第100話 関山新道建設騒動始末
東村山郡の住民運動は事実上終焉し、伊之吉捕縛を知った峰一郎は天童へ向かいます。天童分署で峰一郎は伊之吉との対面がかないましたが、伊之吉は厳しく叱責し峰一郎との絶縁を宣言をしました。呆然とする峰一郎の前に伊之吉の父・佐藤直正と梅が現れ、更に梅との別れをも余儀なくされました。悲しみに追い打ちを掛けられたような峰一郎に、直正は、人を恨むのではなく、広く世の中を見渡して、より広い世界に雄飛することを説きます。
明治13年12月23日、佐藤伊之吉は山形警察署に護送され、連日、厳しい取り調べを受けることとなりました。そして、伊之吉の取り調べ開始から一週間後の30日、荒谷村では村民100名が村会議員7名に、伊之吉への代理委任状取戻しを依頼する旨の委任状を渡しました。つまり、住民が伊之吉に託していた委任状を取り下げるという意思表示です。
明くる12月31日、現代では大晦日でありますが、明治初期の当時においては、太陽暦よりも、まだ旧暦の方が馴染み深く、太陽暦の大晦日とは言っても、住民は常とは変わらぬ日常を過ごしており、郡役所もまた平常勤務をしていました。そんな大晦日、荒谷村村民総代の村会議員7名は、東村山郡長あて、委任状取り戻しの仲介を依頼する上願書を提出しました。
つまり、住民から委任状取戻しを依頼された村会議員も、委任状を託した当の伊之吉が山形警察署に拘留されている現状では如何ともできません。それで郡役所への仲介依頼となったわけですが、これは同時に、郡役所に対して、住民が郡役所の方針には逆らいませんという意思表示を当の郡役所に宛てて表明したということになります。ですので、これ以上の官憲による圧力がなされないよう、形を変えた「請願」ともいえました。
このような委任状取り戻しの動きは、12月末から1月初めにかけて、原告側各町村で急速に展開しました。
伊之吉や久右衛門が、脳漿を振り絞って考え出した裁判による合法的平和的な住民運動は、こうして急速にしぼんで行ったのでした。ここに関山新道建設反対運動は事実上、頓挫したのです。
しかし、官側の追及の手が緩められることはありませんでした。
一旦、お上に牙を剥いた平民たちの行動には、当然のごとく厳しい制裁が待ち構えていたのです。つまり、二度とこのようなお上を恐れぬ不届きな住民運動が再起しないよう、更にも厳しさを増した過酷な始末書を住民達に課したのです。
すなわち、山形警察署では、伊之吉の取り調べが続けられている12月末日、原告側各町村の戸長を召喚し、村内の委任者の追及を厳しく詮議すると共に、委任状を伊之吉に手渡した経過の始末書を徴しました。
また、年が明けた明治14年に入ると、警察署と同様に郡役所もまた各町村戸長を召喚し、村内での委任状作成の経緯を記した始末書と、第二期徴収期限には遅滞なく上納する旨の村民請け書を提出させます。
警察署と郡役所に提出させられた、このいわゆる「始末書」なるものも、その内容は読むに堪えない噴飯ものであり、滑稽かつ不可思議極まりない文書でありました。
その文書の内容は、どの村の戸長の始末書も、すべて判で押したような似通ったものでした。天童地区の村々の戸長は皆、伊之吉に騙されただけで、すべては伊之吉が住民を騙した大山師であり、住民は郡役所に対して何らの不満もなかったのだと、すべてを伊之吉ひとりの責任に帰していました。
極めつけは、三島県令は住民のために北郡や西郡の議員諸氏に仲介の労をお願いし、もったいなくも住民の苦衷を慮って負担軽減をはかろうとしましたが、偏狭で独善的な伊之吉は、自分に全権委託をしていない長崎地区などの村々も一様に恩恵を施すのはかえって不公平であるなどと申し立て、自らの沽券のために、県令の折角の温情に対し恩を仇で返す結果となった……という筋書きでした。
