第99話 別れ
東村山郡の住民運動は事実上終焉し、伊之吉捕縛で裁判闘争も不可能となります。会所の張紙で伊之吉捕縛を知った峰一郎は、伊之吉へ会うために天童へ向かいます。天童分署で山形に向け出発する伊之吉を見つけた峰一郎は、和田郡書記の計らいで対面がかないます。峰一郎の裁判継続の主張に伊之吉はその不可を説きますが、どうしても聞き入れない峰一郎に伊之吉は厳しく叱責し峰一郎との絶縁を宣言をしました。呆然とする峰一郎を残し、伊之吉は山形警察署へと護送されていきます。
「う、……うう、……伊之吉さん、……なんで、……うう、……なんで。」
峰一郎は、天童分署の前庭で、いつまでも一人うずくまっていました。そして、なぜかとめどなく溢れ出る涙が抑えようもなく、峰一郎はそこでひとり、嗚咽していました。
いつしか天童分署の周辺には粉雪が舞い、峰一郎の頭や肩にもひらひらと粉雪が舞い降りてきます。
あれほどざわついていた人波は、伊之吉が山形へ向かうとともに、潮が引くように誰もいなくなっていました。門柱に立哨している巡査が一人いる他に、峰一郎以外には誰もそこにはいなくなりました。
そこへ、静かに一人の老人が近づいてきます。
(じゃり……。)
すぐ近くに聞こえた土を喰む音に、峰一郎は我に返り、顔を上げました。そこには、峰一郎もよく見知った人物が立っていました。伊之吉の父親であり、梅の祖父にあたる佐藤直正でした。
「峰一郎……。」
直正は目を真っ赤に腫らした峰一郎に近づき、声を掛けました。峰一郎は黙ってじっと直正を見返します。
「伊之吉の気持ちば分がてやてけろ。みな、にさのためだべ。」
「んだげんど……。俺は、俺は……。」
その峰一郎に対して、直正は優しい眼差しで答えます。
「言うな。にさの気持ちだば、この爺も、いっくど分がった。……伊之吉も、ちゃんと分がてだ。」
それを聞いた峰一郎の目から、更に涙が次から次から溢れてきました。
では、なぜ伊之吉は峰一郎を突き放したのか?なぜ伊之吉はあそこまで強硬に峰一郎を拒絶したのか?
直正の言う通りなら、伊之吉は峰一郎のためにそうしたのだと言う。しかし、それが峰一郎には分かりませんでした。
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「峰一郎さん……。」
佐藤直正の後ろから、峰一郎には懐かしい梅の姿が近づいて来ます。
「お梅ちゃん……。」
峰一郎には懐かしく愛おしい少女の姿がそこにありました。
「待ってろと言うたに……辛ぐなるだげだべ。」
しかし、そうは言ったものの、直正の瞳にも辛そうな影が見えるのでした。
「梅、伊之吉が決めだ事だ。峰一郎どの事だば、あぎらめれ。」
しかし、梅は何も答えず、そこにじっとしたまま、峰一郎を見つめていました。
明治時代、当時の家父長制度において家長の決定は絶対的なものでした。家長に逆らうこと自体が犯罪にすら問われかねないものでした。
天皇制を広く国民に浸透させるため、明治政府自体が意図したかどうかは分からぬものの、結果として天皇制のパラレル的な存在としての絶対的な家父長制度が法体系の末端に成立していたのです。
峰一郎と梅は、明治時代の絶対的な価値観の中で、抗いようもない状態の中に投げ込まれたのでした。
本当のいいなずけになりたい。梅を守りたい。それは峰一郎の本心でした。その気持ちに今も変わりはありません。しかし、今、峰一郎にはその約束が果たせなくなりつつあるのです。
「お梅ちゃん……。」
峰一郎は、涙で真っ赤に腫らした目を、梅に向けて見つめています。
梅もまた、峰一郎を見つめながら、とめどなく溢れてくる涙を止めようもありませんでした。
「梅、じっちゃんと帰っぞ。」
直正が、梅に声をかけます
しばらく、無言のまま立ち尽くしていた梅でしたが、両手で涙をぬぐうと、一生懸命に作った笑顔を向けて峰一郎に声をかけます。
「峰一郎さん、……今日まで、ほんとうに……ありがどう。……峰一郎さんと一緒にお父ちゃんの手伝いが出来て、梅は幸せでした。……どうが、どうが、お体にお気を付けください。」
そこまで言うと梅の目には再び涙がどんどんどんどん溢れてくるのでした。梅の作り笑顔がわなわなと震えています。
「峰一郎さん、……どうが、どうが、……いつまでも……お元気……で。……。」
梅の作り笑顔の口元が、次第に歪んでいきます。梅の目から、とめどなく大粒の涙があふれてきます。しかし、梅はもはやそれをぬぐおうともしません。
峰一郎が手を伸ばせばすぐ届きそうな、本当にすぐそばにいる梅を、しかし、峰一郎はそこに手を伸ばすことができませんでした
峰一郎の眼の前には、明治の絶対的な家父長制度の壁が立ちはだかっていました。現在からは想像もつかないその強固な壁の存在に、幼き二人はその理不尽さを感じながらも、同時に、それを当たり前のように受け入れる自分自身もそこに存在していたのでした。
