淑女の塔③
「落とし穴」が、最初から目に見えていたら、それに落ちる者はいないだろう。
チャーリー・テイラー
ケリーは片足を引きずったまま、早足で歩いていく。
片足に怪我を負っているとは思えない速さで、サーシャはついていくのがやっとである。
「化け物とは何なんですか」
サーシャは必死にケリーの後を追いかけながら訊いた。
「知らん」
ケリーはぶっきらぼうに答えた。
「大きくて黒い奴だ。見えたのはそれだけだ」
「敵でしょうか」
ケリーは前を向いたまま首を振った。
「どう見ても人じゃない。あんな大きい人間がいてたまるか」
ケリーはホールを横切り、なおもすんずん歩いていく。
「どこへ行くんですか」
「決まってるだろ、帰るんだよ。あんな化け物、相手にできるか」
帰るのは別にいい。しかし、さっきの連中はどうするのか。
「野放しにしてもいいんですか」
ケリーは振り返った。
いいかげんにしろ、と言う顔をしている。
「私は、勇者になりに来たわけではない。君もそうだろう」
サーシャは内心呆れたが、帰ることについて、何も異論はない。
「私はやらんぞ。やるなら、君独りでやりたまえ」
「もちろん、帰りますよ」
そう言って行こうとしたとき、突然、二人の背後から、
「ズッ・・・ズズッ・・・ズー・・・」と、なにか重いものを引きずるような音と、「ガリ「ガリ・・・・・・・・・・・ガリ・・・・・・・・・ガリ」
となにかを引っ搔くような音がした。
同時に、どこか遠くの方から、
「オオオオオ・・・アオオオオ・・・」と。
唸り声の様な音が聞こえて来た。
幽かな声だったが、その声が鼓膜に達した瞬間、一気に背筋が寒くなった。
「あいつだ・・・」
ケリーは思わずこぼした。
思わず走り出した(ケリーは、片足でジャンプするような走り方であったが、それでもサーシャを簡単にに追い抜いていった)
走って、ようやく潜って来た戸板の目の前まで来た。
(ここを潜って外に出さえすれば・・・)
サーシャはほっとして、戸板を押した。
「ゴッ」
板が少し開いたところで、鈍い音を立てて止まった。
「⁉」
「ゴッ、ゴッ」
二,三度押してみたが、やはり開かない。向こう側で何かがつっかえているようだった。
「なんだ、何してる!」
「ゴッ、ゴッ、ゴッ」
二人がかりで押しても、何故かびくともしなかった。まるで、見えない誰かが向こう側から押さえつけているようだった。
「ズッ・・・・・・ズッ・・・・・ズッ・・・・ズッ・・・・・ズッ」
「ガリ・・・・・・・・・・・ガリ・・・・・・・・ガリ・・・・・ガリ・・・・ガリ・・・ガリ」
音が次第に大きくなってきた。そして聞こえてくる間隔が、明らかに短くなっている。
(加速してる・・・追いかけてくる!)
