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第5章

「追手がかかった」

 事態が一変したのは、その翌日のことだった。お昼過ぎ、外出から帰るなりフローが緊迫した様子でそう告げたのだ。

「北へ向かう商人団に交じって五人程、マルクトへ近づいてきているわ」

「……早過ぎる」

「ええ」

 そう、早過ぎる。

 神術書所持の疑いがある人間のもとに出した遣いが帰らない。もちろんそうなればすぐに動くのは当たり前だ。

 しかし、どうして自分達がマルクトに向かったことを敵は知っていたのか。

 小屋での戦闘の後、自分達がどこへ向かったかなんて誰にも見られていないはずなのだ。足跡や野宿の痕跡だってないに等しい。それなのに、何故。

 あるいは街道沿いに哨戒をいくらか出しただけで、同じように他の街へも帝国兵が向かっているのかもしれない。自分達がマルクトにいることを知っているわけではないのかもしれない。ルークはそう思った。だけど。

「だけど間違いない。あれはおそらく、神術師ね」

「神術師!?」

 その言葉にルークは思わず大声を上げた。先日小屋で戦ったような一兵卒とは違い、神術師は帝国の主戦力だ。そんなものを街道の数だけ哨戒に出すはずがなかったし、それにしたって数が多い。いくら神術書のためとはいえ、南との戦争もあるというのに、そんなものを五人も差し向けてくるとはルークには考えづらかった。

 だけど、ティオとフローはそうは思わなかったらしい。

「中途半端な戦力だね」

 むしろ逆のことをティオが言い、フローもそれに頷いた。ルークにはわけがわからない。

 こちらも神術書を持っているとはいえ、相手は本職だ。普段から神術を使った戦闘の訓練を受けているだろう奴らだ。そんなのが五人もだなんて、戦力として十分過ぎるように思える。その何が中途半端だというのか。でも、それを尋ねはしなかった。きっと二人がそう言うからにはそうなのだろうと思ったから。

「時間は後どれくらいだい?」

「今日中、ということはないでしょうけれど、馬があるからね。おそらく明日の昼前には」

「今夜中に街を出よう」

 言うなり、ティオは荷物をまとめ出す。ルークも慌ててそれに従った。だけど、まだここでの本来の目的が果たせていない。

「旅の準備はどうするの」

「諦めるしかない」

「諦めるったって、それじゃ街を出た後どうするのよ」

「……お金がいるね」

 そう呟いてしばらく思案したかと思うと、ティオはおもむろに一冊の神術書を手に取った。

「危ない橋を渡ることになるかもしれない」

 ルークとフローはそれを、不安な面持ちで見つめていた。


 神術障壁を纏い、フードで顔を隠し、二人がやって来たのはスラム街だ。ルークは驚いた。狭い道の両側を汚くボロい建物がまばらに立ち並び、その近くにはやせ細った浮浪者や乞食のような人達がこちらに胡乱な目を向けている。それはフローの住むあの家を見た時以上の衝撃だった。

「マルクト程の街にもこんなところがあるなんて……」

「大きな街だからこそだよ」

 無遠慮に自分達へ向けられるその視線を物ともせず、ティオが向かったのは荒れ果てた酒場だった。それは、もはや廃墟と見紛う程の平屋だった。穴だらけの看板には、店の名前も何もなく、ただ酒の絵だけが描かれていた。だけどしっかり営業はしているようで、中に入ると昼間から酒を飲むガラの悪い連中が一斉に自分達を見る。その視線に、ルークは少し怖気づいた。

 一方ティオはここでも平気な顔で、カウンターに近づくと奥で当たり前のように仕事をサボっている店主を呼んだ。呼ばれた方は面倒くさそうに、右足を引きずりながら店の方へと出てくる。そしてティオとルークを見るなりあからさまに嫌そうな顔をした。

