第10話 決行前夜(改0928)
恩師・石川尚伯翁の勧めで改名した安達峰一郎が山野辺学校を卒業した頃、西高楯村では関山新道建設の問題が沸き起こります。三島通庸県令のゴリ押しと共に、村山四郡の住民たちの様々な思いが交錯する中、少年たちも憤りを押さえようもありません。少年たちは純粋無垢な正義感に駆られ、村のために立ち上がろうと考え、郡役所の役人が西高楯村にやってくるとの情報を受けた少年たちは、この役人を村から追い払ってやろうと決意したのでした。
翌日、西高楯村の一部では、ちょっと不思議な出来事がありました。
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安達峰一郎の家では、縁側に近所のお母さんがお茶飲みに来て、峰一郎の母しうと四方山話に興じていました……。
「おどごしゅは、毎晩毎晩、大変だずねぇ」
「んだずね。どうなんだが、案配いぐ、行げばしぇえげんとも。お父さんさ、危ねぇ事だげねぇどしぇえげんどなぁ……」
女房衆の話題は、毎晩集まって話し合いをしている男衆のことのようです。女房衆としては、男衆が頭を抱えている関山新道問題については知っているものの、それがどのように進展しているかまでは分かりません。うまく収まってくれれば良いがと願うしかありませんでした。そして、自分たちの夫や舅の身を案じる願うばかりです。
「んだずねぇ。なんぼぐらい、じぇね(銭)出せって言てくっべなぁ」
「きんな(昨日)が最後の話す合いで、お父さんも楯岡がら帰て来たがら、こいがらどゆ風にしたらしぇえが、朝から本家さ行って会議の報告ばして、何が相談しったみだいだべ」
「なんぼ払わんなねの?おしぇで、おしぇで!」
「お父さん、おらさもおしぇでけねんだ。なんだが、会議で北郡と西郡ざあらぐて、東郡が、うがぐ払わされるみだいだべっ、てだげ言ってだっけ。」
夫は会議での内容を家族に教えてはくれなかったようですが、どうやら北村山郡と西村山郡の代表委員の発言が強硬で、東村山郡の負担が多くなりそうな雰囲気だったということだけは、妻にも感じられたようです。
先にも述べた通り、楯岡村での会議の合間に山野辺地区と天童地区から来ている委員たちが、地元の村に急報して戸長たちの知恵を集める一方で、官製お手盛りで結論ありきの建議書に対抗し、独自の建議書作りに取りかかり、議長にそれを提出したのでした。
しかし、住民の願いもむなしく、既に前日の会議最終日、6月28日の時点で、東村山郡住民苦心の建議書をどのように扱ってくれるものか、まだ、各村の戸長も会議から帰った委員の誰も、その経過については知らされていません。
「まだ娘ば奉公さ出さんなね家も出はてくっかもすんねべ。」
今回の新道建設にあたって、大きな負担額を役所から通達されれば、また娘を奉公に出さなければならなくなる家庭も出るかもしれない。それは腹を痛めた母としては、文字通りに身を引き裂かれる思いだったでしょう。しうとしては、母の身として哀しいことではありながらも、そのような事態を考えざるを得ませんでした。
「ほだな、むつこい事、さんね!」
そんな可哀相なことはとても出来ない、その思い母として共通した思いです。仕方ないことだとは思いながらも、言わずにはおれなかったのでしょう。
「どごも子だくさんだべがら、口減らしば、さんなねぐなっべした。」
どの家も子沢山だから口減らしをしなければならなくなる、非情ではありましたが、それが現実でした。
「やんだずなぁ……」
子供たちのことを思うとき、女性たちは、その表情に暗い影を落とさざるをえませんでした。
当時の農村では、娘を奉公に出すというのは、娘を人買いに売るのと同じ意味でした。どの家も子だくさんでしたから、口減らしというのは人権がどうのと言う問題ではなく、農村の生きるすべとして、気持ちとしては嫌なことでも、当たり前に生活手段の選択肢の中にあるものでした。
ちなみに、かつて日本中が毎朝のお茶の間で見た朝の連続ドラマ、橋田壽賀子原作の『おしん』で、小林綾子演じる「おしん」が人買いに買われて、伊東四朗・泉ピン子が演じる両親のもとから筏で連れ去られる最上川の名シーンは、設定では北村山郡の山奥の寒村ですが、実際の撮影は東村山郡の山奥の廃村で撮られたものでした。
