おわりに~関山新道建設反対運動が峰一郎にもたらしたもの(改2)
本作品では、関山新道に関する問題が筆者の想定を超えて非常に長くなってしまいました。最終話は、第一話と同じく、大杉のもとを訪れた峰一郎の姿を描きました。大杉を見つめる峰一郎の前に一羽の白鳥が現れ、やがて白鳥は南の空へ飛び去っていきます。その白鳥の飛び去る姿を見送る峰一郎の姿で物語のエンディングといたしました。
その峰一郎の見送る先は、南のかなた、帝都東京か?はたまた別の何かか?あの白鳥に自らの未来を託して見ていたものか?それとも、白鳥に恋しい梅の姿を重ね合わせ導かれようというのか?それは読者の皆さんのご想像にお任せします。
この後、峰一郎は山野辺学校教師の職を辞し、高楯村を離れ県都・山形に出ていきます。山形で更なる学問を積み、そして、更に3年後の15歳の時、あの関山隧道を越えて仙台に出て、塩釜湊から東京へと上京を果たします。
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<登場人物について>
作品中、東西南北を冠した地名が非常にたくさん出てまいります。物語の舞台となった東村山郡、県都・山形を擁する南村山郡、そして、関山騒動の発端となる関山新道の起点の関山村と連合会の開催された楯岡村を擁する北村山郡、最後に、紅花の集散地でもあり紅花商人で栄える谷地を擁し、三島県令の意を受けて仲裁に動いた西村山郡、初めて耳にする方にはどれがどれだかこんがらがったことでしょう。ですので、本来、峰一郎の育った高楯村も、東高楯村と西高楯村と別々の村になっていますが、混乱を少なくするため、意図的に両者を合わせて高楯村といたしました。ご賢察くださいませ。この地分けは、江戸期の幕府領(旗本高力家領)と天童織田藩領であったことに起因します。
なお、峰一郎や久右衛門が住んでいたのは西高楯村であり、天満神社・了広寺など、主要な登場場面もすべて西高楯村にあります。また、渡辺庄右衛門は山野辺村・東高楯村・西高楯村の三村の兼任戸長となります。
安達清十郎という人物は、作者のペンネームであると同時に、実在の人物でもあります。作者の数代前の御先祖様であり、古くは江戸時代の元禄期前後まで記録が確認され、代々、清十郎の名乗りを世襲しています。郷土史家の先生によれば、安達家の家系で、血縁で直系が残っているのは清十郎の家系だけだそうです。安達久右衛門の家系のどこからの別れかは不明です。なお、清十郎の名前は明治9年の「地価並地租一筆限帳」に東高楯村の副戸長としての存在が記載されていますので、登場人物としてはかなりサバを読みすぎていますし、従弟でもない遠縁です。あくまで作者のわがままで登場させました。
峰一郎の幼馴染の竹馬の友として、物語の重要な存在である三浦定之助と石川確治の両名にも実在のモデルがおります。年齢のサバ読みは当たり前として、しかし、やはり高楯村在住にはこだわって選びました。三浦定之助のモデルは西高楯村出身の同名人で、本稿では峰一郎の年長の設定ですが、実際の生まれは明治20年で、この時、まだ生まれてもいません。水産試験場の技師・場長として全国で活躍し、漁業船舶関係者のためにマスク式潜水機を発明した第一人者です。
石川確治のモデルも西高楯村の同名人で、こちらも峰一郎の年長の設定ながら、実際の生まれは明治14年です。東京美術学校で彫刻を学び彫刻家として名をなして、帝展審査員や国風彫刻会代表、日本美術報国会常任幹事等を努めました。作品中では峰一郎・定之助とともに腕白小僧の代表で描かせていただきましたが、斎藤茂吉に師事して短歌にも秀でた文化人です。
なお、両名の父として登場する石川理兵衛や三浦浅吉も実在の人物ですが、確治や定之助の父ではあるかどうかは分かりません。石川理兵衛は「安達久右衛門家文書」の明治8年3月15日、西高楯村伍長拝命と記載された名前を拝借しました。三浦浅吉は同文書、明治10年前後の西高楯村資料に出てくる名前です。
物語後半では、定之助や確治以上に峰一郎の友として助言をした山野辺村の垂石太郎吉もモデルがあります。山野辺村の同名人ですが、峰一郎より9歳年長の万延元年生まれです。これまた年齢のサバ読みです。彼は山野辺村最大の地主・垂石権吉の次男として生まれ、上京して東京帝国大学に入学した俊英でしたが、家人からの呼び戻しを受けて退学帰郷しました。後に山辺町の四代目町長として郷土のために尽力しました。峰一郎の結婚に際しては仲人も務めましたので、史実においても刎頸の友と言えます。
