下に奉答し、県より内務省に予算計画も含めた工事計画を報告する日程も既に決まっています。





つまりはどうしていいか二人共に分からないのでした。


(ふむ、こんな建議書を公にしてしまったら、建前とはいえ、せっかく全村山四郡で共同採択された建議書は根底からひっくり返されてしまう。この建議書は存在してはならないものです。)


 二人のやりとりを聞いてか聞かずか、柴はひとしきり黙考すると、西川議長と細谷副議長に顔を向けました。


「西川議長、これは私があずかります。悪いようにはいたしません。よろしいですね。」


 顔から吹き出す汗に苦しそうにしていた肥満漢の西川議長は、厄介事を押しつけることが出来る嬉しさに顔を輝かせました。しかし、心配性の抜けない細谷副議長が尋ねます。


「んだども、おらだが委員の目の前で受理したんでねぇべが。あどがら問題さならねべずにゃ。」


「いえ、会議が正式に閉会したあとに出されたものに法的な根拠なぞありはしません。無効ですよ、無効。」


 まだ不安顔の細谷副議長に柴は笑って答えます。


 しかし、会議は閉会しても、各郡代表の委員の資格は、法律によって定められ保証されている身分でもあります。その委員が、各郡全体の民意をもって書式も整えて陳情上程された建議書が、あだやおろそかに無効とできるものではありません。ましてや行政機関末端の一官吏の裁量でどうにかできるものではありません。


(こんなもの、知らぬ存ぜぬで突っ張れば良い。最悪の場合、議長や副議長が責任を取って首を飛ばされようが、郡役所の知ったことではないわ。)


 そんな柴の心の裡も知らずに、西川議長と細谷副議長の二人はようやく安堵の息をついたのでした。


「こんなものは、ハナから存在しなかったのです。御両所とも、いいですね、忘れてください。」


 にこやかに言う柴の言葉に、二人はコクコクと頷くばかりでした。


 ……その後、柴はこの東南村山二郡から提出された別段建議書を、止宿していた宿屋の竃にくべて灰となし、かくして、その住民苦心の建議書は、永遠に歴史の闇に葬り去られたのでした。


 なお、西川・細谷の両名もまた、このような別段建議書は最初から存在しなかったものとして、役所への復命においても、その一端すら口の端に上せることはありませんでした。


**********


(ふむ。表だって誉めるわけにはいかんが……。まずは、良くやってくれた。)


 留守郡書記は、柴が勝手に行った越権違法行為を追認していたのでした。東南村山二郡が改めて提出した正式な建議書であることを理解しながらも、その内容が県政の目的とは異にするという一点において、その存在の抹消を是としたのです。


 そして、昨夕の郡役所での議長による会議報告でも、この別件の別段建議書について、議長から留守には何の報告もなされてはおりませんでしたし、留守も素知らぬ体で尋ねもしません。まったく呆れる他はありません。


 議長たちは会議場でもあった北郡を始めとして、西郡、東郡と回って共同採択建議書を各郡長に奉呈し、その後、最後に旅籠町の県庁脇にある南郡役所に行くことになります。しかし、彼らはその別件の別段建議書を既に柴書記に渡しており、現物を持っているわけでもありませんので、南郡役所でもその件に触れることはないでしょう。


「よいかね、そんな建議書など、ハナから存在もしていなかったのだ。何もなかった。……そういうことだ。いいね。」


 そう言うと、留守はおもむろに立ちあがり、窓から見える天童村ののどかな街並みを眺めていました。


(まあ、何か言われたらシラを切れば良い。土台、共同建議採択後のあとから出てきた建議書なぞに効力はない。委員の法的根拠を持ち出して騒いだとしても、議長の県議二人の首を飛ばせば良いだけだ。県と郡の威光に傷はつかん。)


 留守もまた、柴と同じ考えでした。官吏にとって一番大事なのは自分たちの所属する組織です。住民はその恩恵で生かされている行政管轄下の付属にすぎないのです。つまりは、お上の沙汰に唯々諾々と従っていればよいだけの存在です。


 しばらく街並みを眺めた留守は再び椅子に座ります。途端に目の前の机に座る書記たちの緊張感が高まったのか、皆、無言で筆を走らせています。


 それを見ながら、留守はニヤリと笑い、再び思索を続けます。


(平民どもが、まったく、余計なことをしてくれる。人が良いだけのお公家さんに見せたら、意味も解さずに受け取ってしまいかねない。……まったく、国学の学者先生の次は、世間知らずのお歯黒とはな。お守りも疲れるわい。)


 前任者の郡長であった筒井明俊は、日本の国体についての著述を多数執筆する国学者で、後に県立病院の済正館さいせいかん創設に功があったと山形県史にその名を残しますが、御一新がなければ、寺子屋の親爺がせいぜいの人物であったかもしれません。済正館は、山形市立済生館病院として現在に至っています。


