表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/8

二千年まえ

 とても長い時間を一人で過した。寂しさをまぎらわすために、この島へとやって来た。いや、もう寂しさという感覚は麻痺していたのかもしれない。ハームが住んでいた山に登った時に希望など持っていなかったように。

 この島にも神がいた。だが、やはりその姿は見えない。それなのに人々は祈り、供物を捧げる。姿が見えないものになにを祈っているのだろう。なにを望んでいるのだろう。


 ある日、誰かが断崖から身を投げるのを見た。神がいるなら、なぜこんなことが起こるのだろう。私は断崖の下へと急いだ。せめて埋葬してあげないと。それだけを考えて急いだ。

 断崖の下に着いた時には我が目を疑った。身を投げたであろう者——若者だった——が、岩に腰掛けていた。

 私は岩場でバランスを崩し、つい声を上げてしまった。その声に気づいたのだろう。若者がこちらに顔を向けた。私は急いで若者の近くへと向かった。その間、若者は、こちらを見ていることもあれば、海を見ていることもあった。

「君は、今……」

 私はあと数歩というところまで若者に近づくと、大声で訊ねた。

「えぇ。死ねませんでした」

 私がすぐ横に辿り着くと、若者は弱々しい笑顔を浮かべ、波になんとか負けない程度の声で答え、すこし奥の岩場を指指した。そこには、若者が落ちたことを示す赤黒い液体が、波に洗われていた。

「君は死ねないのか?」

 私は足元と若者を交互に見ながら若者に近付いた。

「はい。どういうわけか。今朝、妻を看取って。三人めの妻を看取って。ここに来たのですが」

「私はヤコブだ。君の名前は?」

「ビオスです」

 私とビオスは崖の上に登った。そして私の部屋で、私とハームの話をした。私とハームの長い旅の話を。それにかかわる様々な出来事を。そして、ハームの最期を。長い時間が必要だったが、ビオスはそれにつきあってくれた。

 ハームは「諦め」が私たちに死をもたらしてくれると言っていた。だとしたら、ビオスはなぜ死ねなかっのだろう。ハームが言っていたことは、私がハームという数千年を共に過ごした友人を失なったこととも、ビオスが身を投げるに至った理由とも、異なるものなのだろうか。私はといえば、ビオスに話しながらそんなことを考えていた。


 私とビオスは様々な議論に参加した。楽しい時期だった。友人がいる。議論がある。円や三角、四角を描いたり、それらを組み合わせての議論もあった。

 また、ただの舞台から、それが劇場へと大きくなっていくのも見た。仮面を着けての演劇もいくつも見た。面白くはあったものの、すこし理解できないこともあった。なぜ死を厭うのだろう。おそらく違うからなのだろう。私たちにとっては、望むものなのに。

 劇場に限らず大きな建物も建てられた。噂に聞いていた、そしてハームと過した地に近い土地の文明の影響がここにも次第に及んでいた。

 この島から始まった文明は、古い文明の遺産を学び——それらが死滅してはいないとしても——、大陸にも版図を広げていた。懐しい場所の噂も耳に入った。だが、ただその場所が懐しいだけであり、噂で聞くことはもう私が知っているその場所ではなかったが。


 それからしばらくして、大陸に若い文明が芽生えた。その文明は若さゆえか荒々しく、この島の文明と若い文明はいくらかの衝突を経て、この島の文明の版図は次第にその若い文明に奪われていった。

 私とビオスは、この島に残るか、若い文明の地へ赴くか、それともどこか辺境に行くかを話しあった。だが、おそらく辺境というのはなくなるか、かなり遠ざかるだろうと考え、むしろ若い文明へと居を移すことにした。


 島から出てしばらく経った時だった。騒乱の時期でもあったが、ここはそれほどでもない。その頃、ビオスはある者の噂に傾倒していた。ハームを失なった場所に近い場所からの噂だった。その熱心さから、私たちはその者の地へと居を移した。ビオスの傾倒はさらに強くなった。ある日、その者が磔刑に科せられた。それから数年、後継者という者が歩き回っていた。

 そしてビオスは床に伏した。誰かが磔刑に科せられるのは、それほど珍しいことではない。だが、その者はビオスにとって特別だったようだ。いや、磔刑はビオスにとって始まりではあっても、理由そのものではなかったのかもしれない。

「あなたより若いのに。すみません」

 私はベッドの横に座り、ビオスの手を握っていた。

「でも、わかったんです。これが未来なのですね」

「あぁ、もちろんこれが未来だ」

 ビオスは最初に会った時と同じように弱々しく微笑んだ。

「いいえ、あなたにはわかっていない。私たちがどうなれば死ねるのか。これは救いです」

「教えてくれ。ハームは教えてくれなかった」

「これからは秩序がより強く求められる。それは権力や法かもしれないし羊飼いかもしれない。あるいはそれらを含み、また別のなにかかもしれない。それらが草を食む者たちはただそのために、そのためだけに生きるように強いる。それが未来なんです。あなたにはわからなくていい」

 ハームが咳こんだ時のことを思いだす。

「ハームもそう言っていた。どういうことなんだ? 教えてくれ」

 ビオスは弱々しくゆっくりと首を振った。

「たぶん、これはその人がわかる時にならなければわからないのでしょう。あなたが今、わからないのだとしたら、今はあなたにとってその時ではないということです」

 ビオスはそう言ったきりだった。


 ビオスを数年看病したが、彼はそれ以上のことは言わなかった。

 そして、私は二人めの友人を亡くした。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