第7章
――アルフ! アルフいかないで!
――一人にしないで! ひとりぼっちにしないでよ!
――ねえお願い! アルフ! アルフッ!
「アルフッ!!」
少女は悲鳴と共に飛び起きた。そうして、ようやく自分がまた悪夢を見ていたことに気付いた。それでも身体の震えが治まらない。部屋の中はまだ暗く、それがまた少女を不安な気持ちにさせた。悪夢を見て真夜中に目を覚ます時、彼女はいつも世界中で一人きりになってしまったような錯覚を覚える。
しかし、その手に重ねられる手があった。
「大丈夫?」
そうして顔を覗きこんできたのは自分より一つか二つ上の女の子、エリザだった。
「……ごめんね起こしちゃって。私、また……」
「いいのいいの、気にしない気にしない」
頭を下げる少女に、エリザは屈託のない笑みを浮かべてみせる。それは、本当に天使のような笑みだった。それを見ると、何だか泣きたくなってしまう。
「って、あーあーどうしたのさ? どっか痛い?」
「ううん……ううん、そうじゃないの……」
少女はイヤイヤをするように首を振る。だけど、どうしても涙は止まらなかった。泣き顔を見せたくなくて毛布に顔を埋める。そんな彼女をエリザは毛布ごと抱きしめてくれた。
「……そばにいるからね」
「…………うん」
エリザの暖かさに、余計に涙が溢れてきた。
こんなにも優しい彼女に秘密を打ち明けられずにいる自分がひどく恥ずかしかった。
エリザだけではない。彼女の母、ダイアナにもだ。
ダイアナは森に倒れていた自分を家に連れ帰り、傷の手当をし、ここに住まわせてくれている恩人だというのに、その恩を仇で返してしまっている。
このままでは彼女達に迷惑をかけてしまう。それだけは絶対に嫌だった。
もうこれ以上はダメだ。もうこれ以上は無理だ。少女は覚悟を決める。
「エリザ、聞いてほしいことがあるの。実は、私ね――」
そうして少女は全てを打ち明けた。事の始まりから、今に至るまでを全て。
追い出されるかもしれない。いや、もしかしたら捕らえられるかもしれない。
最悪、殺されるかもしれない。
しかし少女は、全て受け入れようと思った。
エリザが自分を殺すというのなら、喜んでそれに従おう。それが自分を助けてくれた彼女達を救うことになるのなら、と。
つまりはそんな思考に至る程に彼女は疲れてもいたのだ。
生きる希望を亡くし、一人になって、それでも生にしがみつく無様な自分を、いい加減終わらせてしまいたかった。
だけど、全てを聞いて、エリザはそれでも少女を抱きしめた。
「辛かったね」
そっと囁かれたその言葉に、その温かさに、少女の中で張り詰めていた何かが消え去っていく感覚があった。
「……ふぐっ」
感情は抑えることのできない奔流となって溢れ出す。
「うわああああああああああああん! わあああああああああああああああ!!」
少女は声を上げて泣いた。そんな泣き方は、少女の母が死んで以来のことだった。
思えばその時から彼女はずっと気を張っていたのだ。そうして絶望という名の闇に、少しずつ心を囚われていたのだ。
それを、エリザが救ってくれた。そんな気がした。
「おーよしよし、大丈夫、大丈夫だよ」
胸の中で泣く少女の背中を、エリザはそれでも撫でてくれる。
「そばにいるからね」
「…………うんッ」
それは、さっきとは全く意味の違う言葉だった。少女の話を聞いて、彼女の正体を知って、それでも尚エリザはそう言ってくれるのだ。
そうして、少女は誓った。
自分の命は、彼女達のために使うのだと。
何があっても、彼女達を守ってみせる、と。
*
「ぐおッ!?」
突然、イヴの背後で男の悲鳴が聞こえた。振り返ると、神術師であるその男がちょうど地面にすっ転ぶところだった。
「! ティオッ!?」
目を覚ましたティオが足払いをかけたのだ。
腰から抜かれたナイフが倒れた男の首へ突き刺さる。直後、ティオは血に溺れる男の懐へ手を伸ばした。
「キフラマッ!!」
すぐさまイヴの呪文が飛ぶ。男は一瞬の内に炎に包まれ、辺りを赤く照らした。それを転がって回避したティオの手には、一冊の神術書。
男の持っていた、炎の書だった。
「クフラマッ!!」
呪文の詠唱。瞬間、ティオの伸ばした右手から小さな火球が飛び出した。どう見ても神術師達が森で使っていたものよりも威力は低い。
だけど、速かった。
火球は細く尾を引きながら猛スピードでイヴへと迫った。
「チィッ!」
詠唱も間に合わず、イヴは身をひねってそれを躱す。おかげで、ルークは彼女の足から解放された。咄嗟に地面を転がって距離を取る。
