第5話 殿、それは恋でござる
1573年(元亀4年) 3月 近江国滋賀郡比良山中
ゴクリッ
鈴が沸かした湯を布に含ませ、体をぬぐっている
「こっち来たら殺すからね」
笑顔でそう宣言すると衝立の後ろで着物をはだけて丹念に汚れを落としていた
勘三郎は背を向けつつも後ろが気になってしまい、それを見る能見山と真野はニヤニヤと面白そうにしていた
勘三郎 20歳
まだ女を知らない初心な男だった
今まではそんな事は考えなかったのだが、孫六とすえの生活に触発されたのか、相応の年になったのか、最近では鈴が気になって仕方がない様子だった
冬のある晩、勘三郎が寝ぼけて鈴の夜具に間違って入ったことがあった
気が付いた勘三郎は思わず抱き寄せようとしたが、いつの間に取り出したのか勘三郎の首筋に短刀を突き付けながら
「そういうのは無しで」
とけっこうシャレにならない声色で言われたことがあった
それ以来気まずい雰囲気を(勝手に)感じながら、悶々と過ごす日々が続いていた
「ふん!ふん!ふん!ふん!」
勘三郎は邪念を払いのけるように刀を振り、身を鍛え続けていた
精神を鍛え上げれば女子にうつつを抜かす気持ちなど消えてなくなると信じていた
でも、そういうものでもないですしね…
- 一月後 -
「ちょっと親戚の家に野暮用があって2~3年ほど留守にする」
そう言い残して鈴はどこかへ行ってしまった
勘三郎は落胆したが、引き留めることもできないと思ってそのまま送り出した
(今は勘弁してほしいなぁ。この仕事が終わればね…)
鈴はそう思いながら岐阜へ向かっていた
1574年(天正2年) 4月 近江国滋賀郡比良山中
ヒュッ
シュッ
カキンッ
山の中で鈴と3人の男が対峙していた
(しくじった!存外しつこい!)
鈴は岐阜を脱出していたが、甲賀の伝次郎の放った忍びの追跡を振り切れなかった
三対一 男対女
そんなことで油断してくれそうな相手ではなかった
(手持ちの武器は…棒手裏剣が二本と短刀一振りか…)
冷静に距離を測る
三人の男が左に一人 右に二人に分かれた
すかさず左側の男へ棒手裏剣を投げる
態勢を崩したところへ短刀を投げる
ドスッ
男の右胸に短刀が刺さり、そのまま崩れ落ちた
左側の男を始末している隙に右側の男の一人が間合いを詰めていた
(やられる!!)
間一髪体を捻ってかわしたが、右脇腹の辺りを切られた
反射的に残った棒手裏剣を切ってきた相手の右腕に突き立てる
「ぐっ」
男がくぐもった声を出した
好機と見た鈴は血が流れるのもかまわずに比良山中に走った
(勘三郎・能見山・真野…)
鈴は比良山での生活が気に入っていた
だが、武田の忍びとしての仕事を果たさねば今度は武田から追手がかかることになる
このままでは迷惑をかけることになると思いながら、一縷の望みをかけて比良山の小舟木村へと向かっていた
血の跡を追ってもう一人の男が追って来るはずだが、今は逃げることで頭が一杯だった
鈴の足に力が入り辛くなってきたころ、無傷の男に追いつかれた
(ここまでか…)
足を動かしながら、鈴が背後からの斬撃を感じて身を固くした瞬間
ドスッ
一本の矢が男の首筋に突き立っていた
右腕に負傷した男 甲賀の仁助が止血をして追いついてきたが、形勢不利と見て逃げに入った
「鈴!無事か!?」
激しい痛みの中で、勘三郎に遭えた安心感で鈴は気を失った
- その夜 -
「すえ、鈴は大丈夫なのか?」
「少し熱が上がっています。まだわかりませんが、今夜は寝ずに看護しますのでおかしらは休んでいてください」
「…殿と呼べ」
勘三郎はうなだれて囲炉裏の前に座った
能見山と真野が気遣わしげに勘三郎を見る
「きっと大丈夫ですよ。丈夫なお方ですから」
「…」
「殿ももう休みませんと、貴方まで倒れては我らはどうしようもなくなります」
「…そうだな。二人とも今日はもう休もう」
「「はい」」
夜具に入っても勘三郎はなかなか寝付けなかった
心配だったが、今は出来ることが何もない
とつおいつ思案している間に、夜明け頃に眠りに落ちていた
「痛っ」
同じ頃、ズキズキした痛みで鈴は目を覚ました
小舟木の拠点の部屋だ
助かったのだと理解した
横を見るとすえがうつらうつらしながら座っていた
「すえさん、すえさん」
「鈴さん!目が覚めたのですね!」
「済まないんだけど、地下室から黒い丸薬を持ってきてくれない?」
鈴が調合して保管しておいた薬のうち、痛み止めの効果がある丸薬だった
丸薬を飲んだ鈴は、起きて自分の傷の手当てをした
痛みはあったが、とりあえずこれで死ぬことはなさそうだと思った
忍びとして鍛えられた体力に感謝した
「鈴~~~~~!!」
目を覚ました勘三郎が泣いて抱き着こうとしたが、頬を思いっきり叩いて制止した
「今はそういうのは無しで、まだ傷が痛むから」
そういうと勘三郎は頬を押さえながら鈴の横におとなしく座っていた
(ありがとね)
心の中で思った
信玄の手飼だった鈴は、信玄没後は馬場信春の指図で動いていた
戦線を離脱した鈴は甲賀の追手と武田の追手がいつ来るか冷や冷やしていたが、追手が来る気配はなく、そうこうしているうちに馬場信春は長篠で討死し、鈴は以後小舟木村を離れることはなくなった