「ここは餓鬼が来るところじゃねえ。さっさとけぇれ」

「情報を売ってほしい」

「ここで売ってるのは酒だけだ。他を当たりな」

 店主はそれだけ言うとまた奥へ引っ込もうとする。女子供であるために、完全に舐められていた。取り付く島もない。

 しかしここで引くわけにもいかない。二人がここへやってきたのは、旅の資金集めのためにある情報が必要だったからだ。

 ティオはルークを一瞥すると、店主の背中に向けてこう切り出した。

「私は医者なんだが、どうやら右足が悪いみたいだね」

 店主の足が止まる。それから不機嫌そうな顔で振り向いた。触れられたくないことだったらしい。

「それがどうした」

「治してやろうか?」

 その不遜な物言いが、怒りを買った。

「がっはっはっはっはっ! てめぇがこの足を治せるってか? おもしれぇ、治せるもんなら治してもらおうじゃねぇか!」

 店主は心底面白そうにそう笑ったかと思うと、突然カウンター越しにティオの胸ぐらを掴み、ドスの利いた声を出した。

「ただし、治せなかったらどうなるかわかってんだろうな? ……てめぇもおんなじ足にしてやるよ」

 乱闘になるのではと、ルークは気が気じゃなかった。情報を売ってもらわなくてはいけないのに相手を怒らせるようなことを言って、ティオは一体どういうつもりなのか。

「…………あん?」

 と、しばらくそのままティオを睨みつけていた店主だったが、ふと違和感に気付いた。ティオの服を掴んでいるはずの手が、しかしそれに触れられていないような、経験したことのない感覚だった。それが神術障壁であることを彼は知らないだろうが、それでもその感覚は何か大きな力を感じさせたらしい。

 その隙に、ティオはそっと懐に手をしのばせ神術書を開くと、囁くようにその呪文を口にした。

「リトリックス」

 目に見えては何も起こらない。何事かと二人に注目していた客達は突然の静寂に首を傾げるばかりだ。

 しかし、店主にはしっかりと治癒の力が感じられたらしい。彼は信じられないといった様子で自分の右足に視線を下ろし、確かめるように動かした。それをしばし呆然と見つめた後、そして気付く。彼はハッとして顔を上げた。

「お、おめぇ、まさか……」

「しーっ」

 ティオは不敵な笑みを浮かべ、店主の言葉を制する。

「私はただの医者だ。そうだろう?」

 ルーク達はそれが神術であることを知られるわけにはいかないのだ。店主には悟られただろうが、まだそれに気づいていない客達に「神術」なんて言葉は聞かれたくない。

 店主もそれを察したようで、無言で頷いた。そして、カウンターに身を乗り出すと小さな声で尋ねた。

「何が知りたい」

「この街に重病を患った者はいないか。なるだけ金持ちがいい」

 ティオが出した資金集めのアイディアは至極単純なものだった。

 治癒の神術を使って金持ちの病気を治す。それだけだ。

 表立って商売をするわけにもいかず、またそんな時間もないルーク達にとってはそれが最善の策に思われた。しかし国の目が光る一般の酒場に情報を求めるわけにもいかず、こうしてここまでやってきたのだった。

 もしここで病人の情報を得られなかったら、お金を得る術はなくなってしまう。ルークは緊張した面持ちで二人のやり取りを見守っていた。

 店主はしばらくティオの青い瞳を見つめ何かを考えていたが、やがて諦めたように肩を落とすとボソリと呟いた。

「……いるよ」


 店主が出してくれた案内役の男と共に店の外へ出ると、すでに日が傾きかけていた。酒場の屋根でカラスが啼いている。もうあまり時間がない。

「急ごう」

 二人は案内を急かして足早に歩き出した。

「ちょっと待ってくれ!」

 と、その時突然後ろから呼び止められた。何事かと振り返ると、酒場の入り口に一人の男が立っている。中にいた客の一人らしい。太い眉に濃い髭の、毛むくじゃらな男だ。結構な量の酒が回っているらしく、その足元は覚束なかった。

「さっきの話を聞いてたんだ。あんた、医者なんだろ? それも、“腕利き”の」

 男の言葉に二人は身構えた。

 まさか、気付かれたか。こんなところで揉めている場合ではないのに。

 男の血走った目がティオを見る。ルークは腰のナイフに手を伸ばした。狙いは神術書か、あるいは脅す気か。そうしてしばらく膠着状態が続く。と、ついに男が腰を落とした。

 ――来るか!

