第88話 「幽霊騒動」
明日に備え、時刻はまだ9時だというのに俺たちはすでに就寝についた。アカネはいつも通りの時間だが。
レイ教との戦争にも等しい戦いが明日には待っている。かもしれない。
もしかしたら意外とスンナリ終わるかもしれない。レイトが倒してしまっている可能性すらある。だといいなあ。
そういえばアナは戻ってこなかったな。きっと仲間と仲直りしたんだろうな。
などと考え事をしつつ、眠りについている。
このような時間だが、今日は激しい運動をしたからか、気持ちいいほどにぐっすりと眠れている。
何の問題も起きなければ、このまま朝まで目を覚ますことはなかったはずだ。
そう、何も起きなければ。
「出たああああああああああ!」
夜の静寂を打ち破る叫び声が屋敷中にこだまする。
その声に反応し、気持ちのいい睡眠についていた俺は目を覚ます。
眠い目をこすりながら、うすぼんやりとする頭を覚醒させようとする。
一体なんだというのか?
あの声は、多分ソウラか。
まったく、決戦前夜ぐらい静かにできないのか。
「お、おいマサト!」
いつか見た大胆なネグリジェ姿とは全く違う、だが動きやすさを考慮し肌の露出が無駄に多い服装に身を包んだソウラが、激しい声と、それとは裏腹の顔面蒼白な状態で俺の部屋に駆け込んできた。
「ったく。何だってんだよ」
「出た! 出たんだ!」
ソウラは必死に出た出たと連呼するが、要領を得ないその説明では、覚醒していない状態の頭で理解することは不可能だ。
「お父さん、いまのこえなに?」
ソウラの声に反応してか、アカネが寝ぼけ眼で俺の部屋に入ってきた。
アカネの部屋は俺のすぐ隣だから、こんな夜中でも怖がることなく俺の元へ来れるというものだ。
というか、ナナも同じ部屋なのに、こっちには来ないのか。
相変わらずどんな邪魔が入ろうとも、一度寝てしまえば朝まで起きることはないのか。
「アカネ、ソウラが勝手にはしゃいでいるだけだから、寝てていいぞ」
「勝手にじゃない! 出たんだ!」
「だから何が?」
ヤバイ、イライラしてきた。
こんな夜中にたたき起こされて、訳の分からない説明ばかりで、さすがにイラついてきた。
アカネの前だというのに怒鳴ってしまいそうだ。
「何がって、幽霊だ! 幽霊が出たんだ!」
「あっそ。アカネ、何でもないから寝てていいぞ」
ったく、幽霊ぐらいでガタガタ騒ぎやがって。
なんだってそんなもので騒げるのかね。これだから最近の若者って奴ぁ。
「お、おい! 寝るな、寝ないでくれ! 頼む、一緒に来てくれ!」
ソウラの幽霊発言を無視して眠りにつこうとしている俺を、無理やり起こして前後にめちゃくちゃに振り回す。
その時、俺の頭の中の血管がブチッと切れたかのように、怒りが臨界に達する。
「うっせえ! 幽霊ぐらいなんだ!」
「幽霊ぐらいとはなんだ! 幽霊は老若男女、大人から子供まで怖いものだろうが!」
「大人が怖がんな!」
俺とソウラの激しい言い争いに、家に住む人間がこの部屋に集まってきた。
といっても、この家の使用人はモンスター襲来のせいか、実家に帰って家族と残された時間を慎ましく暮らしている。この家の人間はもはや料理を作る人が1人と、俺とナナにアカネ、ソウラの家族だけだ。
「何なの、何の騒ぎ?」
「母様、幽霊が出たのです!」
「…………えっ! ど、どこに!?」
幽霊の単語を聞いた瞬間、シーラの顔が驚きというより、恐怖に変わっていった。
シーラも幽霊が怖いのか。全く、ここの家族は。
「トイレに出たのです!」
「じゃ、じゃあ早く霊媒師を呼んで――」
「それじゃ遅いです! おいマサト、お願いだ! 一緒についてきてくれ!」
「子供か!」
怖いからトイレについてきてくれなんて、今どき子供でも言わないぞ。
ソウラは俺より1つ2つ年上なのに、しょうがない奴だ。
「そんじゃあついてってやるから、その後は寝かせてくれよ」
「何でもいい、早く来てくれ!」
そして俺とソウラ、そしてなぜかシーラとアカネがソウラの用足しについてきた。部屋からトイレまでの道のりでは幽霊に遭遇せず、ソウラの要件は無事に済んだ。
歩いている時、3人は俺の服の裾をつまんで歩いているので非常に歩きづらい。
さっきアカネに幽霊のことを教えたのが悪かったな。
ちなみにソウラの父親、ゴーマは自室に戻って床に就いた
腐っても男、幽霊に動じることはなかったか。
「お、お父さん。あそこにういてるのって……」
アカネが前方を指さし、何かを見つけたようだ。
あれは何だろうか?