かくして、住民は、はなからそのようなつもりもなかったということになりましたので、東村山郡の公式記録においても関山新道建設への反対運動などは当初から存在しなかったものとされました。当然、郡の公式文書にはまったくそんな記録は残されないことになりました。わずかに、住民を揉まし混乱させた佐藤伊之吉という跳ね返り者がいたようだが、住民の誰からも相手にはされなかったと、山形警察署の記録に残っただけでした。
そのような状況でしたので、実際にあった反対運動の経緯等は、すべて安達家や佐藤家・村形家などの在野の古文書に残された資料の発掘により、丹念に調査された郷土史家の労によって明らかにされたものです。もちろん、その資料の中には、輝かしい将来の民主的自由社会に夢を託し、久右衛門や伊之吉に従った無垢な少年少女たちの活躍が記録されていることはありません。
住民のために仙台まで行き裁判を起こそうとした伊之吉は、歴史の記録上、住民たちを騙した大山師・大詐欺師という扱いにされてしまったのです。もちろん、高楯村の安達久右衛門も、逮捕こそされはしませんでしたが、山野辺地区においては伊之吉と同類とみなされたことは言うまでもありません。
伊之吉の取り調べが始まり、既に10日以上たった1月初め、今度は伊之吉の実父、天童村戸長の佐藤直正が、前年9月に上申委任経費の村負担金1円余を役場経費から渡したとの公金横領の嫌疑で山形警察署に逮捕されました。この時、佐藤直正は郡書記として郡役所に奉職していた筈でした。それが、あろうことか警察署に逮捕されたというのです。
もちろん懲罰ありきの言いがかりであり、住民達への見せしめです。これをもってしても佐藤直正や渡辺庄右衛門の郡書記登用が名ばかりのものであったことが伺い知れます。獄中で取り調べを受けている息子の伊之吉が、なかなか訴訟を撤回しないのに業を煮やした役所側による、圧力を伴う威圧的逮捕であることは明白でした。
父親の罪状など、事実無根の嫌がらせに過ぎないものと想像がつきますし、6月となり山形裁判所が佐藤直正に対して無罪判決をしたことからも、その内容と目的を推し量ることができます
既に明治14年1月中には、原告側組織崩壊は決定的なものとなっていました。2月2日付け山形新聞では、山形警察署拘留中の佐藤伊之吉が1月末に責付釈放されたこと、これに関して、訴訟を取り下げるとの約束があったとの説を報じたのでした。恐らく、最終的に父親までもが逮捕された伊之吉が、遂に訴訟取り下げに同意せざるをえないところまで追い込まれてしまったと思われます。
そして、東村山郡の郡長に就任して僅か1ヶ月の中山高明は、明治14年1月23日、郡内騒動の完全な沈静化を確認した上で東村山郡長の臨時兼務を退き、正式な後任郡長である蔵田信に職務を引き継いたのでした。
2月4日、原告代言人遠藤庸治は宮城上等裁判所に「訴訟下げ願い」を提出、願いは即日受理、認可されました。また、同日、かねて佐藤伊之吉が県令三島を告訴し、係争中であった「山形県地券証印税剰余金処分不当ノ訴」についても、原告代言人遠藤庸治と被告代理人矢部警部が連署の上、訴訟取り下げ願いを提出し、翌日認可されました。
このふたつの訴訟取り下げについて、山形新聞は、佐藤の釈放との交換条件であったとの示唆を紙面で報じています。
2月20日付け朝野新聞は「此比或る県の民権家が其県令を相手取り出訴せし處、県令ハ例の手段を以て、終に原告より該訴訟を願い下げさせしが、其の内情を新聞に書かるることを恐れ……新聞社に揉消料二千円云々」賄賂を送った、との投書を載せ、訴訟取り下げの裏に、三島県令の裏面工作があったことを述べています。
この記事につき、編集長宇津木克巳は、県令職務を讒謗したとして、3月10日の東京裁判所の判決で25円の罰金刑を受けました。
朝野新聞と同じく、「二千円の鼻薬を新聞屋に与うとは何等の怪報ぞ」と江湖新聞に記事を掲載した編集長大久保常吉は、県令讒謗として罰金50円と、3月4日の東京裁判所判決を受けました。
