イメチェン事前準備
安奈は黙って俺にその雑誌を差し出した。
タイトルを見ると、池袋版の無料雑誌ブルーペッパーだった。ブルーペッパーは居酒屋の情報が載っているフリーの雑誌だ。
我が家が住んでいる家は、最寄りの駅は南浦和駅、徒歩二十分。バスで七分というところにある一戸建てだ。 土地はそれほど広くないが、申し訳ない程度に庭がある。
最寄りの駅が南浦和駅ということで、直近で一番近い大きな街というと池袋になる。
池袋までは乗り継ぎをうまくすれば一時間以内でいけるが、なんせ乗り継ぎがめんどくさい。だから南浦和という土地は、不動産業界でも穴場として知られている。
俺は安奈が差し出した雑誌を冷静に見下ろした。
「まだ居酒屋に行く歳じゃないぞ」
「居酒屋だけが載っているわけじゃないもん。特に今回は美容院特集が組まれているの。これに載っているやつで気になるところをあたってみれば?」
「お、おう、そうか。ありがとう」
礼を言って差し出された雑誌を手に取ると、妹はあざ笑うような笑みを浮かべた。
「今時、床屋なんて誰も行かないわよ。美容院でしょう、やっぱり」
「そういうお前だって、ついこの前までバーバー田村で髪を切ってもらっていたじゃないか」
「昔は昔よ。ふんだ」
ぷいと顔を横に向けると、再びソファに寝そべった。
田村さんに謝れ!
台所の後片付けを終えた母さんが戻ってきて、ソファに背を預けて座る。
「博士どうしたの? コンタクトにしたいって言ったり、床屋に行きたいって言ったり……彼女でもできた?」
母さんが「ひろし」と言ったとき、ノエルがピクリと反応し、驚いたような表情になった。その様子に俺は吹き出しそうになるのをこらえる。
「俺も高校二年だからな。このあたりでイメチェンしようと思って」
「お兄ちゃんがイメチェンっておかしい!」
妹が手をたたいて笑った。
そんなにおかしいか?
「男の子はある時期に、がらっと変わるものだからね」
父さんが静かに言って、ビール、もとい発泡酒の入ったグラスをぐびりとかたむけた。
「息子が容姿にこだわるようになるのは母親としてうれしいわよ。一緒に買い物行くにもかっこいい息子のほうがいいものね」
どこまで本音なのか、うきうきと明るい声を出す母さん。
「安奈もかっこいいお兄ちゃんのほうがいいでしょ?」
「知らなーい」
安奈は興味なさそうに答え、ちらりと俺のほうを見てきた。目が合うと途端に目線を避ける。
ともかく、俺は雑誌をぺらぺらとめくってみた。美容院特集ページはすぐに見つかった。いろんな美容院がある。
カット料金は下は三千から一万円以上するのもある。
「こんなに美容院ってあるものなのか?」
何を基準に選べばいいんだろう? やっぱり値段だろうか。
安奈がテレビを見ながら言ってきた。
「お兄ちゃんのことだから値段で選ぶつもりね。もっと選び処があるでしょ? お店の雰囲気とか、どんなトリートメントを使っているとか……あとお店の人がイケてるとか」
「ふうーん」
あいまいに相槌を打つ俺。安奈の言っていることが分からん。雑誌に掲載されている店は、全部同じように見える。
「安奈、おすすめのところないか?」
「まったくお兄ちゃんは……」
安奈はあきれたような怒ったようなため息をつくと、面倒くさそうにソファから立ち上がって、俺のところにやってきた。そして俺の目の前に、二つ折りの紙を差し出す。折れた状態で図書館のカードくらいのサイズだ。
「これ、わたしが行っている美容院の会員カードよ。ブルーペッパーにも載っているお店なの。学割利くし、駅から近くて便利でスタイリストの腕もいいんだから」
安奈から紙を受け取って二つ折りの紙を開けてみると、上部分は美容院の案内、下部分は三行五列にポイントスタンプが押せる場所があり、半分ほどがスタンプで埋まっている。
スタンプの下には、来店日時と担当者の名前。三か月ほどの単位で定期的に通っている。担当者が「堺」の名前ばかりなので、安奈はその美容師をいつも指名しているのだろう。
安奈め、この堺という男が好きんじゃないか? 恋愛に飢えている俺はすぐにそんなふうに勘ぐってしまう。
「カードの裏に地図が載っているわ。だから特別に貸してあげる。
あっ、でも自分のカードは新規で作ってよね。
基本は予約制だけど、予約しなくてもカットだけなら待っていれば切ってもらえるわ。絶対なくさないでよね。来週行く予定なんだから」
「わ、わかった」
「……そのカードを見せて紹介だって言えば、おまけがもらえるから、それを後でちょうだい」
「ああ」
安奈が俺にカードを見せたのはおまけ目当てか。それだとしてもやけに積極的だ。安奈とこんなに長い会話をしたのはいつぶりだろう。
母さんの言う通り、妹もダサイ兄よりイケてる兄のほうがいいということだろうか。
テレビの歌番組は続いていたが、俺は自分の部屋に戻るために立ち上がった。
「じゃあ、部屋に戻るよ」
父さんが声をかけてくる。
「おやすみ」
母さんが言う。
「電気を消し忘れないでね」
「……」
無言なのは安奈だ。
日常の流れ。
いつもと違うのは、離れたところに座って小林家会話を傍聴していたノエルが、慌てて俺の後を追ってきたことだった。