第6章
顔を上げたティオの表情に、ルークは驚いて言葉を切ってしまう。彼女は手で「動かないで」と指示を出した。
どうしたのだろう。ルークはわけもわからず黙るしかなかった。しかしそうしてみると、確かに何かがおかしいことに気付いた。
あまりにも静か過ぎる。
夜だから、人の声がしないのはもちろん当たり前だ。だけど、虫や獣の声まで聞こえないのはどういうことだろう。
小さな村だ。窓の外には森と畑しかない。それなのに、不気味に静か過ぎる。
やがてティオはその目を部屋のドアへと向けた。
次の瞬間、鍵をかけたはずのそれが鈍い音と共に蹴破られ男の叫び声が聞こえた。
「ボウルクス!!」
「キアスピス!!」
対抗して、ティオもすぐさま呪文を唱える。その瞬間、二人を襲った鋭い光は突如出現した遮蔽物に防がれた。ティオに抱き寄せられてその陰に身を隠す。そうして光がおさまるのを待ち、それからすぐに手を引かれて窓に走った。
「ジアルマ!」
そしてそのまま体当たりで貫いて、二人は二階から飛び降りた。その頭上を大きな火球と昼間に聞いたおばさんの声が通り過ぎる。
「悪魔が逃げた!! 悪魔が逃げたわ!!」
みるみる地面が迫る。果たして神術障壁で着地の衝撃も防げるのだろうか。
「ホーテッラ!」
そんな心配を、ティオは土の神術で解消した。クッションのように柔らかくなった土の上に着地するとすぐさま立ち上がり、森の方へと駆ける。その背中を、また火球が追ってきた。どうやら部屋に乗り込んできた奴らではない。外に仲間が控えていたのだ。
考えるまでもない。帝国からの追手だった。
「くそっ! 昼間の商人達かっ!」
走りながらティオが毒づいた。追手は商人達に紛れ込んだ五人ではなかったのだ。おそらくわざとそうとわかる五人を囮にし、二手に分かれた彼らはこの村へと迫っていたのだ。
しかし、麻痺した頭でルークは首をかしげる。本当に、あの優男達が神術師だったのか。確かに神術書は誰でも使えると言われているが、だからこそ訓練を受け熟練した者にだけ使用が許可されているのだ。あの商人達は、どう見ても数多の訓練を受けた猛者には見えなかった――と、昼間の様子を思い出し、ルークははたと気付いた。
馬舎に向かわなかった馬車が積んでいた、その荷物に。
「どっ、どうするの!?」
前を走るティオに問いかける。足が震えて、心臓がバクバクと脈打っていた。初めて神術による攻撃を受けて、その力にルークはすっかり恐怖を覚えてしまっていた。あんなもの、自分にはどうにもできない。あんな口論をした後ではあったが、彼が頼れるのは目の前の少女だけだった。
「ライゴラマ!!」
「跳べっ!!」
その時、横から巨大な炎が飛んでくる。ルークはティオに抱きかかえられるようにして湿った地面に転がった。ハッとして顔を上げれば、つい直前まで自分達がいた場所を貫くように炎の壁が立ち上がっていた。泥も木も関係なく、神術の炎が触れたもの全てを激しく燃え上がらせていた。
「立って!」
再び逃走が始まる。赤く照らされる森の中を、ただティオの背中を見て走り続ける。炎は何度も彼らを襲った。その度に精神が摩耗し、ルークは絶望的な気持ちになっていく。
考えが甘かった。本当に、ティオの言う通りだった。
ルークだって、大変なのはわかっていた。力を手に入れて、それでも自分の命をかけて戦う必要があるのだと、そう覚悟はしていた。
つまりは、どこかに勝機はあるのだと思っていた。
だけどこれは違う。こんなものは戦いではない。
これは、ただの狩りだ。
自分達はうさぎで、敵は大勢の狩人。
こんなもの、たった数冊神術書を持ったところで敵うわけがなかった。
「ライゴラマ!!」
もう聞き飽きた呪文が聞こえて、もう何度目かもわからない炎がルークを襲う。二人はまたギリギリでそれを避け地面に転がった。
「はあっ……はあっ……うぐっ……」
震える身体に無理矢理力を込めて身体を起こすと、急に目の前がぼやけだした。
ルークは泣いていた。
己の無力に。
神術の力に。
死の恐怖に。
大粒の涙を流し、鼻水を垂らし、隠せない嗚咽に喉を締め付けられる。
死ぬことなんて何ともないと思っていたのに。
もう死んだって構わないと思っていたのに。
数日前ティオの小屋で一兵卒に襲いかかった時には、確かにそう思えていたはずなのに。