 また、現職の五條為栄郡長は公卿の出身で、幕末には尊攘討幕派公卿の列に名を連ねて戊辰戦役にも出征し、明治政府の成立とともに陸軍少将に任じられました。しかし、格別の能力や軍功に恵まれたわけでもなく、たまたま時流に乗っただけの公卿の一人でした。


 その後は中央の要職に就くでもなく、侍従から東京府四等出仕となった頃に三島の知遇を得て、三島の県令就任に伴うツテで山形県入りしました。山形では、大区小区制時代の山形県第一大区区長、郡区町村制時代となってからは山形県の県北にある最上郡郡長を経て、東村山郡の郡長となったものでした。


 早い話が、どちらも単なるお飾りです。留守筆頭郡書記にとっては、何も考えず、ただそこに座ってくれてさえいれば良い存在に過ぎませんでした。


「ところで、天童方面には誰を行かせたかね?」


 再び、留守が和田に尋ねます。


「天童とその周辺には、今回の別段建議書に加担した者がいるようですので、津田くんと原田くんの二人を送ってあります。」


 津田は租税担当郡書記の筆頭で、和田に次ぐ郡役所ナンバー3の津田端つだ・はじめです。また、原田というのも租税担当郡書記の原田種禮はらだ・たねのりのことです。


「ふむ、良かろう。……では、民権結社の不逞の輩が、郡内に入り込んだ形跡はないか。」


「今のところ、確認されてはおりません。津田くんにもその旨、目を光らせるよう、言い含めておきました。」


 そう言った和田は、更に別の書類に目を通しながら答えます。


「なお、山形の警察署とも連絡を取り合っていますが、不逞分子が県庁周辺に潜り込んでいる様子もありません。山形では中央のような演説会も、今のところ、まだ開かれてはいないとのことです。」


 既に確認が取れている情報なのでしょう。和田は留守の問いかけに、よどみなく答えます。


「うむ。しかし、常に監視は怠るな。三島閣下のお陰で栗子が間もなく開通するのはめでたいが、そこから入ってくるのは好ましいものばかりとは限るまい。福島に門戸が開いて東京と繋がるとなると、不逞の民権論者どもがいつ県下に潜り込むかも分からん。開通前の今からその備えをしておかねばならない。」


 福島と米沢を結ぶ栗子は、関山新道に先駆けて着工し、日本で初めての最新式の岩盤掘削ドリルを使用したものでした。翌明治14年には開通する予定で、その際には天皇の行幸を仰いで大々的に祝われることになります。


「わが郡内で暴民の一揆は絶対に許さん。悪い雑草は芽の内に摘み取れ。平民はお上の決めたことだけに従っておれば良いのだ。」


「はっ!」


 言わずもがなの決意を改めて語る留守でした。そして、もうひとつの懸念のある地区について再び和田に尋ねます。


「山野辺村の方はどうだ。」


「山野辺村周辺の者たちは、恐らく、天童の者からそそのかされただけと思われます。取り敢えず地縁のある渡辺くんを遣わしましたので、ますば慰撫に努めさせようかと思います。」


「うむ、渡辺か……、まあ、良かろう。」


 渡辺は、出納担当郡書記の渡辺吉雄わたなべ・よしおで、郡役所の中では郡書記でも下っ端の序列、8人いる官位17等の最下位郡書記の1人でした。しかし、和田書記の言葉にもありましたように、渡辺は高楯村在住の地元出身官吏で、山野辺村と高楯村の戸長を兼務する渡辺庄右衛門の縁者でもありました。


 当時の郡役所書記がほとんどが士族出身者で占められている中で、地主の縁者が書記を務めているというのは、彼が高楯村を領した旗本の高力家こうりきけの被官に養嗣子に入ったがため、一応は士分階級にあるからでした。


 高力家は徳川家康の祖父に当たる松平清康の時代から徳川家に仕え、高力清長こうりき・きよながの時代には姉川の戦い、三方ヶ原の戦いに参陣し、明智光秀謀反時の伊賀越えにも従い、小牧長久手の戦いにも参陣しました。その後、江戸時代、忠房ただふさの代に遠江浜松藩主として三万石を領し、島原の乱後の島原藩四万石の藩主として入部しましたが、その嫡子・隆長たかながの代に失政を咎められて改易となります。


 出羽国村山郡に知行したのは、島原藩主隆長の弟・政房まさふさの系譜で、兄の改易とはまったく関係なく、村山郡に3000石の知行を得て、そのまま幕末まで系譜が続くことになります。高楯村に代官所を置いた高力家はこの分家の系統で幕末まで存続しました。