東村山郡の住民には比較的余裕があるとの分析は郡役所の勝手な評価であり、実際に凶作にでもなれば、年貢の収奪にあえぐのはどこの農村でも同じです。少々の収穫高の違いなど、一度の凶作で吹っ飛んでしまいます。
つまり、村山郡には東西南北4郡の優劣などはなく、どこも貧しい過酷な環境の中で、逞しく強くしたたかに生きて行かなければならなかったのです。
今回の降って沸いたような臨時の賦課金は、生活を直撃するものだけに妻たちも深刻にならざるを得ませんでした。
「そういや、しうさん、最近、この辺でよそ者なんか、見がげだ事、あっか?」
お上の臨時賦課の話しに嫌気がさしたか、ふいに、そのご婦人が唐突に話題を変えてきました。
「いんや、ほだな人がその辺ば通ったら、すぐ分がっべず。なしてや?」
土地の往来に厳しかった江戸時代から数えてまだ十年余り、当時は、お伊勢参りなどを除けば、まだ旅行者も珍しく、農村部によそ者が来ればすぐに分かります。
「気のせいだべげんと……、だら汲み(肥え汲み)どが、おごさま(お蚕)のワラダどが、べご(牛)の縄どが、何が、かにが、ちょこちょこど見当だらねくてよ。盗むような物でもねぇべげんとな。」
「だら汲み」とは、肥料用のし尿をすくう大きな柄杓で、「だら」はその「し尿」のことです。「ワラダ」は養蚕の道具で、大きな円形の竹や藁で組んだ蚕の床敷ですが、梅などの天日干しにも使われる生活必需品でした。
その婦人は、どうやら、農家の仕事道具が見当たらないことを嘆いているようです。
「どっかさ置ぎ忘っだが、片付げ忘っだんでねぇの?」
「んだずねぇ」
その婦人も、わけが分からないといった様子で、首をひねっていました。
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峰一郎の母親たちが茶飲み話に興じている縁側のある建物のすぐ裏手、そこでは峰一郎と三浦定之助と石川確治のいつもの三人組が不思議な格好で固まっています。
(峰……大丈夫だが……?)
(しぇえがら、定ちゃん、もうちぇっと、じっとしてれ……)
(んだげど、臭えべ……)
峰一郎は牛小屋から持ってきた縄を右肩にグルグル巻いて、なぜかワラダの端を口に咥えた状態で、壁に張り付いた確治から左腕を捕まれて、倒れずに支えられています。
一方の定之助は、右手に肥え桶を抱え、なぜかもうひとつの肥え桶を頭から被った状態で、民家裏の用水路をまたいで、両足と左手の三点で身体を支えてます。更に峰一郎の右手が定之助の着物を背中から掴んで落ちないように支えています。
「肥え桶」は、畑の肥料用に使われる、し尿専用の桶のことで、それを頭からかぶった格好の定之助たるや、たまったものではなかったでしょう。
(こっだなどぎに、確治の母ちゃん、お茶飲みな来んなず。……う~~、臭え……)
(俺だって、しゃあねべした!)
思わぬ処で定之助から批判された確治は、「俺が知るかよ」と、口をとんがらせます。
峰一郎たち幼馴染みは、定之助の家が峰一郎の家の南隣のお隣さんで、確治の家が吉祥天宮を挟んで峰一郎の家の反対側にあるご近所さんでした。ですので、子供達と同じくお母さんたちもご近所の仲良し同士です。その確治のお母さんが峰一郎の家に来ているようです。
いつもの三人組は、どうやら、確治が手を滑らせた肥え桶を、峰一郎がお手玉して、最後に定之助が頭から肥え桶を被って受け止めたものの、定之助が放り投げてしまったワラダを峰一郎が取り損ねながら口で咥え、バランスを崩して倒れそうになった峰一郎の左手を、確治が掴んでなんとか踏ん張った、でも定之助が落ちそうになったので峰一郎が右手で定之助の着物の背中を掴んで支えた?……もののようです。
当時の肥え桶は、大人の頭でもすっぽりと余裕で入る大きなもので、定之助は両肩まですっぽりと入って、中に充満した匂いの凄まじさと言ったらとんでもないものでした。更に峰一郎に着物を背中から引っ張られて、定之助のフンドシ姿の可愛いお尻がプリンと丸見えです。
峰一郎と確治は支え合うのに踏ん張りつつも、笑いまでをも堪えなければならない、定之助とは別次元の地獄を味わわされていました。
いたずら坊主ども、てんやわんやの図でした。
(しーっ、しーっ!)
