冬の蝶
【目次】
1.幕開け
2.暗転
3.冬のはじまり
1.幕開け
時は1949年8月29日、ソビエト連邦南部・カザフ共和国・セミパラチンスク核実験場。
列席した面々は、今まさに、国家にとっての歴史的瞬間を目の当たりにしようとしていた。誰の表情にも緊張の色が浮かび、偉大な瞬間の目撃者となることの期待と高揚感で、その顔は微かに上気していた。
彼らの目は、水平線の遥か彼方にそびえる鉄塔に注がれている。優に高さ30メートルはある巨大な鉄塔のはずだが、まるで針のように細く見えた。
その先端に取り付けられた黒い塊が今回の実験の主役であった。
けれども、それはまるで空に浮かぶ塵のようで、その芥子粒のように小さな塊が恐るべき威力を秘めているなどとはにわかには信じ難いほど、幽かで頼りなく見えた。
現地時間、午前7時。荒涼とした実験場は、いつもと変わらない朝を迎えていた。その日は、やや薄曇りの空だった。
プロジェクトの責任者は、全ての最終チェックが終わったことを確認すると、周囲の気温と同じ冷涼とした声で、実験開始を通告した。
プーッという警告音が束の間鳴った。それが鳴り止むと、ボタンが淀みなく押下された。
数秒の後、それ―RSV-1と名付けられたソ連史上初の原子爆弾―は、爆発した。
コーッという乾いた轟音が鳴り響き、薄曇りの空の彼方が落雷にあったように光輝いた。まるで幾千万のスポットライトを焚き集めたようだった。
オレンジ色の火球が黒煙に混じり、キノコ雲となって空に膨らんで消えた。地鳴りが横揺れの轟音と化し、空気を震わせた。振動がはるか離れた観測所まで伝わってきた。
何人かの実験の列席者は後に、優に2000メートルは離れていたにもかかわらず、熱線の熱さを確かに感じたと証言している。
実験で発生したキノコ雲は、爆発から1分以上経っても、まだ上昇し続けていた。
実験は成功した。
「おめでとう!」「やったな!」「なんてすばらしい日なんだ!」
列席者の中から感嘆と称賛の声が次々に巻き起こった。列席者は皆感涙の涙に咽び、誰彼構わず握手を求め、肩を叩きあって祖国の偉業を称えた。
そのニュース―ソ連が原子爆弾の開発に成功したとのニュース―はたちまち各国指導部の間を駆け巡った。
同年9月23日、アメリカ大統領ハリー・トルーマンは、核実験が行われた事実を正式に確認したと発表し、翌24日には、ソ連もこれを認めた。
ここに、アメリカによる核の一方的優位性は崩れ、欧州大戦終結からわずか4年で、人類は早くも戦いを新たな段階―すなわち、核戦争という舞台―に進めた。
新たな競争の時代の幕開けであった。
既に持っている国はその優位性を失わんとして。いまだ持たざる国は自国の劣性を回復し、正義の均衡を回復せんとして。各国は核兵器の増産・開発・改良に向けて一斉に舵を切った。
欧州の戦争が終わってまだ4年しか経っていなかったが、誰しも戦争はいずれまた起こると考えていた。世界規模の戦争が。そしてそれは、核兵器による戦争になる可能性についても。
何ら突拍子もない発想ではない。
「次の戦争には、核兵器が当たり前のように用いられるであろう」という感覚は、はこの時代の軍事に関わる人間であれば、圧倒的多数が持つあたりまえの感覚であった。
一方、こちらは、欧州北西部・ローデシア共和国。首都。
時世の激しい変動とは裏腹に、クリス・ハーディングは、基地で代わり映えのしない毎日を過ごしていた。
このところは特に事件の知らせもない。
朝訓練に行き、夜は隊内の雑務をこなし、夜中過ぎに寝るという生活が続いていた。何事もないのはいい事なのかもしれないが、やはりどこか物足りない気がする。
腕が鈍るのもそうだが、手が空く時間が増えると、どうしても余計なことを考えてしまう。それがクリスには嫌だった。
ソ連が核実験に成功したというニュースは、この大戦後にできてまだ間もない小さな島国にまで伝わっている。しかし、末端に過ぎないクリスには、それ以上の情報はない。