そして、梅が最後の別れの言葉を投げかけます。
「……峰一郎さん、……さようなら!!」
梅の最後の言葉は、涙声混じりの半ば絶叫になっていました。その言葉を言うやいなや、梅は両手で顔を覆い、呆然と見送る峰一郎を残し、分署の広場から駆け出していくのでした。
**********
「お梅ちゃん!」
峰一郎には何も返す言葉がありませんでした。ただ呆然と梅の去りゆく後ろ姿を見送ることしかできませんでした。
「峰一郎、誰も悪ぐね。誰ばも恨むでね。みんな一生懸命にやったその結果だ。誰ばも恨んではなんねえ。」
しばらく、俯いて黙って聞いていた峰一郎でしたが、きっと顔を上げると、直正をじっと見つめて言いました。
「ほれは……、役所の人だも含めで、みんなが、一生懸命だったて事だべが。役所の人だばも恨むなってだがっす。」
真っ赤に目を腫らしながらも、しっかりとした強い眼差しを向ける峰一郎の姿に、直正は驚きを隠せませんでした。しかし、直正はここで怯むことは許されません。しっかりと峰一郎に答えることが、息子である伊之吉の望みであると信じていました。
「その通りだべ。役人には役人の理屈があり役人の正義があっべ。ほれば一生懸命に果たしっただげだべ。ほの一生懸命に働いっだ役人ばは責めらんね。」
直正の答えに峰一郎は憤りを隠せず、どうしても納得がいかないと、怒気を孕んだ声で反駁します。
「ほれが、みんなのためさ、正しい事ばしった伊之吉さんばしぇめだ役人でもだが。」
(しぇめる=捕まえる)
峰一郎の声はますます強く怒気をはらんでいきます。
「んだ。お役人だば勤めば果だしっただげだ。」
実の息子を官憲に捕えられ、理不尽な仕打ちを受けながらも、平静を装い淡々と言葉を絞り出した直正です。しかし、それを聞く峰一郎の瞳が、再び悲しみに濡れていきます。
「ほだな……ほだなごど……。」
「んだ。ほんでも、みんなが一生懸命にした結果だ。誰も悪ぐね。……んださげ、峰一郎、誰の事も恨んではなんね。」
「う、……う、……うう。」
峰一郎には直正の言ってることがどうしても分かりません。誰も悪くないのならば、なぜ伊之吉は悪くもないのに警察に捕まえられなければならなかったのか?そして、なぜ、伊之吉は自分を突き放したのか?なぜ、住民のための裁判を諦めなければならないのか?
峰一郎にはどうしても分かりませんでした。
「峰一郎……お前は賢いどはいっても、まだ、子供だ、まだまだこいがら時間はたっぷりある。もっともっと世の中ばいっくど見で、もっともっと大っきな男さなれ。こっだな田舎でねぐ、もっと広い世界さ出でって、人間ば磨いでこい。」
はからずも、直正のこの言葉は、落合の渡しで和田書記と峰一郎が対峙した時、和田が最後に峰一郎に投げかけた言葉と同じでした。
直正はそう声をかけると、静かに峰一郎に背を向けて立ち去ります。
峰一郎は両手を地面につき、背中をぶるぶると震わせていました。
村のみんなを幸せにする……村のみんなを守る……そう思い、未来を信じてきた。しかし、結局のところ、自分には何もできないじゃないか。村の人どころか、伊之吉さんひとりを助けることもできない。たった一人、お梅ちゃんを守ってやることもできないし、お梅ちゃんとの約束すら守れない。自分には何もできないじゃないか。自分はこんなにもちっぽけな存在だったのか。
村では小さい頃から神童ともてはやされてきました。子供達の中でも、石合戦では負け知らず、いわゆるガキ大将のような存在で、勉強でも遊びでも自分は何でもできる、一生懸命にやれば自分に不可能なことはない、そう思っていました。
しかし、実際は違いました。かけがえなく大事に思っている人、たった一人のか弱い女の子一人、それを自分は守ってやることができないではないか……本当の現在の自分を目の当たりにし、思い知らされた峰一郎は、まさに愕然となりました。
そして、しばらくして誰もいなくなった分署の中庭から空を見上げた峰一郎は、一人、立ち上がり曇天の空を見上げました。
「うわ~~~~~~~~~~~!!!!!」
やり場のない思いを吐き出すかのように、峰一郎は空に向けて声にならぬ声で叫びました。
峰一郎の叫びは、出羽国東村山郡の村々にコダマしていきます。
たった今、かけがえのない大事な何かを失った峰一郎は、大声で絶叫するしかありませんでした。
曇天の空の向こうに屹立している筈の小鳥海山の大杉は、今の峰一郎には遠く霞んで、まったくその姿は見えませんでした。
呆然とする峰一郎の前に現れたのは、伊之吉の父である佐藤直正でした。直正は峰一郎を教え諭します。しかし、そこに現れたのは直正だけでなく、お梅もいたのでした。二人はお互いに求めあう思いを知りながら、明治の家父長制度の壁の前に別れを余儀なくされます。悲しみに追い打ちを掛けられたような峰一郎に、直正は、人を恨むのではなく、広く世の中を見渡して、より広い世界に雄飛することを説きます。