ルークは今になって死ぬことが怖かった。
「ルーク、先に行きなさい」
その時、ティオが急に立ち止まった。突然のことに少し追い越してから立ち止まり、ルークは声にならない声を上げた。
「なっ、……え?」
「このままじゃ追いつかれる。私が時間を稼ぐから、ルークは先に行くんだ!」
確かに、炎の飛んでくる間隔はどんどん狭まっていた。このままではジリ貧なのは明らかだ。だけど、何人いるかもわからない神術師達を相手に、ティオが一人で敵うわけがなかった。
「大丈夫だよ。私は強いんだ」
それでもティオは不敵に笑ってみせる。ルークを安心させるように。
また炎が飛んでくる。しかしティオはそれを避けようとはせず、両手を前に掲げて呪文を唱えた。
「キゴーリス!!」
すると、木々を押し上げて巨大な泥の壁が目の前に立ちはだかった。それは火球を受け止めると包み込むように自壊し、それを消し去ってしまう。
「ほらね?」
振り向いて、傷だらけのティオが笑う。
「どう、して……」
ルークは呆然と呟いた。あんな口論をした後だというのに、あんなひどいことを言ったというのに、ティオは変わらず自分を守ってくれる。
自分を見捨てないでくれる。
ルークの頬をまた涙が伝う。
そんなルークにティオは優しく笑うと、そばに立つ一本の木を指さして言った。
「見てごらん。そこに、私が夕方につけた目印がある」
「目印……?」
見れば、確かにその木にはぼんやりと光る文字のようなものが浮かび上がっていた。
「それを追って走っていけば、やがて少し木々の少ない開けた場所に出る。ルークはそこまで行って隠れているんだ」
「どっ、どういうこと!」
「準備をしておいたんだよ」
ティオは自信ありげに言う。
「私だってただ逃げているばかりじゃない。そこに、一発逆転の神術を仕掛けておいたんだ」
ルークはハッとした。ティオが神術書を持って外出した理由は、きっとこれだったのだ。自分が意地になって怒っている間に、彼女はそんな準備までしていたのだ。
やっぱり、ティオはすごい。
彼女の言葉を聞いて、希望がわいてくるのを感じた。
「さあ、行くんだ! 私もすぐに追いつく」
「……うん」
「大丈夫だよルーク。こんなの、どうってことない。二人で切り抜けてやろう」
「っ、うん!」
ルークは駈け出した。後ろでまた呪文の応酬が聞こえる。だけど、もう振り返らなかった。
ティオなら、きっと何とかしてくれる。ルークはそう信じていた。
相変わらず足手まといでしかない自分が歯がゆくはあった。けれど、それでも、この場はティオに任せるしかなかった。そうすることだけが、自分にできる全てだった。
謝りたい。
彼女を疑ったことを。吐き出したひどい言葉を。
だから、まずはここを切り抜けなければ。
二人とも無事にここを切り抜けて、それで、ティオに謝るんだ。
暗闇の中にぼんやりと浮かぶ目印を追って、ルークはひたすらに走った。
やがて、ティオに言われた通り開けた場所に出た。そこでティオの目印は途切れていた。木々の合間から差し込む月明かりに照らされて、そこは幻想的に浮かび上がって見える。
「っ、ここ、か……」
ルークは肩で息をしながら、近くの草むらに身を隠した。後はただ息を殺し、ティオがやってくるのを待つだけだ。
自分が走ってきた方の森が赤黒く光っているのがわかる。それを見ると、モクモクと煙のような不安に心を満たされそうになって慌てて目をそらした。
「ティオは大丈夫……ティオは大丈夫……」
そう、自分に言い聞かせて、耳をふさぐ。それでも、身体の震えは一向に止まる気配がなかった。
そうしている内に、とうとう遠くから聞こえていた戦いの音も止んだ。辺りはただ暗闇に包まれ、虫や動物の気配が戻ってきた。
ルークは固唾を飲んでティオが来るはずの方向を見つめた。
どれくらいの時間が経っただろう。
やがて、月明かりの下に一つの人影が現れる。それを見て、ルークは思わず歓声を上げた。
「ティオ!」
それは待ち望んだ姿だった。あちこちを煤が黒く染めてはいるものの、そのブロンドと青い瞳は見紛うはずがない。ティオは、神術師達を相手に上手く時間を稼ぎ、無事逃げおおせたのだ。後はティオの言う一発逆転の神術を使えばきっと――。
そう思った時だった。
駆け寄ったルークの目の前で、ティオがその場に崩れ落ちた。
「……え?」