世界は、確実に変わりつつある。
時代は指導者の的確で、しかも分秒単位の判断を要求している。であるのに、この国の指導層は未だに国をどこへ導いていきたいのかすらも決めあぐねている。
世界の行く先、未来については想像する事すらできないでいる。
クリスの焦燥は深い。
ルビーの日記はどうなったのだろうか。チャーリーはあの女に頼んだと言っていたが、それからどうなったのだろうか。この前会ったあの少女は元気でやっているだろうか。次はどんな敵がやってくるのだろうか。
考えれば考えるほど、胸がざわつくことは増えていく。
(いけない)とクリスは思った。手が空くといつもこうだ。余計なことばかりを考えてしまう。
何が起きようと、自分自身でできることなどどうせ大したことではない。それならせめて、自分にできることを精一杯やるしかないではないか。
自分にできることとは、つまり・・・・・・。
クリスは剣を抜いた。
剣に、自分の横顔が写っている。
手首を返し、剣を水平に戻すと、キンと小気味良い音がした。
クリスの意思を写したように、手元から切先まで、刃の、研ぎ澄まされた眩い銀色が、一直線に伸びていた。
2.暗転
それからしばらくして、約束の1か月が経ち、チャーリーは再び橋の下の小屋を訪れた。
前回と同じように呼び掛けたが、返事はなかった。
チャーリーは一歩、小屋に踏みいった。
その瞬間、背筋が凍りついた。
カビと埃の匂いに混じって、血の匂いがした。かなりの量が流れているらしい、濃い匂いだった。
薄暗い小屋の中で目を凝らすと、前回女が座っていた椅子が出しっぱなしのまま、横倒しに倒れていた。その足元に血溜まりがあった。血の引きずった跡が、小屋の奥、途中で曲がって戸板の陰に続いていた。
チャーリーは慎重に、壁を背にしながら、部屋の奥に進んだ。右手はいつでも魔力砲を撃てるようにしている。
腰を屈め、滑るように戸板の裏に回り込んだ。
戸板の奥の部屋は生活スペースになっているようだったが、あまり使われている気配がなく、壁際に埃を被った鍋や食器類が雑然と積み上げられていた。
女は、戸板の後ろにうつ伏せに倒れていた。倒れたテーブルや本、紙が体の上に覆い被さっている。両手は大の字のように広げられていたが、なぜか左手だけは握り拳を作っていた。
体に触れてみたが、既に冷たくなっていた。
チャーリーは呆然とした。誰が?なぜ?どうやって?
が、彼女も、さんざん修羅場を潜ってきている。冷静さを取り戻すと、素早く辺りの状況を観察した。
敵がそばにいる気配はない。すぐに戦闘になる可能性は低い。が、万が一に備えて連絡しておいた方がいい。死因の分析も要りそうだった。
いずれにしても自分一人の手には余りそうな問題である。
直ちにテレパシーで呼び掛けた。まずは・・・・・・。
「アリサさんですか?」
「素人の仕事じゃないね」
死体を調べながら、アリサはそう言った。
「首を、おそらく背後から一撃。一発で急所を突いてる。馴れた奴の仕事だ」
アリサは感心したように言った。
「見ろ」
アリサは傷口を指さした。
「だいぶ特徴のある傷だ」
「武器、たぶんナイフみたいな小型の刃物だと思う。右の耳の後ろあたりから斜めに切りつけ、出血量からして、おそらく右の頸動脈を切断。そのまま右胸の方向に抜けている」
(誰も聞いてませんよ・・・・・・)
チャーリーは聞き流しながら、目は死体の別の場所、固く握り締められた拳のあたりを見ている。
「手の中に何かが入ってるみたいですね」
握り締められた拳の中から、紙切れのようなものがはみ出していた。
「取れない」
指を開こうとしたが、完全に硬直している。まるで石のようにびくともしない。
「待ってろ」
アリサはそう言うと、鞄から内側から注射セットを取り出し、手早く注射をした。
「何をしたんです」
「なに。死後硬直というのは、筋肉同士がくっついて固まっている状態だ。だから、薬で筋肉を溶かせばいいのさ」
アリサは「弛緩剤」と書かれたアンプルを掲げて見せた。