俺は眠い目をこすって、アカネが指さした方向をじっと見据える。
徐々に鮮明さを取り戻した俺の視界に、うすぼんやりと何かが映り込む。
「あれは……」
それは人の形をしているように見える。
だが体はうっすらと透明なようでいて、足が浮いている。
足はあるのだが、それは地についておらず、宙に浮いた状態にある。
うん。幽霊だ。
「「キャアアアアアアアア!」」
いつも凛としたソウラが初めて女らしい悲鳴を上げ、俺にしがみついてきた。
あのシーラでさえも叫び声をあげる。
何気に可愛いところがあるもんだ。
そう言えばアカネは、
「……………………」
無言で俺の腰のあたりに顔を隠し、小刻みにブルブルと震えている。
怖がった仕草も可愛いなあ……じゃなくて、俺の娘にこんな怖い思いをさせるとは、幽霊め。
というか、どうしてみんなこんなに幽霊のことを怖がるのか。
「おいそこの、何してるんだ?」
こちらの声が聞こえているかどうかわからないが、俺はとにかく話しかけてみた。
すると俺の声が届いたのか、幽霊と思しき何かはゆっくりと俺たちの方に顔を向ける。
見た事のない、男性の顔だ。
「マ、マサト、追い払ってくれ!」
「つっても、俺は別に霊媒師じゃないし」
幽霊が目の前にいる、そんな状況なのに俺は落ち着き払っている。
こんな物の何が怖いのか、本当に分からない。
「とりあえずスキルを使うか。俺は求める。除霊を」
と唱えてみたが、霊的力を持たない俺に除霊などできようはずもない。
スキルは発動せず、時は動いたままだ。このスキルがいかに俺のすべてを肯定しようとも、出来ないものは出来ない。
「おいマサト、答えは見えたんだろ?」
「いーや、さすがに無理だ。出来んもんは出来ん」
そう言うと、ソウラは絶望したかのように表情が硬直した。
が、その代わりに俺に抱き着く力が急激に強まり、体からミシミシと危なげな音を立てている。
「ソ、ソウラ離せ! 苦し……!」
無言で抱きしめるソウラの腕に必死で抗い、なんとか左腕を潜り込ませてソウラの腕を引きはがす。
殺す気かっての。
「しっかりしろお前ら。あんなもん何が怖いんだ」
「何がって……怖いものは怖いだろ!」
何と感覚的な答えか。
ソウラに論理的説明を求めることが無茶というものか。
「いいか、あんなものただの浮遊物だ。見てろ」
俺は幽霊に近づき、それに触ろうとする。
だがその手は幽霊をすり抜け、触れることは叶わない。
何度か手を幽霊の体を横切るように動かすも、一度としてそれに触れることはない。
そのことを確認したのち、俺はソウラたちの方向に振り返る。
「どうだ、俺は幽霊に触れない。つーことは幽霊も俺を触れない。こんな物、いたって無害だ」
そう言って、俺は自室に戻ろうとした。
まだ眠気はある。目が覚めないうちに早くベッドに戻らないと、今夜は眠れなくなりそうだ。
「ちょっと待て、別に触れる触れないを気にしているわけではなくてだな」
部屋に戻ろうとする俺の手をソウラが掴んで引き留めた。
見るとまだ恐怖を消えておらず、俺の言ったことに納得のいかないといった顔をしている。
シーラもアカネも、恐怖をぬぐいきれない様子だ。
「お父さん、こわいよ」
震えながら、上目遣いで、少々うるんだ瞳で俺のことを見つめるアカネ。
その目に俺が抗えるはずもなく、仕方なく幽霊に再度近づく。
かといって、何かできるかどうかと言われればそんなことはなく、幽霊の前に棒立ちしていることしかできない。
その時、幽霊が動いた。
俺にゆっくりと近づいてきた。
怖くはないと言っても、未知の物体が近づいてくることに、俺は身構える。
だが幽霊は俺をすり抜け、後ろにいるソウラたちの方へと向かっていった。
「キャアアアアアアアア!」
幽霊に近づかれたソウラは、一目散にどこかへ逃げて行った。
それを追いかけるように、幽霊はソウラの逃げた方向へと一直線に向かう。
「なんだ、狙いはソウラか?」
まあ、別にどうでもいいか。
あれの狙いがソウラなのであれば、ソウラから離れていれば幽霊が近づいてくることはない。
「アカネ、今日はもう寝よう」
「……でも、ソウラお姉ちゃんは?」
「……アカネは優しいな。ま、ほっとくわけにもいかねえか。うるさいし」
どこか遠くへ逃げたというのに、ソウラの声はこちらまで伝わってくる。
このままでは、うるさくて眠りにつくことなど不可能だろうな。
「俺たちはソウラのとこに行くけど、シーラはどうする?」
俺は床にへたり込み、腰を抜かしているシーラに尋ねる。
……ん?