峰一郎のライバルから友人になった北垣村の武田泰助も実在の人物です。北目村の医師武田賢隆の息子、武田泰亮をモデルにしました。泰亮は慶応3年生まれですから、峰一郎より2歳年長となります。山形県医学校から東京医学校に進み主席で卒業しました。北里研究所にも勤めて伝染病研究にも携わり、宇都宮市下野病院院長を長らく勤めました。
峰一郎と深く心を通い合わせた伊之吉の娘の梅は実在の人物ではありません。どうしても峰一郎の青春に彩りを添えたかった作者の我が儘です。佐藤伊之吉には、妻・律との間に音松という子供がいます。明治末年以降であれば間違いなく男子の名前と思われますが、幕末・明治初期においては有名な女性の中にも幾松~桂小五郎の妻~、捨松~大山巌の妻~等の女傑の名前も多く、この時期においては男子とも女子とも取れる名前ですので何とも申せません。佐藤家は天童の大地主でしたが、この住民運動に多くの資産をつぎ込んだために生家の資産を危うくしたと言われ、この音松の行く末については分かりません。
伊之吉の盟友として登場させて頂いた村形宇左衛門は、荒谷村戸長を務めた地元の地主として実在の人物であり、東村山郡の別段建議書を始め、明治13年末の東村山郡住民の騒動を裏付ける資料などを後世に残してくれた歴史研究的には貴重な人物です。しかし、実際の年齢は、伊之吉よりも遥かに高齢で、資料の追跡によれば明治13年当時はおよそ70歳を超えており、当時ではそこそこ長寿の高齢者であったと思われます。しかし、地元天童地区での伊之吉の盟友をどうしても欲しかったため、彼の年齢を大きくサバ読みさせていただきました。
ちなみに、郡役所の郡書記人名および担当については、天童市立旧東村山郡役所資料館所蔵郡役所日誌中の明治十三年十二月の「郡吏員姓名録」を参考にさせていただきました。その中の下級郡書記の中に渡辺吉雄という人物が列挙されていますが出自は不明です。県庁職員や郡役所書記は、ほぼ士族階級で占められており、上級職員は西国出身士族が多く、下級職員は地元出身士族が多い傾向にあり、渡辺吉雄も地元山形県士族の可能性は高いと思えます。当時、経済的支援を期待して地元有力者子弟から養子を得るという手法がしばしば見受けられましたが、渡辺吉雄が高力家被官の養嗣子というのは筆者の創作です。後に紹介する峰一郎の活躍の舞台のため、敢えて設定させていただきました。悪しからず。なお、第36話で御紹介しましたように、郡書記上級者の小松・拜郷が山形県士族というのは史実ですが、残念ながら、資料での確証までは得られませんでしたので、彼らが確実に上士階級であるかどうかまでは定かではありません。物語の筋立ての都合上でそのようにさせていただきました。
一方、県庁官吏として登場する高木秀明土木課長は、コミュニケーションのために薩摩弁を捨てて標準語を駆使する冷徹な能吏のイメージですが、実際にはそこまでの冷徹な感じの方ではなかったようです。やはり元気な南国薩摩兵児で、薩摩弁もしっかり話していた人物であったようです。あくまでも住民とは反対側にいる立場から、冷徹吏僚の典型として描きました。
特に物語の主題には影響はありませんが、第16話で、若干触れた長崎村戸長の小関良兵衛という人物は実在の人物ですが、本業は不明です。長崎村の主だった地主にも主要な商家の名前にも上がっていません。戸長・私塾・郵便所長は事実ですが、本業は不明のままでした。ただ、長崎村の茶屋として「小関吉治郎」の名前が見つけられましたので、話の筋に乗せて、「船宿も併せ営んでいる茶屋」という設定にしました。
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<物語の設定について>
小説内の設定において、基本的には史実の流れに沿って進めております。しかし、細かな詳細につきましては整理された資料が少なく、また、未整理の資料が多いために、筆者の推測や創作を盛り込ませていただきましたので、その点について、以下に解説をさせていただきます。