しぱらく時間が経つと、握り締められていた指が、糸が切れたように柔らかくなった。手のひらの上に、くしゃくしゃの紙の塊があった。
チャーリーは紙を取り上げた。古い紙だった。破らないように気をつけながら、ゆっくりと紙を広げてみた。
「蝶」
そこには、殴り書きで一言だけ書いてあった。状況からして、致命傷を負いながらここまで這いずってきたが、その一言を書いただけで力尽きたように見えた。
「どういう意味でしょうか」
「さあ?」
アリサにも全く見当はつかない。
チャーリーは何かを考えている。
「どうした」
「いえ、別に」
クリスにはどう報告したものか、と考えていた。
3.冬のはじまり
「死んだ、あいつが・・・・・・」
「ええ・・・・・・」
2人の顔は沈んでいた。これで手がかりが1つ消えてしまった。
「誰がやったのかはわからないのか」
「全く、です」
不可解なメッセージのことも伝えたが、クリスにも理解できないようだった。
「蝶か。まさか蝶が人の首を掻き切るわけがない」
「そもそも、こんな寒い時季に蝶なんかいませんよ」
「当たり前な事を言うな」
「怒らないでくださいよ」
やや険悪な雰囲気になった。
チャーリーはふと、クリスを見た。なぜか不安げな顔だった。
「ソニアの日記は?」
チャーリーはああ、と言って、鞄から青い表紙の日記を取り出して見せた。
「ちゃんとありましたよ」
「よかった」
クリスは、表情を緩めた。
「なくならなくてよかった」
チャーリーも表情を崩した。
クリスは厳しい顔にもどっている。
(日記それ自体は目的ではないのか?そうするとやはり、日記の中身以外の問題なのだろうか。)
チャーリーはチャーリーで、難しい顔に戻っていた。何かを考え込んでいるような顔だった。
「どうした」
「いえ・・・・・・」
隠そうとしているのではない。どう伝えたらいいのか、言い方に困っているようだった。考えが纏まらないのかもしれない。
「言ってもみないうちから始まらないだろう」
チャーリーという少女は、学は全くないが、決して馬鹿ではないことを、古い付き合いのクリスはよく知っている。
それに、時々、不気味に思えるほど、やたら勘が冴えている時がある。
気難しい性格で通っているクリスが、こうして相談相手にするのも、その信頼の証だった。
「いえ・・・・・・」
チャーリーは言葉を選ぶようにして話した。
「あの人は・・・・・・たぶん後ろから襲われたんだと、そうアリサさんは言ってました」
「それで」
「・・・・・・あの人は、敵も多い人でした。滅多に人前に姿を現そうとすらしなかった」
チャーリーはそこで一度言葉を切った。クリスは目で続きを促している。
「自分の、よほどよく知っている人以外の人の前には」
沈黙が流れた。
先に口を開いたのはクリスだった。
「私は・・・・・・まだ時期が早いと思う」
「だけど」
「まだだ。まだ証拠がない。決定的な何かがいる」
「でも、このままじゃ」
「まだだ。今動くと、決定的な証拠を取り逃がす」
チャーリーは不服そうだ。
「待つんだ。じっと待てば、いずれ風向きは変わる。チャンスは必ず訪れる」
チャーリーはそれでも納得しない顔だった。手の中のソニアの日記をじっと見つめていた。
「たぶん、これをいくら読んでも仕方がないんですよね?」
「おそらく、そうだと思うが?」
今のはどういう意味なのだろうか?クリスはチャーリーの発言の真意を図りかねていた。
病院に行くというチャーリーと別れたあと、クリスは街の中を歩いていた。
クリスにはクリスなりの考えがある。
ルビーの行動を追ってみようと思っていた。考えてみれば、日記に書いてある事だけが彼女の全てではない。
彼女が誰と会い、話をしたかがわかれば、日記に書いてある内容も自然に明らかになるのではないかと思ったからだった。
2人は別れ、クリスは庭に出た。
薄曇りの空から吹き付ける風は、身を切るように冷たかった。
いよいよ、冬が訪れようとしていた。