「クフラマッ!!」
再びティオ。同時に彼女は駆け出していた。追撃をも躱したイヴが吠える。
「魔力の切れたボロ雑巾がぁッ!!」
イヴも両手を構えた。そしてニヤリと口を歪め、
「避けられるんなら避けてみなさい……ライゴラマッ!!」
その手のひらから巨大な火球が生み出された。それは追手達が散々自分達へと向けて放った火球の呪文だったが、しかしその大きさはそれらとは比べ物にならない程に大きかった。劣化魔法――イヴが神術をそう呼んだ意味がよくわかる。火球と呼ぶには大き過ぎるそれは、もはや太陽だ。辺りが昼間のように明るくなる。眩い光の中で、ルークは呆気に取られてそれを見ていた。
「――え」
自分へと迫り来るその炎に目を奪われていた。
そう、イヴはその太陽をティオではなくルークに向けて放っていたのだ。
死の気配がする。
炎のうねりがとてもゆっくりに見えた。自分が瞬きをする間に少しずつ少しずつそれは近づいてくる。紅の死が迫ってくる。
終わりだと、そう思った。
自分は何も知らないままに死ぬのだ、と。
ティオのことも、魔女のことも、そして、家族の死の真相も。
「イアルターリア!!」
その時、呪文の詠唱と共に目の前へ飛び込んでくる人影があった。
ティオだ。
そう認識した時には、視界はもう真っ白だった。あまりの熱気と光に思わず手をかざす。
ティオが何の呪文を唱えたのかルークにはわからない。数日の間に聞いたどの呪文ともそれは違うものに聞こえた。
熱風が収まるのを待って目を開けた時、足元に神術陣が浮かび上がっていた。ルークを中心に小さな円を描く神術陣、それが強い光を発していた。
そして、その光の向こうには――
「……え」
――炎に包まれるティオの姿があった。
「っ、ティオ!」
「来るなッ!!」
咄嗟に駆け寄ろうとしたルークをティオは強い口調で制止する。しかしその直後、身を焼いていた炎が消え去るのと同時に彼女はその場へ崩れ落ちた。
何だ、何が起きている。混乱する頭でルークは考える。
ティオが今唱えたのは炎から身を守るための呪文ではなかったのか。それならば何のための呪文だったのか。この浮かび上がる神術陣は一体何なのか。
と、そこでルークは思い出した。
ティオは言っていたではないか。追手を一人で引き受けて、自分を逃してくれた時に。
ここに一発逆転の神術を仕掛けたのだと。
それならばきっと、今発動しているこの神術陣がそれなのだろう。そう予想がついた。
だからルークは待った。その効果が発揮されるその時を。
しかし光は強まれど、敵を一網打尽にする何かが起きる様子は一向にない。
そしてルークは、信じられない事実を知った。
「また、転移神術……!」
「!?」
転移神術。怒りに顔を歪めて、イヴがそう言ったのだ。
つまりこれは、敵を一網打尽にするような攻撃神術ではなく、ここから離れた場所へ逃げるための神術だったのだ。
そして今、神術陣の中にはルーク一人しかいない。いやそもそも、この小さな神術陣に二人が入れるとは思えない。まさか、ティオは最初から――。
「また、油断したね、イヴ……」
光の向こうから彼女の声だけが聞こえた。ルークの視界はもう白に覆い尽くされようとしているのだ。
「ガキぃ……死ぬより辛い目にあわせてやるから覚悟しろよ……」
ついで聞こえる鈍い音と呻き声。ルークは思わず手を伸ばした。だけどそれを、白い光が壁のように阻む。そしてついに、身体が引っ張られるような妙な間隔にとらわれた。転移が始まったのだ。
「ティオッ!!」
ルークは叫ぶ。だけど神術は止まらない。
視界が真っ白に染め上げられる。辺りの音が遠くなっていく。
そうして完全に身体が森を離れる最後の瞬間。
「――ごめんね」
ルークは、確かにその声を聞いた。
やがて、自分を包んでいた神術の光がおさまると、世界が色と音とを取り戻し始めた。さっきまでいた暗い森とは違う。そこには、いつか見た景色が広がっていた。片付けられた部屋。かすかに香る花の匂い。そして聞こえる、衣擦れの音。
顔を上げるとそこには、ティオの友人フロー・エインズワースが立っていた。
「……どうして」
そう口にして、だけどルークにはわかっていた。フローが悲しそうな顔をしていたから。
彼女は全てを知っているのだ。
「君も……魔女なの?」
その問いに、フローは暗い表情のまま頷いた。
「……やっぱりこうなってしまったのね」
何かが壊れていく。自分の拠り所としていたものが、崩れていく。
そんな予感がした。