村山四郡連合会で東村山郡が作成した別段建議書の作成経緯については詳らかになっておりません。そこで筆者としては、山野辺・天童の戸長たちに直ちに報告をして意見を徴しつつ、会議出張中の委員達が鳩首協議して作成したものといたしました。また、この建議書がどのようになったかの顛末もまったく不明です。本作では会議に出席した郡書記が独断でその文書を焼却したといたしましたが、これらの一連の別段建議書に関する経緯については今後の研究成果を待ちたいと思います。
また、本作では、会議終了直後に連合会議長・副議長が各郡役所に会議結果を報告、翌日には郡役所官吏が主要戸長へ内々に通達し、更に四郡長による三島県令への郡長布告奉呈が行われました。しかし、これらを裏付ける資料はありません。しかし、各議員帰郷の上での結果報告に委ねるのは連合会としては無責任ですし、噂として郡内に広まる前に公式の統一した内容報告が必要であることは自明の理です。そして、それをすべき位置にいるのが議長・副議長であり、火急的速やかなる会議結果報告が会議主宰たる議長名にて報告があるのが当然です。住民討議の結果が正式手順で各行政主管たる郡役所に報告され、それを受けて各郡役所が住民に内容を布達するのは当然な手順です。そして、正式な各戸長通達は定例戸長会議です。これは重要通達事項であるだけに、出張所的な山野辺村会所で済ませるのではなく、山野辺地区戸長を含めた東村山郡全戸長を郡役所に召集するために、なんらかの通達があったと推察されます。そのため、翌日から下級郡書記を主要戸長宅に派遣した設定にしました。だからこそ、その後の少年達による郡書記一行への襲撃事件へと繋がっていきました。同様に、県令への郡長からの正式な報告は当然にあったでしょうが、本文のように時間を合わせて四郡長が勢ぞろいしたかは分かりません。これも、筆者として三島以下の主要人物を一堂に会したかったためです。
第13話における大久保と三島のやりとりは、実際は文面による遣り取りであった事が残った書簡で分かっています。しかし、大久保の存在感と関わりをより深く印象付けるために、内務省執務室での会話といたしました。
なお、少年たちが小鶴沢川で起こした事件、更に、少年たちの父親たちが少年時代に幕府代官所で起こした事件は、どちらも、もちろんフィクションです。物語として「蛙の子は蛙」という事にしました。
東村山郡役所は、現在、「旧東村山郡資料館」として解体復元工事を受けて舞鶴山西麓に存在しますが、創建当時は舞鶴山東麓にありました。ですので、創建当時は舞鶴山を挟んだ西側にある山野辺地区は東村山郡役所から見渡すことができません。しかし、物語中では、留守郡書記など、役所の窓から遥かに山野辺地区を見渡す情景は意図的に描写させていただきました。
第32話で、峰一郎が梅と出会うシーンでは、峰一郎が美しい星空の下で笛を吹く場面がありました。実は、峰一郎の少年時代のエピソードに、ある満月の夜に月明かりに誘われて気の向くままに笛を吹きながら、夜遅くまで村を徘徊したことがあり、帰宅したら父親にひどく叱られて家から閉め出されたということがありました。途方にくれて外で泣いていると、母親が父に内緒で助けてくれたそうです。後に、外交官として海外に赴任した時も、満月の夜は、この話しを妻に話して聞かせていたそうです。そのエピソードをアレンジして梅との話しに織り込ませていただきました。
物語の大半を占める峰一郎の果たした役割についてですが、峰一郎が久右衛門と天童村に行き、その後、久右衛門と伊之吉の連絡役を務め、最後に捕縛された伊之吉に会いにいったエピソードについては史料的な裏付けはありません。山野辺学校の教員となったことなど、身分・立場についてなどの歴史資料に残っている部分に関しては史実に沿って話しを進めましたが、実際に峰一郎がこの住民運動にどのように関わっていたかという資料はまったく残っていません。また、峰一郎やその周囲の人物の回顧談のようなものも、この期間については沈黙を守っています。
県庁や郡長、そして郡役所に使嗾された住民による、関山新道歎願や天皇陛下行幸運動については基本的に史実に基づいた経緯を基本としています。しかし、三島県令が天皇行幸に関連して隠密裏に上京出張した件については作者の創作になります。
