俺の中心で世界を罵る
うっとおしい霧雨のような雨が降る六月半ばの朝。
いつものように学校に登校して自分の教室に入り、自分の机に座って学生カバンから教科書やノートを出して、机の棚の中に入れていると、二ノ宮がやってきた。
その顔には満開の笑顔が浮かんでいる。朝からニコニコ、おかしなやつだ。
人がいつもと違う行動をとるき、そこには必ず何かある。俺は少し身構えた。
「おはよう、小林君」
ゾワリと背中が総毛だった。
二ノ宮は「小林君」と言った。「君」づけだ。二ノ宮が俺のことを「君」づけで呼んだのは、今から一年と三か月前、高校に入学して同じクラスになったときに、初めて話したときくらいなものだ。
「二ノ宮、どうした? 変なものでも食べたか?」
「僕、彼女ができたよ」
「……」
俺は、教科書、ノートをすべて机の棚に入れ終えて、今度は筆記用具を棚にいれようとしていたが、その筆記用具を握ったまま、動きを止めた。
二ノ宮に彼女?
ようやく意味を理解し、次の瞬間、心から驚きの声を上げる。
「――はぁ? 二ノ宮に彼氏だと……?
ヒョウが降るぞ」
「失礼なやつだなぁ。とうとう僕の魅力に気付いてくれた女子がいたんだよ」
「……相手は誰だ?」
俺の知っているやつじゃないよな。
「3組の清瀬清羅さんだよ」
「ほうほう。俺の知らないやつだな」
そもそも、俺たちのクラスは1組だ。他人に興味のない俺はいまだに同じクラスの奴でも顔と名前が一致しないやつがいる。そんな俺が2つ隣りの教室の女子の顔が分かるはずがないのだ。
「清瀬さんとは同じ塾に通う仲で、前々からかわいいなあと思っていたんだ」
「それがどうしていきなり付き合うことになったんだ?」
「最初は塾で会って挨拶をするだけだったんだけど、塾の後で講義でわからなかったことを、塾の近くにあるマックで、お互いに復習しあうようになって、それで昨日告白された」
マックというのは全国展開しているファーストフードショップの愛称だ。ちなみに俺はこの店のポテトが好きだ。
「コクハク……」
耳慣れない言葉を俺は無意識に復唱した。
「そうだよ。なのよりうれしかったのは、清瀬さんが僕に告白してくれたときに、一緒にいて心が癒される、と言ってくれたことかな」
好々爺のような表情を浮かべて言う二ノ宮。
清瀬清羅とかいう女子が、二ノ宮の良いところに気付いてくれたというのは、本当のことだろう。二ノ宮はいるだけで周囲を穏やかにする不思議な雰囲気がある。
しかし!
俺はそれまずずっと持ったままだった筆記用具を手から放つと、その手で額を抑えた。
盛大なため息をつく。カチャリと筆記用具が机の上に落ちて控えめな音を立てたが、その音は俺のため息の音にかき消えた。
「二ノ宮にも先をこされるとは……。
新米高校男子だった一年と三か月前、一生童貞でいようなって杯を交わした仲だったのに」
「杯はかわしてないし、一生童貞っていう話もしてないよ」
慌てるように両手をばたばたとさせる二ノ宮。
「冗談だ……。二ノ宮がいい奴だというのは、俺が一番よく知っている。彼女、見る目あるな。幸せにしろよ」
と、我ながらかっこいいセリフを言ったところに、教師が教室に入ってきて、会話はお開きになった。
まさかあの二ノ宮にも彼女ができるとは……。思わずヒョウが降るだの、二ノ宮にも先を越されただの、やつに対してひどいことを口走ってしまった。いちおう、そのあとフォローの言葉を言ったからあとは二ノ宮が忘れてくれることを祈ろう。
まったく根拠はなかったが、彼女を作ることについては、二ノ宮には負ける気がしていなかった。
まず見た目だが、二ノ宮よりも俺のほうがぜったいいいと思う。自画自賛ではなく普通に。