 しかしそう思ったのも束の間、男はそのまま地面に膝をついたかと思うと、何と二人に向けて頭を下げたのだ。一瞬酒が回ってぶっ倒れたのかとも思ったが違うらしい。男は額を地面に擦り付けるような体勢のまま、懇願するような声を出した。

「頼む! どうか、うちの娘を診てやってくれねえか……!」

 予想外のことに、ルークとティオは顔を見合わせた。男は相変わらず顔を上げないままに言葉を続けた。

「何日も前から体調が悪いんだ……飯もあまり食えず、今はもうベッドからも出られねえ!街の医者に往診を頼んでも、奴らスラムになんか行けるかと突っぱねやがる! もう、頼れる奴がいねえんだ! 頼む! 娘を助けてくれ……!!」

 男の声は半ば震えていた。そこには子を想う親の気持ちが確かに表れていて、ルークの心は揺れた。堪らずティオを見る。優しい彼女なら、何とかしてくれるだろうと期待したのだ。

 しかし、彼女が発した声はひどく冷たいものだった。

「金はあるのか」

 ルークは驚いた。自分にあれだけ優しくしてくれたティオが、当たり前のように男の頼みを、子を想う親の頼みを斬って捨てたのだ。

 案の定、男は暗い表情で顔を上げた。ティオは案内に声をかける。

「行こう」

「ま、待ってくれ!」

 男はすがるように手を伸ばした。

「お、オウル銅貨でいくらかなら……」

「話にならないな」

「診てくれるだけでいいんだ! 治療も薬もいらねえから、せめて、診るだけでも!」

「……あなたが酒に使った金があれば、診察くらいはしてあげられたかもね」

「う、ぐっ……」

 男がどんなに頼んでもティオはそっけなかった。とうとう男は頭を垂れて、絶望の声を出す。

「もう、ダメかと思ったんだ……ヤケになっちまって、酒でも飲まないとやってらんなかったんだ……ああ、すまねぇ……すまねぇアニー……」

 あとは、くぐもった嗚咽だけだった。ティオはしばらくその小さな背中を見つめていたが、やがて背を向けて歩き出す。案内の男と共に、金を持っているという病人のもとへ。

 だけど、ルークは動かなかった。そうして、今まさに自分から離れていくティオに声をかけた。

「ねえ!」

 振り向いたその表情が何を考えているのか、ルークにはわからない。それでも彼女は優しいのだと、そう信じていたからこそそれを言った。

「助けてあげようよ!」

 男が驚いて顔を上げた。まだ希望が残っていると思ったのかもしれない。そしてルークもまた、心のどこかで「自分が頼めばきっと」と思っていた。

「ダメだよ」

 でも、それがティオの答えだった。それから困ったような顔でルークの前まで来ると、腰をかがめ目線の高さを合わせて囁いた。

「もう時間がない。一刻も早くお金を手に入れて街から出ないと」

 その答えにルークは安心した。ティオも、本当はやっぱり助けたいのだ。だけど、時間がなくて焦っているから冷たい反応を返していただけなのだ。そう思った。

 だから食い下がった。

「あの人の家へ行って治すだけならそんなに時間はかからないよ! スラムだってそんなに広いわけじゃないし、きっとすぐだよ!」

「それでも無駄な時間はかけたくない」

「無駄な時間って、そんな言い方ないだろ! あの人がお金を払えないから!? 人の命よりお金が大事なの!?」

「そういう問題じゃない……それに、もしかしたら罠にはめるつもりかもしれない」

「あの人の言葉に嘘なんてないよ! 聞いてればわかるだろうそんなこと!」

「ルーク……」

 ティオが疲れたような声を出した。そのことにルークは傷ついた。自分に優しくしてくれていたティオと目の前のティオが、何だか別人のように思える。昨日は自分のわがままを聞いて、あんなに色々教えてくれたのに。

 ティオの手が両肩に伸びて、ルークは身体を固くする。彼女の視線は鋭かった。

「君の目的は何だ? 復讐を果たすことだろう。それとあの人を助けることと、何か関係があるのかい?」

「それは……」

「目的のためにはいらないものを切り捨てる。そういう強さを持ちなさい」

 それだけ言うと、これ以上は時間の無駄だとばかりにティオは立ち上がった。そしてルークに背を向ける。

 ルークにだって、ティオが正しいことはよくわかっていた。

 神術師に追われる今、危険はなるべく避けて、少しでも早く少しでも遠くへ逃げることが大事なのは当たり前だ。いつか復讐を果たす、そのためにこんなところで死ぬわけにはいかないのだから。