「うふふ、見ぃつけた」
そしてその後ろから、一人の女が姿を現した。
波打った艶やかな髪。青白い肌。真紅の唇。そして、人を小馬鹿にしたようなその瞳。
忘れもしない憎き仇、イヴ・ナイトメアがそこに立っていた。
さらにその後ろから、お揃いの衣装に身を包んだ神術師達もやってくる。ざっと見ただけで十人は下らない。
「…………え?」
ルークは呆然と立ち尽くすしかなかった。
ティオが、負けた。
その事実を受け入れられず、憎き仇を目の前にして指の一本も動かせない程に混乱していた。
「で? あなたもこの子の仲間ってことでいいのかしら?」
イヴはひどく楽しそうに笑っていた。あの日と同じ、恍惚とした表情で。
「って、この状況で迷子なわけないわよねえ。うふ、ひどいじゃない、こんな女の子一人に全部任せて逃げ出すなんて。でも、ま、仕方ないわね。うん、あなたも裁判送り」
その言葉にルークはハッとした。
魔女裁判。母と姉がかけられた、あの裁判。
それにかけられるということは、そのまま処刑されることを意味していた。
身体が再び震え出す。倒れたティオに視線を送るも、彼女は死んだようにピクリとも動かない。今度こそ、おしまいだった。
「怖いの? そうよねえ、誰だって死ぬのは嫌よねえ。でも、仕方ないわよね? 魔女に味方した人間なんて、生かしておくわけにはいかないものねえ」
イヴが一歩近づいてくる。ルークは動けない。
「ねえ、そう思うわよね? あなたにもわかるわよね? これは仕方ないことなのよ。私だって、本当に悲しいことだと思うわ。でも、ああっ」
ニヤニヤと邪悪な笑みを浮かべながら、ゾクゾクと快感にその身を震わせながら、イヴはさらにもう一歩。
「あなたはどんな顔をするかしら? どんな悲鳴をあげるかしら? ああっ! 想像しただけで恐ろしい! でも、それは罰だから。悪魔に心を売った罰だから。ねえ? しっかり苦しんでね?」
「あっ……」
その恐怖に、本能的に身体が動いた。ルークは腰のナイフに手を伸ばすと、恐怖を振り払うように絶叫した。
「うわあああああああああああああああああああッ!!」
そしてナイフをイヴに向けて突き出した。しかしすぐさまその手を横から弾かれて、開いた身体に思い切り蹴りを食らわされた。
「うごぅっ……!」
横っ飛びに地面を転がされ、口の中は胃液と土の混ざった味がした。何とか立ち上がろうと力を込めるが、痛む身体は言うことを聞いてくれない。顔を上げると、その目の前までイヴは迫っていた。
「危なぁい。ダメよ、子供がそんなもの持っちゃ。ああ、やっぱり悪魔に魂を売ってしまったからかしら? いけない子」
相変わらずイヴは笑みを崩さない。動いてくれない身体は諦めて、ルークはその顔に精一杯叫んだ。
「何が、魔女裁判だ……何が悪魔だ……! 魔女も悪魔も、お前達の方だ! 言いがかりで無実の罪を着せて、ショーみたいに人を殺して……!」
だけど、その表情を崩すことはできなかった。それどころか、イヴはより一層笑みを深くして首だけを困ったように傾げた。
「言いがかりだなんて、それこそ言いがかりだわぁ。邪悪な魔女は殺す。そいつを手助けした人間も殺す。ねえ? これのどこが間違っているというの?」
「だから! その魔女だとか魔女を助けただとか! お前達はそれを無実の人間に押し付けて殺してるじゃないか!」
「ん~? もしかして、あなたは本当に何も知らないのかしら」
イヴは人差し指を顎に当て少し考えると、再びパッとその表情を崩した。
「まあいっか。どの道殺すんだし」
それからルークを足で転がし右腕を踏みつけた。
「いいことを教えてあげましょう」
「ぐっ、う……」
グリグリと踏みつけられる痛みに、それでもナイフだけは手放さないようにと歯を食いしばりながらルークはイヴを睨みつける。
「あなたの言う通り、私は魔女よ?」
「…………は……?」
そして呆気にとられた。神官であるはずの人間が、突然何を言い出したのだろう。思考が追いつかない。
「だけど、私は邪悪な魔女ではないから帝国に仕えてる。そして――」
イヴはそれを待ってはくれなかった。ゆっくりと右手を掲げると、顔は向けないままにその指を後ろで倒れるティオに向け、
「――あの子は、邪悪な魔女」
「………………は……?」
