契約
ノエルが説明するには、胸キュンというのは、恋する心、それも心が「キュン」とした時に発生する感情の塊だという。
正式名称は「好意的感情物質」といい、普通の人には見えない物質らしい。長ったらしい名称なので通常は「胸キュン」で統一しているそうな。
胸キュンが液体化させたもので名称を『ラブエレキサー』という液体が入った瓶を、ノエルは落としてしまったそうだ。
そのときに瓶の中に入っていたラブエレキサーが全部瓶からこぼれてしまい、改めて胸キュンを集めなくてはならなくなったという。
胸キュンを集めるためには、胸がキュンキュンしている人間を探さなくてはならない。しかし、胸がキュンキュンしている人間を手当たり次第に探すのは簡単ではないそうな。
「だとして、どうして俺が胸キュンを集める手伝いをしなくちゃならないんだ?」
「わたしが瓶を落とした原因が、小林博士様にあるからです」
「俺は知らないぞ」
「さっき、大きな声で叫びましたよね。『世界の中心で俺を叫ぶ』でしたっけ?」
「『俺の中心で世界を罵る』だ。ぜんぜん違うぞ。字合わせがなんのパクリみたいになってるし」
「あまり変わらないような気がしますが……。まあ、叫んだ内容はどうでもいいです」
どうでもいいのか? 俺の心境がギュウッと詰まった言葉だぞ!
「重要なのはその叫び声で、そのとき小林博士様のちょうど上空を飛んでいたわたしが驚いて、瓶を落としてしまったことです」
責めるようなまなざしをするノエル。
「知るか! あの時、俺の頭上には青空しか見えなかったぞ」
「けれどそこにわたしがいたんですよ」
「そのときは見えなかったんだよ。それにどうして今はお前が見えるんだ?」
突然目の前に現れたような感じだったが、少女の恰好があまりに奇抜だったので、そればかりに目がいってしまっていた。
改めて考える不思議だ。どうやって現れたんだ、このとんちんかんな少女は。
「小林博士様が小瓶からこぼれたラブエレキサーを浴びたので、わたしの姿が見えるようになったのです。
ラブエレキサーは愛の女神アフロデーナ様が管轄のアイテム。
そのエキスを浴びた小林博士様がアフロデーナ様の御使いであるわたしの姿が見えるようになったのは道理です」
「そ、そうなのか。……そういえば、確かにあの時、空から何か雨みたいなものが降ってきた感じはあったな」
俺は思い出す素振りをし、実質心の中では、『ラブエレキサー』ていうネーミング、なんかのRPGにでてくるアイテムなみたいだよな、と脈絡もないことを思った。
「胸キュンを集めるのを、手伝ってくれますよね?」
「嫌だ」
俺は即答した。
「こんな美少女がこんなに困った表情で助けを求めているのに、それを無碍にすると?」
自分で美少女って言うな。
確かに美少女には違いないが、本人が自分で言うと、美少女加減が激減だ。
「胸キュンを集めるってことは胸がキュンキュンしている人を探すこということだろう?
そんな面倒なことに割く時間は俺にはない」
「胸キュンする人を探す必要はありません。小林博士様が相手を胸キュンさせればいいのですから」
「どういう意味だ? 俺に胸キュンする女子がいるとは思えないぞ」
ノエルは俺のことを頭の先から靴の先まで眺めた。
そして何も言わずため息をつく。
それも残念そうに。
地味にショックだ。
「人のことを見てため息をつくなんて、失礼だぞ」
憮然とする俺に、ノエルはにこりと笑ってみせた。
「わたしが小林博士様をモテる男にして差し上げます」
「――っ!」
何を言っているんだ、この少女は?
俺をモテる男に、してくれるだと?
「わたしはエンジェルなのです。わたしのアドバイスがあれば、女の子を胸キュンさせるなんてお茶の子さいさい、へそで茶を沸かすより簡単ですよ」
俺の脳内に、かわいい女の子に囲まれてウハウハしている自分の姿が浮かんだ。
もちろん俺のビジュアル五割増し。
そんなことが現実に起こり得るのか?
起こり得るのだろう。
なんたって、エンジェルが言っているのだから。
「ぜひ協力する!」
「契約成立ですね」
ノエルは大仰に頷いた。
「人間小林博士様は胸キュンを集めることを条件に、わたしエンジェルノエルは小林博士様をもてる男にします。契約の誓いをここに」
ノエルは俺の目の前に右手を差し出した。
どこかの姫と騎士の誓いみたいだな。
俺はノエルの手をとった。
握手。
「ここは手の甲にキスをするところでしょう?」
「分かっている。でもそれだと俺がお前の家来みたいだろ。それはいやだ。だから握手だ」
「キスが必要なんです、キスが!」
「うるさいなぁ」
俺はギャアギャアわめくノエルのおでこにキスをしてやった。
「なっ――!」
「これでいいか?」
「おでこもアリかも、しれません……」
うーと悔しそうにうなるノエル。
このとき俺はどうかしていたのだ。
親友に彼女ができて置いてけぼりをくらったような、裏切られたような気分になっているところに、ノエルという不思議少女が現れ、問答無用に非日常の世界にひきこまれた。
俺はこのときの自分の選択肢を、思いっきり後悔することになるのだが、それは、まだ少し先の話である。