私
私西田ユイは、凛城ユイという名で生まれた。
物心着くまで父母共々、可愛がってくれた。
だが、やはり家族というものは残酷で、徐々に父の暴力が激しくなっていった。
父が帰るとまず父は玄関で大泣きする。私の泣き癖も父に似たのだろう。
その後母は父を励まそうとするが、そこで暴力沙汰になり、私も巻き込まれる形が多い。
私も暴力を受けると必ず泣いていた。だが慣れていくうちに恐怖はあまり感じなかったのはよく覚えていた。母はとても怖がっていたが。
よく母にお菓子の買いたさによくぐずっていたのに、父への暴力は母にあまり泣きつかなかったのも覚えている。
その後、私が小学一年生になる何ヶ月かまえか、母は我慢の限界だったらしく、私と母で家を出ていった。
その後は、母とこの町に団地を借り、私は小学生に、母はアルバイトを転々としていた。
この団地生活で、私は徐々にわがままになっていった。
父がいた頃はちゃんと三食きっちりとご飯を食べてたし、家も広かった。暴力以外はとても裕福だった。
なので突然の環境変化に慣れていないのか、私はしつこく、母にご飯を要求したりとわがままを言っていた。
アルバイトの帰りで疲れていた母だ。すぐにイラつき始めていた。
そして団地生活半年ほど、ついに母にも私に暴力を振るうときがきた。私のあの荒れ具合だ。誰でもああなるだろうさ
だが、しつけとして暴力を振るっていても、昔の父の暴力により
恐怖を感じなくなったため、いくら殴られていても、泣くだけで何も
変わらなかった。母も、それに応じて徐々に父以上に暴力がひどくなっていった。
そのせいで私は泣く機会が増えていき最終的に泣くことに快感を覚えるようになっていった。
母は私といて何がよかったのだろうか
私は何で母と暮らしているのか
私は何で母の元に生まれたのか
私は何で父のところに引き取られなかったのか
私は母に必要とされているか
私は母の何だ
何で生きているのか。
私がいると母は泣いて、殴る。いなかったら泣かないし殴らなくてもいい。
それから私は母に気を使い、できる限り関わらずにいようと努力した。
母は結構外にいる時間が長いから、帰るときには寝るふりをしたり、
食べ物は冷蔵庫のものを漁ったりした。
そして中学一年生の時に母は結婚した。
新しい父親のその息子と一緒に暮らすことになった。
母は幸せになった。
私がいなければ母はもっと前から幸せだったはずだ。
自分が許せない、自分がこんな幸せな生活を送るなんて許されない
私は幸せを拒んだ、自分が幸せになると恐怖や悲しみが私に這いつくばる。
そしてこれからも私は泣いていった。