二ノ宮は性格はいいが、女子に対してまったくの奥手で、自分から話しかけることができない。
見た目がよくなくて自分から話しかけることもできない男子に、女子から寄ってくるはずがないと俺は思い込んでいた。
そこまで考えて、二ノ宮のことを自分よりももてない男とみなしていたという事実に気づき、心の中で二ノ宮に謝った。
俺は小林博士、高校2年生。「はかせ」と書いて「ひろし」と読む。頭がよさそうな名前だけがそんなことはなく、学力レベルは学年でも下から数えたほうが早い。
運動も好きじゃない。やりたくないのに、無理やり疲れる行為をするのは愚かだと俺は思う。
中肉中背のこれといった特徴ない、どこにでもいる男子生徒、それが俺だ。
眼鏡をしているのが特徴といえば特徴か。ゲームのやりすぎなのか漫画の読みすぎなのか、中学のあたりから目が悪くなりはじめ、高校2年となった今では眼鏡はかかせない。
放課後、彼女の話をもっとしたそうな二ノ宮が俺のところにやってきたが、
「悪いな、急いでるんだ。
二ノ宮の話は来週聞く」
と急いで席を立った。
「ええ? せっかくいろいろ話を聞いてほしかったのに」
「悪いな」
右手の手のひらを手刀にして拝むように謝ると、足早に教室を出た。そのまま、小走りに家路を急ぐ。
俺が通っている高校は完全週休二日制。明日は土曜日で次の日は日曜日。学校は休みだ。
その間、俺には、やりたいこと、やらなければならないことがある。
それは、俺にとっては、親友の話に付き合う時間を惜しむほどのものなのだ。
俺は家に帰ると同時に、自分の部屋にこもった。
次の日の土曜日の昼下がり、俺は昨日の夜風呂に入らなかったこともあり、ぼさぼさの頭のまま、ふらふらと部屋を出た。
動きやすさだけを重視した服に着替えている。向かうのは家から一番近くにいるコンビニだ。
そのコンビニは俺が住んでいる家の前を通る道を挟んで、向こう側にある公園の先にある。近道をするため公園の中を横断する。
この公園は日の出公園といって、ジョギングコースがあったり、小さな池があったりと、近所の人たちに親しまれている公園である。
と、目の前をラブラブなカップルが手をつないで横切っていった。
「あはは、チヨちゃん」
「うふふ。あーくん」
意味もなく名前を呼び合い微笑みあう2人。2人の間だけお花畑が咲いているようだ。
「くぅ……っ!」
俺はこぶしをにぎり、奥歯をかみしめた。
昨日の満面の笑みの二ノ宮の顔が唐突に浮かんだ。
今頃、二ノ宮も彼女と仲良くやっているのだろうか。
うらやましいぞ、二ノ宮。
時は土曜日の昼下がり。場所はのどかな公園。
芝生では親子がキャッチボールをし、ママ友の三人組が子供そっちのけでおしゃべりをしている。
そのガキたちは砂場で穴掘りをしている。やたらに一生懸命だ。なにやってんだあいつら。まあ、ガキの行動なんていつでも本人達以外、意味不明だからな。
そこでラブラブな青春を送っているように見える俺と同い年くらいのカップルを見せつけられ、俺の心境は一気にやさぐれた。
はっきり言おう。
焼きもちである。
公園の中はまさに平和そのもの。恋人同士でいるか、家族でいるかどちらかで、一人でいるのは、杖をついた散歩のじいさんと、同じく犬の散歩をしているおばさん、そして俺。
平和な公園をとぼさぼさの頭に、しわくちゃのしわくちゃの半袖シャツに、半ズボンの恰好で、ぼとぼと歩いている俺は、きっとはたから見ると陰鬱で、平和然としている公園の中ではかなり浮いているだろう。
早くコンビニに行って、目的を果たしてしまおう。
歩みを進めていくと、さっき俺の前を横切っていったカップルが木製のベンチに座り、キスをしていた。
ぐをぁ……!