よく見たら、泡吹いて気絶してるな。
気絶しているシーラは放っておいて、俺たちはソウラのことを追いかける。
声はこちらまで届いているおかげで、大体の位置は把握できる。
というかうるさすぎだがな。
「多分ここらへんかな」
声が発生しているであろうと思しき部屋、そこのドアを開ける。
中では、高そうなソファの上で顔をうずめて丸まっているソウラの姿と、その横にはソウラのことを呆れながら見つめるナナがいた。
「あっ、マサトさん」
俺に気付いたナナが声をあげる。
それに反応してソウラも顔を上げ、この世の終わりかと思えるほどの表情をこちらに見せる。
「ナナ、起きたのか」
「さすがにこれだけ騒げば起きますよ。で、何があったんですか?」
「幽霊が出た」
「はあ、幽霊ですか? それで、どうしてこんな騒ぎに?」
ナナは幽霊という単語にさしたる疑問も驚きも見せず、むしろそれの何が問題あるのか、という風な声をあげる。
それに対してソウラが声を荒げて反論する。
「お前もか! お前もマサトと同じなのか!」
「な、なんですか? だって幽霊って、同情はしても、怖がったりはしませんよ」
「同情って……一体何を同情することがあるんだ!」
「だって、幽霊って未練があって生まれ変われない人のことを言うんですよ」
確かに同情するな。人生がうまくいかなかった、それゆえに新たな命に生まれ変わることも出来ず、ただ現世をさまよい続けている。
人としてこれ以上の苦しみはあるのか。
「とはいっても、怖いものは怖いんだ!」
「はあ、でも大丈夫ですよ。放っておけば、神様がいつか成仏させますから」
「いつかっていつなのだ?」
「あの人はものぐさですからね。まあ、1年以内にはやってくれますよ」
「遅い! 他に方法は!?」
「……思い残すことをなくせれば、成仏しますよ。多分」
「どうすればいいのだ?」
「そんなの、幽霊に聞いてみないと分かりませんよ。あ、ちょうどそこにいますね」
「えっ!?」
ナナに言われ、辺りをキョロキョロと見まわすソウラ。
そしてドア付近で幽霊を目視し、慌てたのかソファから転がり落ちて頭を強打し、シーラと同じように意識を失った。
「そんなに怯えなくても……まあ幽霊がここにきたなら好都合です。幽霊さん、あなたは何がしたいんですか?」
「……………………」
ナナの問いかけに、幽霊は一切言葉を発さない。
口を動かし、何かを言おうとはしているのだが、声は出ておらず、幽霊の意思は何一つこちらには伝わらない。
「うーん、しょうがありませんね。幽霊さん、私にとりついてみてくれませんか?」
「え、そんなことできんのか?」
「はい。とりつくと言っても、私の自我が消えるとかはありません。あくまでも幽霊の気持ちが分かるというものです。これは天界人に許された特権です」
ふーん、そんなことが出来るのか。全く使用用途が分からないが、面白い特技を持っていたもんだ。
「というわけで、幽霊さん、私の頭に、あなたの頭をくっつけてください」
幽霊は言われるがまま、ナナに頭をくっつける。
先程、俺がどれだけ触ろうとしてもすり抜けるだけだったが、幽霊の頭はきちんとナナの頭に当たった。
それから数秒、ナナと幽霊は静かに目を閉じる。
さらに数秒後、ナナの顔が真っ赤に染まった。
「ささ、最低です! なんですかその願い!」
その反応に対し、幽霊は照れ臭そうに笑いながら、頬を赤く染めた。
幽霊のくせにこんな反応も出来るのかよ。
「ナナ、こいつは何がしたいんだ」
「一度でいいから、女性の裸を見たいらしいです」
……なるほどそれでソウラのことをつけ狙っていたのか。
ソウラは見た目だけならそこら辺の女に負けることのない美女だからな。おまけにスタイル抜群と来たもんだ。
「そんじゃ、さっさとソウラを引ん剝いて……」
「何しようとしてるんですか!」
ソウラの服に手をかけた俺の手を、ナナは慌てて引き離した。
