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ほんのり淋しい15の僕

作者: 蒼椿 涼

 

 そこには、たったの一人しかいない。家の中には僕だけで、他には誰もいない。淋しくなどない。もう何年もこの光景を見続けているので、自明で普遍的なものだと勝手に捉えている。母への感謝の気持ちは大きすぎて、逆に扱いづらい。父は僕の記憶が不確かな頃にいなくなっていた。理由を母に聞く機会が無かったので、未だにそれについて何も知らない。

 独り言を好まない僕の周りには雨の音が静かに溶け込む。15歳まで僕を育ててくれた母に恩返しをしなくては。二階の小さなベランダは僕のお気に入りの場所で、よくデッキチェアに体を委ねながら小説を読む。今日は雨が降っているので一回のソファで小説を読むことにしよう。

 冷蔵庫から果汁100パーセントのオレンジジュースを取り出して湯飲みに注ぐ。遠い昔、両親は陶磁器のコレクトに熱を上げていたようで、新婚旅行のツーショット写真の隣に、いかにも高値が付きそうな茶碗が埃を帯びて置かれている。今となってはこんなに笑顔な母親を見ることはできないが、過去を省みてもなかなか思い出せない。忘れてしまったのだろうか。

 僕はグラスをテーブルに置いてソファに着いた。目の前の大きなテレビはアナログなので、僕は2011年7月24日正午以降テレビを見ていない。雨がしとしと降っている。雨が少し弱まったのを見て、僕はソファを抜け出して身支度を整えた。お気に入りの水玉の傘を持って、玄関を出た。 

 そこには、たったの一人もいない。寂れた駅は学生だけで埋め尽くされる。それも朝と夕の二回限定だ。ホームに辿り着くと、誰もいない。電車が来ていない事を確認し、線路に向かって傘に付いた水を飛ばす。時間を掛けて家から駅まで移動したにも関わらず、その範疇は共通項を持つみたいだ。

 雨の勢いが次第に強まっていることは、音で確認することができる。しばらく動かない方が良さそうだ。僕はベンチに腰を置いて、小説を読み始める。雨が憎く、冬が待ち遠しい。


 僕はその人から「ゆき」と呼ばれていた。僕がその人と聖夜に駅前の定食屋で談笑していると、その人は僕に好きなものを訊いてきた。僕は空気が読めないのか、何となくその人の背

景に映った吹雪を見て答えた。

 「『雪』かな。」。

 僕はその件をキッカケにその人から「ゆき」と呼ばれるようになった。実を言うと、本名が「ユウキ」なので区別は付かなかった。

 「じゃあ△△は何が好きなの。」

 逆に僕がその人に訊いてみると、その人は何の迷いもなしにさくらと答えた。その瞬間から僕はその人を「桜さん」と呼ぶようになり、雪と桜という関係が完成した。年を超えた夏に桜はある駅で自殺した。


 今日はあの人の命日である。初めて迎えたこの日、僕はどうやってあの人を弔えば良いのか迷っていたが、いつの間にかその場所に来ていた。当時、僕は全くを持ってあの人に自殺のオーメンを憶えなかった。死んでいる人をお見舞いするというのは中々風変わりだが、関係性は謎でしかない。誰もいない駅のベンチに水玉の傘を添える。少し離れた所から見てみると、寂しかった駅がより切なくなった気がした。誰もこの駅で人が自殺したなんて覚えていないのだろう。僕だって毎日忘れそうだ。もう残すものはない。傘が誰かに駅へ届けられる前にこの場を去ろう。駅を出ると二人でよく行っていた定食屋が目に入った。過ぎ来し方を少し眺めてみる。

 僕とその人はほぼ毎日のようにこの定食屋に通っていた。窓側に僕たちの定位置があり、この日も僕たちを待ち望んでいたかのようにその席は空いていた。1年間まるっきりこの定食屋とは空白だったが、その名残はまだ死んでいないみたいだ。

 「久しぶりだね。今日は一人かい?連れの子は?」

 小さな店なので、オーダー取も店長が担当している。60代くらいの店長が、まさか僕たちのことを覚えていたとは、心底意外だった。 

 「これからは一人で来ます。」

 取り敢えず、今僕が言えるのはそれだけだった。雨の音しか聞こえなくなった店内では、店長の一つ一つの動きがスローに見える。

 「そうか、じゃあ、ゆっくりしていってね。」

 30分ほどボーッと何かを考えていたが、ふと我に返ると全部忘れてしまった。無駄な時間を過ごしたとは思えない。現にアイスコーヒーは冷たいままだ。

 何となく携帯を眺めていると、あの人との連絡の履歴がある。未だに上の方に残ったトーク履歴はなんの生産性もない社会不適合物だ。もう消した方がいいかもな。そう思うも中々消せない。僕の人生が名の知れない作品なら消してしまうのだろうか。

 雨か。雪の日が来れば手段を問わず、僕はあの人を僕から消すことができる。手に落ちた雪が雨になるように。それまでは一生懸命生きてみよう。

 

