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内なる闘い

 年が明けた。


 クリスの調査は遅々として進んでいなかった。ルビーの生前の行動も、消えた日記の行方もわからないままだ。


 クリスには他の仕事―隊としての正式な任務―もある。多忙に過ごすうち、自然にこの件に充てる時間も減りつつあった。


 しかし、彼女が日々に忙殺されているうちにも、世界の時勢は急激に変化している。


 すでに1949年10月には、内戦の続いていた中国本土で、毛沢東率いる共産党により、中華人民共和国の樹立が宣言された。


 アメリカの援助を受け、ながく共産党と対立してきた蒋介石率いる中華民国軍は、共産党軍の攻勢によって中国各地の拠点を次々と喪失。蒋介石自身もすでに中国本土を離れ、台湾へと逃げ延び、もはや反攻する余力を失っていた。

 共産党の勝利、すなわち西側陣営の敗北が決定的な情勢であり、中国大陸全土にまたがる史上最大の共産党国家の誕生は、もはや時間の問題であった。


 さらにその中国大陸の東、朝鮮半島では、共産党政権の北朝鮮と西側陣営の韓国が、事実上の国境たる38度線を挟んで一触即発の状態にあった。

 この度、中国本土に巨大な共産党勢力の烽火が出現することは、北朝鮮にとっては、「ソ連―中国―北朝鮮」と一本線で結ばれた強力な後ろ楯の出現を意味し、それはまた、東アジアの火薬庫たる朝鮮半島が、いつ何時その火薬に着火するかわからない状態に置かれたことを意味していた。


 火種はさらに尽きない。欧州でもドイツの戦後処理を巡り、米ソの対立が激化していた。すでにソ連はこの頃、東欧(ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、チェコスロバキア)を支配下におさめ、欧州の東から中央部へと、さらに勢力を拡大しようとしており、アジア方面の劣勢により自らの立ち位置に危機感を募らせているアメリカは、当然のごとく、この動きには激しく反発した。


 そのうち戦争になる─。


 欧州本土では、特に時勢に聡いといえない者でも、薄々そう感じている。


 同時に複数出現した火薬庫のうちひとつに火がつけば、たちまち他にも引火・誘爆して、たちまち世界を飲み込む大火になる。

 なんのことはない、前の二度の戦争と全く同じ構造であった。そして、欧州の人々は、未だかつてこのような国際情勢が、流血を伴わず平和裡に解決した事例など無いことを経験的に知っている。


 世界の時勢は上のように、にわかに緊迫の度を増している。


 が、この欧州の端の島国には、どこか安穏とした空気が漂っている。

 その理由はいくつか考えられる。

 ひとつは、いま問題が起きている場所が欧州本土、あるいは、遠く離れたアジアであり、欧州の中心から外れたこの国にとっては、所詮は対岸の火事であるととらえられている点。

 もう一つは、今すでに国内に様々な問題を抱えているこの国にあっては、とても他国の事にまで関心を払う余裕がないという点。


 そういうことで、今一つ危機感のないまま、この国の時は過ぎていく。

 クリスも相変わらずない時間をやりくりしては、調査に充てていた。今日も基地の入り口に設置された守衛の詰所に聞き込みに来ている。


「ですから、ホワイト少尉は独りで出かけられるところを時々お見かけしましたが、何をしに行かれたのかまでは存じ上げません」

 初老の守衛は、緑の制帽の鍔を触りながら刺々しい声で言った。

 クリスがここに聞き込みに来るのは、実は初めてではない。最初は愛想よくしていた守衛も、たびたび来ては同じ質問ばかりするクリスのしつこさに、いい加減うんざりしているようだった。


「本当に、他に何か覚えていることはないのか」

 クリスは今日何度目かわからない言葉をまた繰り返した。

「ありませんよ」守衛は皺の多い口もとを歪め、あからさまに不機嫌そうな顔をした。

 (役に立たない奴め。これ以上、こいつの協力は期待できそうにないし、期待しても無駄だ。)