ルークにはわけがわからなかった。イヴが言っている魔女とはどういう意味なのか。ただその口調は、言いがかりや比喩で言っているようには見えなかった。
魔女。
悪魔に魂を売り、邪悪な魔法を操って人間に害をなす存在。
イヴは、自分やティオがそれだと言っているのか。
「その様子だと、ティオから本当に何も聞いてなかったみたいねぇ」
イヴはやや呆れ顔で言う。
「もしかしてあなた、神術が本当に神から与えられたものだと思ってたの?」
「それは、だって……」
「神なんていないわよ」
イヴはルークを鼻で笑った。
「そして悪魔もいない。いるのは魔女。生まれながらにして魔法という不思議な力を扱える魔女。ただそれだけ。あなた達は私達魔女が本に魔力を込めて作った物を使って、劣化魔法を神の力だとか言ってありがたがってるだけよ。本当に知らなかったのぉ?」
ルークは呆然として何も言えなかった。
神もいない。悪魔もいない。
いるのは魔女だけ。
悪魔の力と言われている魔法は彼女達が生来使える力であり、神の力と言われている神術は彼女達がその力を本に込めただけ。
そんな馬鹿な話があるだろうか。
でもそれなら。
ティオが魔女で、神術書が魔法によって作られるというのなら、彼女がそれをたくさん持っていたことにも、「すぐ手に入るから」と捨てることを躊躇しなかったことにも説明がつくのは確かだった。
神術書が必要なら作ればいいし、もし作っていなかったとしてもティオは適当な本を片手に魔法を使うだけでいいのだから。そうすれば、それを見た人間は勝手に神術だと勘違いをする。それなら本をすり替える必要だってない。
いやそもそも、彼女は毎回きちんと神術書を使っていただろうか。
神術書を開いた様子もなく、素手でその力を操ったことはなかったか。
ルークの頭に様々な記憶が思い起こされる。
つまり、自分達は今正当な理由のもとでこんな目に遭っているのか。邪悪な魔女と、その協力者だからこうして神術師達に殺されようとしているのか。
……いや違う。
ルークは絶望に打ち負かされそうになる思考を必死に奮い立たせる。
そもそも、それは元々当たり前のことだった。
自分達は帝国に歯向かったのだから、帝国に命を狙われるのは当たり前なのだ。その規模が思っていたよりも大きく迅速だったことについては、自分達が魔女とその協力者だからで説明がつくのかもしれない。
しかしそれは、ルークが帝国に歯向かおうとした理由には、イヴ・ナイトメアを殺そうと思ったそもそもの理由にはならないはずだ。
イヴ・ナイトメアを正義だと認める理由にはならないはずだ。
「じゃあ、どうして母さん達を殺した! 二人に何の罪があったッ!?」
震える声にそれでも精一杯の怒りを込めて叫んだ。ティオが魔女だなんて、そんなことは関係ない。ルークはイヴが村で行った理不尽な火刑というその一点で彼女の中に悪魔を見出していたのだから。
「ん~? 家族が魔女狩りにあったの? え、もしかして私が殺したの? う~ん?」
「ッ、このッ、ふざけるなよッ!! 忘れたなんて言わせないぞッ!!」
やっぱりこいつは悪魔だ。ルークは確信する。
自分が殺した人間のことすら覚えていないなんて、そんなことがあっていいはずがない。
今の今まで自分が恨まれていることを考えもしないで生きてきたなんて、そんなことがあっていいはずはないのだ。
怒りに身体が燃え上がりそうだった。本当にこのまま、自分もろともにイヴを焼き殺せたらどんなに気持ちがいいか。そんな想像すらした。
「あらぁ、その表情どこかで……」
しかしその時、品定めするように顔を覗きこんでいたイヴがようやく何かに気付いたように声を上げた。
「あら、あらあらあらあらぁ! どこかで見た表情だと思ったら、あの時の……んふ」
それからしばらく俯いて、こらえ切れないとばかりに笑い声を上げた。
「あは、あーっはっはっは! そーっかそっかぁ、ロッドウェル一家かぁ! んふぅ、なーんだ、全部わかっちゃった! そりゃティオがあなたに何も話さないわけね」
その表情を、その言葉を、ルークは一生忘れないだろう。イヴは、これ以上ないくらいに愉しそうに、邪悪な笑みを浮かべて言ったのだ。
「自分のせいであなたの家族が殺されたなんて、知られたくないもんねぇ?」
「………………え?
木々の間を走る風があの日の臭いを運んでくる。
そして、地面に伏していたティオが動いた。