兆し
と、さほど遠くないところから誰かが言い争う声が聞こえてきた。
「あなたのそういうところがいやなのよ」
「俺もお前のそんなところがいやなんだ」
そちらのほうを見ると、二人の若い男女が言い争っていた。二人で遊園地に遊びにきて
、何かのきっかけで喧嘩になったというところだろう。
女はまなじりをつりあげ、男のほうはそんな女に今にも殴りかかりそうな勢いだ。
「痴話喧嘩か?」
「博士様、すぐにここから離れましょう」
尋常じゃない様子でノエルが言ってきた。
「どうした?」
いぶかし気に思いながらもノエルに言われるままに、彼らの死角に移動する。
「あの人達の近くにブラックエンジェルがいます。あの人達はブラックエンジェルのたくらみで、わざと喧嘩させられているのです」
「ブラックエンジェル?」
どこかで聞いた言葉だ。何かのゲームだったか。
「以前、アフロデーナ様も言っていたでしょう? 『ブラックエンジェルには気をつけて』って」
「そうだっけ」
一回だけ俺の前に現れた、幼くも将来美人になるであろう要素を兼ねそろえた姿の、愛の女神アフロデーナの姿を脳裏に思い浮かべた。
あのときアフロデーナは、ラブオーラをターゲットとなった相手にしか使えない制約を俺に施した。
そして、彼女は去るときに言っていた。
『ブラックエンジェルに気をつけて』
と。確かにそう言っていた。今まで忘れていたけど思い出した。
「そのブラックエンジェルとかいうやつがあそこにいるのか。俺には見えないが、ノエルには見えるんだな」
「はい。博士様にわたしが見えるのは、アフロディーナ様の加護があるからですよ。ブラックエンジェルの姿が見えるようになるには、また別の加護が必要です」
「なるほど。で、ブラックエンジェルってなんなんだ?」
「人間の負の感情を集めるエンジェルのことを、ブラックエンジェルと呼んでいます」
「負の感情だと?」
「博士様には見えないですがあの二人の近くにはブラックエンジェルがいて、二人から発生しているお互いを嫌悪、憎悪する感情を集めているんです」
「胸キュンを集めるお前みたいにか?」
「はい。そうです」
俺は二人の様子をこっそりと物陰からうかがった。
「あなたなんて嫌い。一生顔もみたくないわ」
言って女が男の頬を叩いた。男はたたかれた頬を抑え、女を睨みつけた。
「くそ。俺を殴りやがったな。この暴力女が! お前みたいな女、こちらから願い下げだ」
「望むところよ」
二人は違う方向に歩いて行った。
ノエルに腕をひかれ、再び物陰に隠れる俺。
「すごい修羅場だな」
「ブラックエンジェルに目をつけられたら、どんなにラブラブなカップルでも、親の敵のように相手を思ってしまうように仕組まれます」
「人の感情を操って、その感情を集めるなんて、人をなんだと思っているんだ」
言ってからハッとなる。ノエルがやっていることも同じなのだ。ブラックエンジェルは人の負の感情を集めるが、ノエルは人の胸キュンを集めている。
「――わたしのようなエンジェルは、いろんなところにいるんです。
喜びの感情を集めるエンジェル。悲しい気持ちを集めるエンジェル。そのほかにもいっぱい……」
「そんなに人の感情を集めてお前たちはどうするんだ?」
「人間は神様に祈るでしょう? その祈りを叶えるための力とするんです。
誰かと結ばれたいと祈る者には、アフロデーナ様がその願いを。
誰かを不幸にしたいと祈る者には、エリス様がその願いを。
エリス様というのは、さっき二人の嫌悪する感情を集めていたブラックエンジェルが使える神の名です。憎悪の神エリス様。アフロデーナ様と立場を真逆にする神ですよ。
もちろん、それぞれに仕えるエンジェルのわたしたちも敵対同士です。あんなやつに見つかる前にここを去るのが賢明です」
「分かった……」
俺達は前楽園遊園地を後にした。
世の中には知らないことが多すぎる。
エンジェルとか女神とか。
ゲームの世界だけではなく、現実にもそれらは存在しているのだ。
見えていないだけで。
そんなことを漠然と考えた。