第38話と第47話では、住民が郡長に対して納付延期の歎願をしたエピソードをご紹介しました。このような動きがあった可能性は想像に難くありません。というのも、第1期の納付期限締切が過ぎてから、住民側からの上申書提出が行われるまでの数日間、郡役所の反応があまりにも緩慢で、実際にはどのように対応していたかの記録も見当たらないのです。ですので、実際には激しく厳しい対応を取っていた可能性もありますが、この作品においては資料的な裏付けは確認できませんでしたが、順当に考えて住民からの上申書提出までのなんらかの時間稼ぎの運動が行われたものといたしました。
なお、この時間稼ぎの歎願に登場した人物は、郡長公舎を訪問した9月25日の陳情では伊之吉以外の三名は、裁判に提訴した各村代表者の中から、盟約に加盟して委任状を提出した人数の多い村から作者が選んだものです。また、10月1日の陳情では郡役所そのものへの陳情ということで、佐藤直正天童村戸長以下の天童地区の主だった村の戸長たちといたしました。
郡内の不穏な状況を喝破して留守が部下に対して指示を出したという事について、特に資料的な裏付けはありませんし、留守が私見として県庁の高木課長に送った文書もありません。これらについては、あくまでも郡役所の対応について筆者が想定したものです。
作中、峰一郎と梅の出会いと別れの場所であり、役人から取り囲まれる危機を潜り抜けた場所でもある『落合の渡し』について、そこは須川の湾曲地形のために大雨や長雨の増水時には度々洪水氾濫を起こす難所でもあり、架橋も困難な場所でした。『蛸首』という地元の人々が呼び習わしている地形も実際にあるものです。この場所にようやく初代落合橋が完成したのは昭和8年12月のことで、令和の現在の橋は昭和63年竣工の3代目です。しかし、本作に登場する『落合の渡し』は、筆者が創作設定したもので、現実に存在はしていません。江戸時代より明治にかけて須川には10ヶ所の渡し場がありましたが、もっとも北側の最上川合流点に近い渡し場でも長崎村より南側にある達磨寺村と、寺津村より南側にある船町村を結ぶ渡し場でした。峰一郎が天童に行くために、長崎村と寺津村を結ぶ渡し場を筆者が創作設定いたしました。更に、現在の橋梁名称にもちなんで、渡し場は『落合の渡し』としました。細川たかしさんの唄ではありませんが、渡し場という場所は切ない恋の場面にはピッタリでしたので、この場を多く登場させていただきました。
第42話でのエピソードについて、明治13年9月の時点で、三島県令が栗子巡幸の件で上京した事実はありません。しかし、北郡と南郡の二人の郡長が、明治13年に上京し行幸を陳情したのは事実です。もっとも、作者の都合で勝手に陳情時期は微妙にずらしております。悪しからず。なお、この時に五條郡長の人事についての話題に言及しましたが、この人事問題がいつの時点から取り沙汰されたか、人事に説明書なんてありませんから、明確な資料は確認できません。しかし、以後の経緯から考えて、この9月末から11月初めにかけての1~2ヶ月の間でのことと思われます。
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果たして関山新道建設運動が峰一郎にもたらしたものは何だったのでしょうか?この運動と挫折が峰一郎の意識に何をどのように刻んだのか、それは本人ならぬ身では推測するしかありません。かれの法律家としての信念は、自国にとどまらず、外交官の道を選ぶことで世界へと目を向けさせることとなります。そして、国際連盟という峰一郎の理想を体現した組織の成立の中で、彼は国際平和主義の具体的な実践的活動を始めます。国際司法裁判所所長としての実際的現場での法律主義の実践です。
関山新道問題がこの峰一郎に与えた影響は、その後の峰一郎の青春時代にいよいよ醸成されていくものと思われます。その峰一郎の山形時代を青春譜・第二部として上梓できるように、また資料を集め創造力を高めたいと思います。
とりあえずは、物語執筆の過程の中でいろいろと判明した事実の整合性を整えるため、本編の見直しをさせていただきます。特に、渡辺庄右衛門さんのくだりについては、筆者の勝手な勘違いにより、庄右衛門さんに申し訳ない役割を演じていただきました。この部分については全面的な改訂が必要かと思われますので、一度通読いただきました方にも、出来れば御再読いただき、ご批評など賜れれば望外の喜びです。
ここまで長きにわたりお付き合いいただきありがとうございました。なお、今後ともよろしくお願いいたします。