 しかし、この分家高力家は三代・長氏ながうじが真田家からの養子を迎えたことを始め、幕末の八代・直行なおゆきまで6人の当主が続けて養子でした。当時、どこの大名家も旗本家も経済的には手元不如意が続いていましたが、その対策のひとつとして、当主の縁者や重臣の家に地元の有力地主や有力商人の子弟を養子に迎え、経済的な支援を仰ぐ手法もよく見受けられました。


 同じ東村山郡内の天童藩織田家においても、有力藩士に地元有力地主の子弟が養子に入ったり、その娘が藩主の側室に上がるケースもしばしば見られます。郡書記末席にある渡辺吉雄もまた同じような出自で士族となったものです。


 つまり、いかに群役所の下役とはいえ、今回の連合会採択決議の先触れを行うにあたって多少の混乱や反発が予想される以上、地元ではそれなりの名士となっていた山野辺村戸長・渡辺庄右衛門の縁者としての調整力を期待しての人選でもありました。


 当時の社会情勢として、手元不如意の傾向にある大名や旗本・御家人が、その所領に住む地主や商家からの経済的支援を期待して、地元有力者子弟を通じて関係を取り持つ手法が見受けられ、こののち東村山郡での関山新道開削反対運動で重要な役割を演じる天童地区の二つの地主にも同じようなケースが見られます。


 まず、天童村の地主佐藤家からは、織田家御典医・武田元佑たけだ・げんゆうの養子に地元地主の子弟を縁組し、実家の経済支援で大阪の尾方洪庵の塾に医学修行に行かせました。彼が後に県立済生館病院医師となる武田玄々(たけだ・げんげん)こと佐藤直道さとう・なおみちで、後に登場する天童村戸長・佐藤直正さとう・なおまさの直弟、佐藤伊之吉さとう・いのきちの叔父にあたります。また、荒谷村あらやむらの地主・村形家からは、娘が織田家最後の当主・織田信学おだ・のぶみちの側室にあがり、お八重の方と呼ばれています。


「よいか、皆も心して聞け!」


 留守はひときわ大きな声で、部屋中に聞こえるように言います。部屋にいる郡書記は全員が手を休め、姿勢をただし謹聴しました。


「愚民どもに決して甘い顔をしてはいかん。あ奴らは目先の損得しか分からん。百年先を見据えた県令閣下のありがたい思し召しなぞ分かろうともせん。」


 そして、一拍置いて、ひときわ大きな声で言葉を続けました。


「故に、無知蒙昧な者どもが何と言おうと、お上の御威光をもって、われわれは粛々と仕事を進めていかねばならん。それがとりもなおさず住民自身のため、国家のためなのである。故に、われらの行為のひとつひとつが国家そのものなのである。皆も、さよう心得よ。」


「ははっ!」


 部屋中に十数人いる書記たちの声が響き渡ります。


 公共事業の概念や方法が未確立であり、大手ゼネコンもないこの時代、工事費用の捻出や労働力の確保は困難をきわめ、住民の負担は不可欠と考えられていました。


 いまだに財政基盤が脆弱でありながらも殖産興業政策を展開する明治政府には、地方のインフラ整備にまで手が回りません。


 三島県令は、当時としては全国的にも珍しい広域インフラ整備を地方から推進し、山形県から南東北・北関東、そして東京へと交通網を広げ、地方から中央への逆コースで殖産興業事業の波を波及させようとしたのでした。


 この三島構想は、留守郡書記の言う通り、百年後であれば、名県令の強力なリーダーシップによる大英断と高く評価されるでしょう。


 しかし、同時代人として無慈悲な権力発動による強制を強いられた人々にとっては、生命にも関わる非常な苦痛を伴うものであり、それに抵抗する無力な農民たちを、一体誰が非難できると言うのでしょう。


**********


 留守郡書記の前には、黙々と関山新道計画推進に邁進する書記たちがいます。


 彼らは皆、県令の意を体した留守郡書記の信念をわがものとして、国家百年の計に参画しているのです。


 明治国家の統治末端、若さと自信に溢れた青年国家の毛細血管まで、活力と精気をみなぎらせながら雄々しく活動しているのでした。

 東村山郡役所では、実質的な郡役所のトップたる郡書記留守永秀以下の郡職員が、国家のためとの信念に基づき粛々と関山新道計画の実現に邁進していました。東村山郡住民の願いであった別段建議書も、楯岡村で開催されていた村山四郡連合会に参加していた実務担当者である柴恒玄郡書記の手によって密かに闇に葬られてしまいました。そして、山野辺地区に派遣されていたのは、地元士族でもある地縁のある渡辺吉雄郡書記でした。

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