ゲームとかアニメとかドラマとか映画とかじゃない、生のキスシーンだ。十六歳にして初めて見た。
キスがうらやましいという思いよりも、生のキスシーンに出くわしたことに衝撃を受けて、俺はその場で硬直した。
み、みんなはこの二人のことをどう思っているんだろう?
目線だけ動かしてあたりを伺うと、キャッチボールの親子はあいかわらずキャッボールをしているし、ママ友たちはあいかわらずおしゃべりをしている。
ガキどもは砂場で穴を掘りまくっている。どこまで掘る気だあいつら。
まあともかく、キスしあっているカップルなんて、誰もぜんぜん気にしていない様子だ。
俺の反応がおかしいのか――?
と、キスをしている男女で男の視線を感じてそちらに視線を移した。やつは俺を見ていた。勝ち誇ったような目で。
片方の手には彼女を抱きしめていると、もう片方の手は、だらりとさげたまま、その手は俺に向かってジャンケンのチョキを出していた。
……いや、今のは言葉のあやだ。
正確にいうならばピースサインを出していた。
「がは――っ!」
俺はその場でよろけた。胸に物理的に一撃をくらったわけではないのに、胸を押さえて崩れそうになる。
それでも膝を地面につかなかったのは、男としてのプライドのためだ。
俺は両足に力をこめ、勝ち怒るように笑みを浮かべるやつに、軽蔑の視線を送った。
予想以外の反応だったのだろう。やつは一瞬目を間開いたが、それは本当に一瞬で、すぐに抱いている女をさらに抱き寄せ、俺にむけていてたチョキの手までも彼女の背に回した。
俺は無表情でそんなやつの前を横切る。
――なぜなら俺は歩いているからだ。
キスしているカップルがいて、彼らの前でたたずんでいる男がいたら、そういうシーンを撮りたいカメラ小僧くらいのものだろう。
じゃなければ生のキスシーンを見て衝撃を受けているどっかの誰かさんとかな。
俺は違うぞ。ちょっとあぶなかったが、自然な歩調で彼らの前を横切ったはずだ。
なんだ、あいつら。とくに男!
見せつけるように公然の場でキスをしやがって。
く、くそう……。世の中不公平だ。
どうしてもてる奴はもてて、もてない奴はとことんもてないのだ。
「俺の中心で世界を罵る!」
空に向かって叫ぶと、何かが降ってきた。水をかぶったような感覚。
「なんだ?」
ぬれたみたいな気がしたが、あらためてみてみると、ぜんぜんぬれていない。
空は相変わらずの天気で、雨が降るような雰囲気ではない。
よく分からん。
「ま、いっか」
さほど気にせず、歩みを進めようとしたら、突如として、目の前に見なきゃよかったと思ってしまう少女が現われた。
少女は歳の頃は十歳くらいで、髪をツインテールにしていて、ピンクと白のふわふわしたスカートにフリルのついたシャツ。こういうのロリータ系っていうんだっけ。
愛らしい顔だちをしていて、口元にも愛らしい笑みを浮かべている。
しかし、こいつおかしい。
髪の色はピンクだし、瞳の色もピンクだ。瞳のピンクのほうが少し色が濃い。
こんな人間、現実の世界に素でいるわけない。
普通に考えて髪を染めていて、目はコンタクトだろう。
どうしてこんな奇天烈な恰好をしているんだ。
そして一番目を引き、一番おかしいのは、いかにも手作りと分かる白い翼を背中にしょっていることである。
いくら愛らしくても、こんなおかしい少女と関わり合いになりたくない。
少女から、俺はそーっと目線をそらした。
すると少女が俺に向かって言った。
「小林博士様、わたしを見なかったことにしないでくださいね」