 土用波に晒されているわけがないのに、僕の髪はその風の淋しいかたちで揺れている。夏の終わりは秋雨を呼んで雪となる。

 決して僕は大洗にいるわけではなく、いつも通り家のベランダだ。飲み物とスナックを取りに一階に向かうと、そこには珍しく母がいた。

 「今日は仕事ないの?」

 「そうね。でも、明日からまた忙しいから。今日はゆっくりするね。ご飯は作るからね。」

 母は僕のために、ほぼ毎日毎分働いているのだ。

 「分かった。ありがとう。」

 母といる時間は非常に貴重なのに、なぜか母が家にいる時は部屋にこもって勉強や執筆をしたくなる。勉強を頑張って、良い大学に行けば、母も喜んで、僕も幸せになるのだろう。


 厳冬の波は着実に近づいていた。天気予報曰く、今世紀最大の大寒波が日本大陸に到来するそうだ。木枯らしがささくれを擽って、手の指に絆創膏を付けていたあの余裕はあっという間に逝ってしまった。明日が僕の誕生日で、その事実を知っているのは世界で僕と母の二人だけだ。三人目と四人目はもう既にこの世から去ってしまった。

 母はわざわざ僕の誕生日を祝ってくれるようで、前日の今日はキツキツで仕事をしているようだ。僕は小説を二冊持って、コンビニで飲み物とサンドウィッチを買って、半年ぶりにあの人の命所に行く。全く同じ道を通って行くのだが、その道の途中で気づいた事があった。僕たちがよく行っていた定食屋が潰れてしまっているのだ。店の入り口の前まで行くと、紙が一枚貼ってあった。

 【 経営不振 】。

 この半年の間になくなってしまったのか。半年前に店長と話した時は全くそんなオーメンを憶えなかったが、また死んでいくのだなと思うと少し淋しい。

 しばらくぶりの駅はやはり物寂しかった。当然あの時添えた水玉の傘は姿を消していたが、それ以外は何も変わっていなかった。


 そこには一人しかいない。数時間前まで近所の高校生で何かと盛り上がっていたこの駅も本来の姿を取り戻した。電車の数は徐々に減っていくが、降りる人々の数は次第に増えているようだ。それでも酷寒の夜の淋しい駅に居座り続ける人などいるはずもない。そう、僕だけである。

 5時間程度で、持ってきた二冊の本を完読してシャーペンで最終ページに完読という文字を書いた。それから、さっきコンビニで買った食料に手をつけて、寒さに耐えていた。時計は23時30分で後30分で何回目かの誕生日を迎えるみたいだ。 

 寒さのあまり両手が生きていることを確認すると、その手の上に雪が乗るのを見た。思わず上を見上げると、燦々と降る雪が目の中に入ってくる。手の上に落ちた雪は即座に姿を消して、死んでしまう。

 少し前まで「雪」と呼ばれていた自分。その雪がまるで僕のように思えてきた。あんなに楽しみにしていた雪もいざ降ってみれば、大したことはない。僕の心境に変化が生まれてたのか、そもそも僕(雪)がちっぽけなものだったのか、そんなことは見当もつかない。


 いつの間にか眠ってしまっていた。起きたて時刻を確認すると、4時30分。気付かないうちに、誕生日を迎えていた。始発までもう15分しかない。

 僕は雪と桜という関係を壊したくなかった。一生その歯車が狂わず、ズレても直すだけの心はお互い持っていた。桜が散ってしまった今、僕たちが一律にあるために僕はやるしかない。

 後30秒。踏切の音が聞こえる。この世界で、僕の世界で響くその鐘は決して悪いものでなかった。電車の影がどんどん大きくなってきて次第に実体で埋め尽くされていく。眩しい光線はまるで天国のようだった。

 

 誤った判断をしようとしていたのかもしれない。心の中では不履行の意は決していたのか。電車の汽笛の音が鳴った瞬間に思ったのだ。

 僕が「雪」であの人が「桜」ではなく、僕が「桜」であの人が「雪」なのではないかと。そういう事にすれば全てが納得いく。そもそも、「桜」が散っている時点で関係などとっくに崩れていた。命は一つしかないから命であって、一度散ったら二度と同じ桜は咲かない。そんな事も分からなかったなんて、僕は相当切羽詰まっていたのだろう。

 笑みがふっと溢れながら空を見た。真っ暗な空から真っ白な雪が燦々と降っていた。雪はもう何分も降っていて、永遠の命を持っているようだ。

 朝の6時頃にやっとの思いで家についた。玄関を開けると、顔がケーキまみれになりながら、眠っている母親がいた。ケーキで顔の大半が隠れていたが、母であるとしっかり確認できた。息子が夜中になっても帰ってこないのに、電話もメールも寄越さずにただ見守ってくれた母は世界一の母親だ。

 僕は玄関先で呆然と立ち尽くしていた。外はまだ雪が降っていたが、僕は大豪雨だった。涙が止まらなかった。あんなに憎かった雨も今となっては美しい。

 

 生きてみよう。淋しいかもしれない。それでも、いつか綺麗な桜を見ることができるかもしれない。

 まずは涙を拭って、母とケーキを食べなくては。

 春が待ち遠しい。


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