サーシャは剣を抜くと、戸板に斬りつけた。
が、腰の据わっておらず、小手先だけで、威力が足りない。
「がっ」
と、刀身が戸板に半分食い込んだだけで止まった。
剣を外そうと藻掻いているのを見て、ケリーも、腰から引き抜きざま、斬りつけた。
こちらは当人の腕はそこそこだが、肝心の刀身に錆が浮いていた。録に手入れもせぬままでは、せっかくの威力も半減する。
戸板に当たって、虚しく跳ね返された。
二度、三度と斬りつける内、刀身が曲がって使い物にならなくなった。
(このような用い方をする場合、刃を損じることがないよう、鞘ごと用いることが実戦の常識であるが、稽古不熱心な二人は、もちろん知らない)
「ズッ・・・ズッ・・・ズッ・・・・ズッ・・・ズッ」
「ガリ・・・・・・・ガリ・・・・・ガリ・・・ガリ・・・・ガリ・・・ガリ」
「なぜ開かないんですか!?」
「うるさい!黙れ!」
「ズッズッズッズッズッズッズッズッズッズッズッズッズッズッズッズッズッズッズッズッズッズッズッズッズッズッズッズッズッズッズッズッ」
「ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ」
ごとっ、と背後で音がして、何かが後ろに落ちて来たように感じた。
そっと振り返ってみると、人間の腕-肘から先で千切れたもの-が、2本、ごろんと転がっていた。
その傍には、どろどろの何かの塊。
(内臓ではないか)
むっと、刺すような臭気が鼻を衝いた。
「うっ」
ケリーは顔を背け、剣を放り出すと、胃の中のものを吐き出した。
汚物の飛沫が、サーシャの靴やズボンに飛び散った。
しかし、彼女は一顧だにしなかった。
身動き一つせず、目を大きく見開いたまま、その視線は、空中の一点を凝視していた。
ケリーはせき込みながら口元をぬぐった。
硬直しているサーシャを見て、その視線の先を追った。
そして、同じようにその場で硬直した。
ゆらり、と目の前の闇が揺れた。
何か・・・途方もなく大きい何かが、目の前に立っていた。
背丈は、優に二人の倍以上あった。
直立した二本脚は丸太のように太く、付け根は、はるか頭上で闇に溶け込んでいる。
だらりと垂れ下げられた腕は、長さが人間の背丈ほどあった。
余りに長すぎて、手の先が床に届いていた。
遥か頭上にある顔は、真っ黒で、目も鼻も見えなかった。
ただただ、バスケットボールほどもある真っ赤な眼球だけが、二人を見据えていた。
全身から、濃密な殺戮者の気配が漂っていた。
「死」
というものに実体があるとすれば、あるいはこのような姿かもしれない、と思われた。
長い腕が、音もなく動き、風を巻いて殺気が二人に押し寄せてきた。
二人は、かろうじて横っ跳びに跳んで避けた。
腕はその頭上を寸余の差で掠めた。
鋭利な爪が石敷きの床を深々と抉り、摩擦で火花が飛び散った。
ケリーは剣を抜こうとして、先刻、放り出したままだったことに気が付いた。
長い爪の生えた腕が、再び宙を滑るようにケリーに向かってきた。
ケリーは。同じように横っ跳びで避けた。
怪物の腕は、今後はその挙動を予測していたかのように、くるりと空中で反転すると、分厚い掌で押しつぶそうとしてきた。
4本の指を広げた手の大きさだけで、ケリーの全身をすっぽり包むほどの大きさがあった。
ケリーの頭上数メートル四方を、完全に覆い尽くしていた。
「くそっ」
ケリーは叫ぶと、一直線に落下してくる掌に向かって、魔力砲を発射した。
如何に拙劣な腕であっても、さすがにこの距離であれば、当たる。
青白い閃光が走り、轟音、そしてわっと空気が揺れた。その後から、白い煙がもうもうと立ち上った。
(えっ)
サーシャは、思わず目を見開いた。
怪物は、悲鳴も上げなかった。効いたか、効いていないか、それすらわからない。
「何してる!」
ケリーは、立ちすくんでいるサーシャの肩を叩いた。
「上だ、上にあがれ!」
ケリーは先刻、自分が飛び降りて来た階段を指さした。
既に足を引きずりながら走り出している。
サーシャも、やっと我に返り、後に続いて駆けた。
階段を無我夢中で駆けあがって、2階にあがったところの物陰に走りこんだ。
後ろから怪物が追いかけてくるのではないかと気が気ではなかったが、何も追ってはこなかった。
「一体なんなんだ。あれは」
ケリーは息を荒げて訊いた。
サーシャは何も答えない。じっとうつむいたまま、何かを考え込んでいる。
「どうした」
「見ましたか」
「何を」
「いや、やっぱりいいです。私の勘違いかもしれません」
「なんだ、遠慮するな」
それでも遠慮するサーシャを見て、ケリーはいいから、と促した。
サーシャは、埃でやや薄汚れた顔を上げた。そして、ぼそぼそと言った。
「あいつ、さっき、障壁を張ったように見えたんですが…気のせいでしょうか…」




