六千年まえ
ハームと一緒に旅をはじめて何千年かが過ぎた。時にひどい喧嘩もしたが、同胞と呼べるのは私たち二人だけだった。五十年が過ぎようとも、私とハームは友人に戻った。ここ百年ほどは、定住とはいかないがこのあたりで暮している。
次第に農耕が発達するのも見てきた。ハームと出会ったころの農耕は、今の農耕と比べれば、偶然に期待していたようなものだった。水を引いてくるという大工事にも参加した。人数が増えるのも見てきた。煉瓦作りの家々が建ち、街が大きくなるのも見てきた。
私にとってもハームにとっても驚きだったのは、「文字」が現われたことだった。私とハームにとっては、それはよく言っても絵にしか見えなかった。だが、十数年つきあうと、一塊のものがある物やある事を表わすのだと理解できた。そしてそれが話す時と同じように並んでいることも。
「俺が描いた絵と、大差ないな」
ハームはそう言っていた。
人々はさらに増えた。街も大きくなった。人々は農耕と牧畜、漁をするだけではなくなった。ムシロを編む者、家具を作る者、歌う者、文字を書く者、様々だった。いくらか混乱もあったが、私やハームにとってはそれは混乱と呼べるようなものではなかった。ただ言うなら、規模が昔とは違ったかもしれない。だがその程度の違いだった。
神を祀る祠は次第次第に大きくなった。長老たちはその周辺に住みついた。
「神か……」
私とハームは、神殿——その頃にはもうそう呼ばれていた——の前を通るたびに呟いた。
神に恨みがあるわけではない。もし神がいるのだとしたら、恨むこともできるというものだ。だが、ハームも私も神というものを見たことはない。
そしてしばらくして私たちには理解できないことが起こった。長老たちの家系の若い者が「私に従え」と言いだした。文字を書く者を従え、「これが法だ」と言った。それが突然起こったように思えたのは、私とハームがそういう世の中のことに興味を持っていなかったからかもしれない。そう言われてから、何度も、長老たちやその若者、あるいは文字を書く者に尋ねた。
「法とはなになのか?」
「なぜ若者や法とやらに従わなければならないのか?」
だが、答えはいつも同じようなものだった。
「神が与えたものである」
「神に与えられた役目だから」
私が生まれ、そして追放された村の掟とどう違うのか、それすらも私にはわからなかった。神がどうやって法と役目を与えたのか、それらはどういうものなのか、私たちはさらに問うた。
「法に従えという根拠は?」
「神が与えたというなら、その神に会わせてくれ」
私とハームが神に会いたいと思う理由は、私とハームだからという以上のものが必要だろうか?
「法なのだから法に従え」
「神は、選ばれた者にしかお会いしない」
何度も何度も若者や文字を書く者を問い詰めたが、いつもそこで行き止まりだった。法に、あるいは掟に従う根拠は誰も教えても、答えてもくれなかった。
次第に私たちは街の中には住み難くなっていた。私たちの家の周りに向かって勝手に広がって来た街だったが。なぜ他の人々は訊ねないのだろう。私たちにとっては、それも理解できなかった。
結局、二人で街の外れに家を建て、そちらに移った。
そうしている間に、文字は奇妙なものへと変っていった。ハームが言った絵のようなものから、線の集まりへと変化していった。
ある朝、咳の音で目が覚めた。
隣の寝床に寝ていたハームが上半身を起こし、咳こんでいた。咳がやむとハームは苦しそうにゼイゼイと息をした。その時、ハームが開いた手には血がついていた。口元にも。私はどうしたらいいのかわからず、ともかく部屋の向いのタンスの上に置いてある水瓶とカップへと向かった。
「わかったよ、ヤー」
背後からハームの声が、力の込もらない声が聞こえた。
私は水瓶からカップに水を注ぎ、急いでハームのところへ戻った。
「わかったって、なにが?」
カップをハームの両手に包ませ訊ねた。
「これが未来なんだな」
「あぁ、もちろんこれが未来だ」
ハームは水を二口飲んだ。深く二、三度息をし呼吸を整えると、すこし落ち着いたようだ。
「そういうことじゃないんだ。私たちがどうなれば死ねるのか。これが救いなんだ」
「どういうことだ?」
ハームは左手を口にあて、またすこし咳こみ、そして水を飲んだ。
「諦めなたからなのか、知ってしまったからなのか」
ハームはまた咳こんだ。私はハームにもう一口水を飲ませると、ハームの背中に手を添え、横にした。
「街はもっと大きくなるだろう。人ももっと増えるだろう。そうなった時になにが起こるか。これが未来なんだ。君はまだ知らなくていい」
そう言うと、横になったまま咳こんだ。私はハームの背中を擦った。
数年後、ハームは亡くなった。誰よりも長く一緒に旅をしてきた。悲しくないわけがない。生きることに諦めさえ感じた。しかし、私の体には異変は起きなかった。
ハームが言っていた諦めとはどういうことなのだろう。北へ、西へと来た道をゆっくり戻りながら考えた。たまに、ハームを埋葬した場所を思い出しながら。そしてその地の噂を聞きながら。