「いや、ソウラの裸見せて成仏してもらおうかと」
「こんな幽霊に同情する必要はありません! 一生彷徨ってればいいんです!」
ぷいっとそっぽを向くナナ。
この幽霊の願いは、確かに女にとって軽蔑すべき対象だろう。それは分かる。俺だって、そんなことで幽霊になって彷徨っているこの幽霊には呆れている。
が、ほんの少し、あくまでもほんの少しだが、この幽霊の気持ちも分かってしまう。
きっとこの幽霊は童貞だ。そんな男にとって、女の裸を一度でいいから見たいというのは、幽霊になるほどの未練なのだ。
が、そんなことを言ったところでナナが納得するわけがない。
「おい幽霊、ちょっと耳貸せ」
俺は幽霊に対して手招きし、顔を近づけることを要求する。
幽霊はゆらゆらと上下に揺らめきながら、ゆっくりと俺に耳を近づける。
「いいか、よく聞け。お前は幽霊だ。壁はすり抜けられるし、どこにだって行ける。覗こうと思えばいくらでも覗けるぞ」
「!?」
幽霊が今までで一番の表情を見せた。
それは驚愕の顔。俺の下衆な提案に対する驚きだ。
だがその驚きはほんの数瞬のもので、幽霊はすぐに思案に入る。
そして下卑た表情を浮かべながら、俺に一礼した後にこの部屋から出て行った。
おそらく風呂屋にでも行ったのだろう。
お前の未練、断ち切って来いよ。
「そんじゃ幽霊はどっか行ったし、寝るか」
「……あの幽霊に、何言ったんですか?」
ナナがジト目でこちらのことを見据える。
まあ、少し考えればすぐに思いつくだろう。あの幽霊が納得することと言えば、女にとっては気分の良くないものであろうことは。
「別に、ちょこっと提案してやっただけさ。なに、幽霊のやることだ。俺たちに害はない」
「それはそうですけど、いい気分にはなりませんよ」
「まあそうだろうけど、大目に見てやろうぜ。あいつは幽霊になるほど女の裸が見たかっただろうからさ」
「……はあ、もうとやかく言ってもしょうがありませんしね」
ナナは呆れながら深いため息をつく。
正直いい気はしないが、納得してもらうほかない。こうでもしなきゃあの幽霊は成仏することはなかっただろうし、そうなればソウラが毎日寝られない夜を過ごすことになるかもだし、アカネも怖がってるし、あの幽霊に共感しちゃったし。
「まあとにかく寝よう。明日は教団との戦いがあるんだし」
「そうですね。ソウラさん、ほら起きてください。こんなところで寝たら風邪ひきますよ」
ナナはソウラのほっぺをペチペチと叩き、起こそうとする。
だが目覚める気配は一向になく、微動だにしない。
「ナナ、もうほっとけ。どうせ明日、ソウラは連れて行く気はないんだから」
「え、そうなんですか?」
「ああ。だからそっとしとこう」
「……じゃあ、せめて毛布を持ってきます」
ナナは部屋を出て、毛布を取りに行った。
俺は床に寝そべっているソウラを、左腕だけで何とか動かして、ソファの上に移動させた。
うん、これで俺のやれることは全て終わった。
もう寝よう。
「お父さん」
部屋を出ようとした俺に、アカネが俺のことを呼ぶ。
振り返ってみると、アカネはほんの少し涙目で、怯えている表情をしている。
「どうしたアカネ?」
「あのね……いっしょにねていい?」
上目遣いで放たれたその言葉は、俺のハートを見事なまでに撃ち抜いた。
俺の娘は何と可愛いことか。こんな目で見られながら頼まれて、断れるはずもなかろう。
「ああいいぞ。お父さんと一緒に寝ようか」
俺は左腕だけでアカネを思いっきり抱きしめる。
その小さな体からは想像もつかないほどにアカネは強く、俺なんか足元にも及ばない力を持っているが、アカネはまだ子供なんだ。
本当ならモンスターなんかと戦うことなんかない、普通の女の子。
たとえアカネよりも弱くとも、俺の手で守らなければならないんだ。
「じゃあアカネ、部屋に戻ろうか」
「うん!」
俺は新たな決意を胸に、明日の戦いのために自分の部屋へと戻っていった。