「人のなげきを横目に三島、それで通庸がなるものか」という有名な狂歌も、このころ市民の間に流布し出します。なんの効力もありもしないそんな狂歌が、僅かに住民の嘆きを癒やすのみでした。
佐藤伊之吉の訴訟取り下げにより、賦課金上納拒否運動は東村山郡住民の敗北に終わり、関山新道建設問題を端緒として東村山郡全体を巻き込んだ、住民自決の精神を訴えた合法的民主化運動は、住民側の全面的敗北としして、ここに完全に終結したのでした。
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明治13年に山形県の片田舎に発生したこの運動は、郡長を相手取る行政裁判事件へと発展、その論理に於いて原告側は合法的に勝訴する可能性をほとんど掌中にしていました。そこには当時の民衆の権利意識、政治的自覚の高さと、逆に法的手続きさえ踏まない専制的な三島県政のあり方が浮かび上がります。
その後、訴訟の組織過程では総代人と各町村戸長たちが大きな役割を果たしますが、一転、かれらが弾圧されるや運動の崩壊は急速にすすみ、運動組織上の弱点をさらす結果となりました。後年の福島事件と同質の発生状況と経過をたどりながら、県外の有力な自由民権派グループとの結合・連携はほとんどありませんでした。
しかし、地域の実際的な身近な問題を通して、地方自治の実質を確立を目指した、法律によってたつ運動であることに変わりはなく、合法的平和的な運動手法に重きを置きつつ、そこで培われた民衆自身の権利意識、政治的主体としての自治意識は、客観的には自由民権運動を発展させる前提ないしは基礎となったのでした。筆者が「早すぎた先進的市民運動」と称する由縁です。
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(史実解説)
明治14年1月末に伊之吉が釈放された時、新聞報道で使われた「責付釈放」という耳慣れない用語が使われました。この「責付」というのは、現在の法制度にはありません。ものの本によっては、現代人が分かりやすいように「仮釈放」とか「仮出所」という説明がなされたり、あるいは言い換えられたりすることもあります。しかし、基本的に「責付釈放」と「仮釈放」は全く異なる概念です。
責付とは、「旧刑事訴訟法で、裁判所が被告人を親族などに預け、勾留の執行を停止した制度。現行刑事訴訟法の親族・保護団体などへの委託による勾留の執行停止に相当する。」とあります(デジタル大辞泉)。裁判中(あるいは裁判前)で刑が確定していない人を牢屋に入れておくのが「勾留」で、それを停止して解放するのが「責付」です。「家族の責任で逃げないように見張っておいてください」という制度です。ですので、居住す府県を越えて県外に旅行するときは、かならず当局の許可をえなければならないという状態でした。もしこれを破り、勝手に県外に出かけたりすれば、再び入牢しなければなりません
一方、「仮釈放」というのは、刑が確定して刑務所に居る囚人が対象となる制度です。服役中の態度・様子等から判断して、矯正したと思われる囚人を期間満了前に解放して外に出す制度です。ですので、「責付釈放」を現代人に理解しやすいように言うとしたら「勾留が停止となり釈放した」とでも言えばいいでしょうか。つまり、まだ刑が未確定であり、この後に有罪か無罪か、有罪であれば量刑はいかほどかが確定し通告されます。ですので「執行猶予」とも意味合いが違います。
峰一郎ら少年たちが村のためにと信じて走り回った住民運動は、完全な住民側の敗北として終結をみました。住民自治を求めた早すぎた先進的な市民運動は、その紛れもない法律にのっとった正当性のゆえに、圧倒的な官の力によってねじ伏せられてしまったのでした。