「わかった。悪かったな」

 隊務の合間の貴重な数時間を費やしたが、今日も伸展がなかったか。

 クリスが肩を落としながら、守衛に背を向けようとしたとき、守衛があ、と小さく叫んだ。

「どうした」

「いや、こんなことが役に立つかどうかはわかりませんけどね」

 守衛は何かを思い出したらしく、筋の浮いた首を曲げながら言った。「そういえば、ロックハート中尉の姿も、少し前まで時々お見かけしましたよ」

「ロックハート?」クリスは予想外の名前にとまどった。ロックハートといえば、サマンサ・ロックハートのことか。

 陸軍大臣ジョージ・ロックハートの実の娘で、父方の祖父は元外務大臣。母親は著名な実業家の令嬢。言わずと知れた有名人だ。

 生まれついてのエリート、いずれ警察の幹部になることが決まっている人物。

 クリスとは何もかも住む世界が違いすぎた。さすがに顔も知らないと言うことはないが、ほとんど話をした記憶はない。

 もっとも、前線には全く出ないにも関わらず、生まれがいいというだけで順調に官位を重ねていく彼女に、クリスはあまりいい印象を抱いてはいなかったが。


「ええ。ホワイト少尉が亡くなった頃だと思いますが、時々姿をお見かけしました」

「そうか」


 クリスはぼんやりしたまま自室に戻った。どことなく、胸に何かがつかえたような、いやな気分だった。上着を脱ぐと、シャツにべったりと汗をかいていた。


 まさか、ロックハートの名前を聞くことになるとは思わなかった。

 普通に考えれば、彼女が時々出掛けるのを見たと言う、ただそれことで彼女がルビーと関わりがあったことの根拠にはならない。彼女の名前は、たまたま出てきた可能性の方が圧倒的に高い。

 だが、例え偶然であっても、いまこのタイミングで、示し会わせたようにその名前が出てきたことが、クリスをいやな気分にさせるのだった。まるで見えない誰かの手の上で踊らされているような気分だった。


 時期がたまたま重なっただけだとクリスは思いたかった。


 そのとき、コンコンと部屋のドアがノックされた。クリスが声をかけると、カチャリとドアが半開きになり、隙間からアリサが顔を覗かせた。

「ちょっといいかな。見せたいものがある」


「なんだかわかるか」

 アリサはクリスを自分の研究室に招き、小瓶の底にうっすらと溜まった液体を掲げて見せた。

「いや」

「前にルビーの首にトゲみたいな物が刺さってたことは話しただろう?」

「いや、そんな話は初めて聞いたが?」

「あれ?確かに話した気がするが。まあいいや。それから抽出したものなんだけども」

 アリサは首をひねり、下から瓶を覗き込んだ。

「マウスに投与して、実験してみた。サンプルが少なくてね。満足な結果かどうかが分からないんだけども」

「うん」

「死んだ。いや、死んでいたと言うべきかな。いつのまにか死んでたんだ。いつ死んだのかわからなかった。元気に動き回っていたのに、ちょっと目を離してみたらもう死んでた。それで」

 アリサは顕微鏡を指差した。

「解剖してみたら、冠動脈が詰まっていた」

「冠動脈?」

「心臓の血管だよ」

 アリサは手元のファイルを繰りながら言った。

「ルビーと同じだ」

「詰まってたって、石か何かで?」

「いい質問だが違う。血栓の類いは見つからなかった。血管の壁が自然に縮まってしまって、ふさがったらしい。喘息という病気を知ってるか?気管の壁が狭くなって、呼吸が苦しくなる病気だが、それに似ている」


 クリスには毒など全く専門外だが、心臓の血管だけを詰まらせる。そんなことができるのだろうか、と思った。


「そんなことができるのか、という顔だな」クリスの様子を見て、アリサは言った。


「正直に言って・・・・・・こんなものは見たことがない。何かの毒には違いないだろうが、成分も、製法も、まったく検討がつかない」

 アリサは首を傾げた。


(毒・・・・・・。それも、一流の分析者をして、全く検討もつかないと言わしめる代物。毒使いなど珍しくないが、そこまでの芸当ができるのは・・・・・・)


 チャーリーの言葉が思い出される。

(あの女は、よほどよく知っている人の前でなければ、姿を現そうとしなかった)


(ロックハート・・・・・・)


「クリス?どうした」


 クリスは頭に渦巻く疑念を無理やり振り払い、絞り出すようにいった。

「誰がやったにしろ、敵の仕業であることに変わりはない」

「だろうな」

「我々の敵ならば討つべきだ。隊のためでもある」


 自分で言いながら、力のない言葉だと自分でも思った。無理が顔に出ているに違いない。


 アリサは心配そうな顔でクリスを見た。


「なあクリス、無理するなよ・・・・・・。こいつは、今までの事件とは、何かが違う。何かがある気がする」


 そんなことはクリスも分かっている。今までの敵とは性質が違う。

 強力な敵だ。しかも、物陰に隠れるようにしながら背中に忍び寄り、すぐ近くで自分たちを狙っている。


「無理は、どの作戦でも起きる。それは仕方がないことだ」

 そう答えながら、クリスは背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。今更ながら、この件に手を出したことを後悔したが、これだけ色々知ってしまった以上は、もう手遅れだろう。


 やられる前にやるしかない。そうしなければ自分がやられる。生き残るためには、討つしかない。

 クリスは、自分がもはや後戻りできない所に来ているのを感じていた。





 















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