定之助と確治が言い争いになりそうだったのを、峰一郎がワラダを咥えたままで押さえようとしています。
ちなみにこのワラダとは、養蚕で使用する蚕の丸棚のことです。細かなことですが、東北は戦後の昭和50年代まで養蚕業が盛んでした。明治初期、日本の貿易実態は完全な入超で、貿易収支は圧倒的な赤字でした。三島通庸が県令に派遣された明治8年当時では、輸出総額1861万円に対し、輸入総額2998万円で収支は1137万円の赤字です。現在の額で約2300億円が海外に流出しました。
この状況を改善する目的で大久保利通は東北の開発を目論み、その一環の中に三島の山形派遣もあります。この動きの背景にあるのは、日本の輸出産業品目の最有力商品として生糸がもっとも有望視されていたことがありました。その生糸増産のため、養蚕地帯への振興策として東北の産業へのテコ入れがはかられます。後に詳しく述べる宮城県の野蒜築港事業もその一環となっていたのでした。
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ともあれ、腕白小僧どもが家の裏手で声も立てずにあられもない恰好で固まっています。そこへ、いつも遊びに来ている、事情を何も知らない、親戚の子の清十郎がやってきました。
「……兄ちゃん、……何しったんだ?」
(ば、ばが!清十郎!しーっ、しーっ!)
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「あんれ?清十郎、裏で遊んでだんだが……。水路もあっさげ、ほっだなしぇまこいどごで、危なぐねが!」
家の裏には生け垣と建屋の間のに田んぼに水を引く用水路もあり、そんな狭いところに行って危なくはないかと、しうが、母屋の裏から聞こえる清十郎の声を耳にして、縁側から立ちあがりかけて腰を浮かしました。その時……。
「びぇ~~~~~~ん!」
「おがあぢゃ~ん!転んで痛ぐした~~~!血ぃ出っだぁ~~~~~~!」
峰一郎の弟の幸治郎が、まだ赤ん坊の隆治郎をこづいて泣かせたと同時に、自分もその泣き声に驚いて転んでしまい、敷石にぶつけて膝をすりむいてしまったようです。
「おめだ!なにしったのや!……こばがくさいったら(馬鹿じゃないの)!」
しうが子供の泣き声に慌てて振り返り、峰一郎が隠れている場所とは反対の方向に駆けていきました。
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(峰、今だべ!)
(おう!)
峰一郎の弟たち、幸治郎・隆治郎のいいタイミングでの騒ぎに乗じて、確治が思い切り峰一郎を引き上げます。引き上げられた峰一郎も定之助を引っ張り上げます。
(やっべぇ……、まんず危ねえっけべ。)
(幸治ぃ……、助がっだぁ……。)
ほっとする峰一郎と確治の二人に対し、頭からかぶった肥え桶を外し、その猛烈な臭さに、定之助は苦虫を噛み潰したようなしかめっ面になりました。
それを見て峰一郎と確治は、つい笑いを噴き出しそうになりましたが、定之助がジロッと睨んだので、口を塞いで必死に堪えました。
(ぷぷぷぷぷぷっ……。)
しかし、すぐに3人は顔を寄せあい、頷きあいます。
(だば、行ぐべ。)
そして、3人は一目散に駆け出しました。
「兄ちゃ~ん、俺も行ぐ~!ちぇでってけろ~!」
3人の少年の後を、いつも必死に追いかけて走る清十郎です。
連合会共同建議採択の翌日、明治13年6月29日、まるで少年たちの壮途を送るかのように、6月の末には珍しく、青空が見える梅雨の晴れ間の日のことでした。
今日も少年たちを見守る小鳥海山の大杉が、西の山稜から少年たちを見守っていました。
子供たちだけでなく、西高楯村の留守を守る母親たちも関山新道問題の行く末を心配していました。また大きな負担を強いられることにでもなれば、不本意ながら娘を売らなければならないような貧しい家も出て来るかもしれませんから、女房衆も問題の行く末に気が気でありません。そんな中、峰一郎たちは東村山郡役所の役人を追い払うべく、迎え撃つ準備にいとまがありません。いったい何に使うのであろうか、秘密裏に村のあちこちから様々な道具を集めています。