 だけど、ルークには家族を失う悲しみもまたよくわかるのだった。

 当たり前のようにそばにいた人がある日突然いなくなるというのは、心が張り裂けそうなほどに辛いことなのだ。今、自分達が行けばそんな思いをさせずに済むのに。そう思うと、何が正しいかはわかっていても身体がそうは動いてくれなかった。

 ついてこないルークに気付いて、ティオが足を止める。振り向いたその顔に、ルークは最後の足掻きのつもりで叫んだ。

「あの人を助けてからじゃないと、僕は行かないぞ!!」

 間違ったことを言っているのはよくわかっている。

 ティオに迷惑をかけていることもわかっている。

 だから、それでもティオがダメだと言うのなら、ルークは受け入れるつもりだった。

 ティオがまた正しいことを言って、自分が説き伏せられる覚悟はあった。

 だけど、その時カラスが啼いて、

「好きにすればいい」

 ティオは説得を諦めた。


「君がいなくても、治療はできる」


 一瞬、言葉に詰まった。言われたことが信じられなかった。

 それは見捨てられたも同然の言葉だったから。

「何だよ、それ……」

 呆然と呟くその声は届かなかった。こちらに背を向けて、ティオはそのまま歩き出す。

 自分が無力であることくらい、とっくに知っていた。

 力はない。体力もない。お金も食料も、武器もない。

 自分は足手まといでしかない。

 そう自覚したからこそ教えを請い、戦い方を教えてもらったのが昨日のこと。

 ルークはティオの力になりたいと思ったのだ。自分に力を貸すと言ってくれた彼女に、助けてくれた彼女に、少しでもお返しができるように。

 それなのに、その彼女に言われてしまった。

 ――君がいなくても、治療はできる。

 当然、その言葉はそれ以上の意味を持ってルークには聞こえる。

 治療だけじゃない。自分がいなくたって、彼女には何でもできるのだ、と。

 つまりは、彼女にとって自分はいてもいなくても変わらない存在なのだ。

 たまたま気まぐれで助けて、たまたま気まぐれで連れてきた、それだけの存在。

 そういうことが、全部わかってしまった。

 ほの暗い絶望が襲ってくる。そしてそれはすぐに怒りへと変わった。

「何だよそれッ!!」

 自分は何を勘違いしていたのだろう。どうして出会ったばかりのティオをこんなにも信用していたのだろう。

 彼女は、所詮他人じゃないか。

 結局、ルークの怒りも虚しくティオは夕闇に包まれた街へと姿を消した。後にはルークと名も知らない男だけが残った。

「……ごめんなさい、おじさん」

 男に向き直り、潤んだ瞳に問いかける。

「僕に治療はできないけど、それでもよければお見舞いに行かせてくれないかな?」

 同情からの言葉ではなかった。ルークは誰かの役に立ちたかったのだ。

 自分にも何かができると思いたかったのだ。

 それは、そんな自己満足の提案だった。

 しかしそれでも、男はその表情に少しだけ色を取り戻した。

「ああ、ありがとう……話し相手になってやってくれ」

 それを見てルークは、自分はやっぱり正しいのだと感じた。


 酒場の近くにあった男の家は、酒場と同じくらいに粗末なものだった。ボロく、小さく、今にも壊れてしまいそうだ。

 男に案内されて、病気の女の子がいるという部屋へ向かう。女の子は、廃材を繋ぎあわせたような粗末なベッドに横たわっていた。年は七つか八つか。少なくとも、ルークより年下に見える。ボサボサの髪から覗く、青白い顔が痛々しかった。

「パパ、そのお兄ちゃんだあれ?」

「医者のお弟子さんだ。お前のお見舞いに来てくれたんだよ」

 男の言葉を敢えて訂正はしなかった。ルークはベッドのそばに寄ると声をかける。

「お名前は?」

「私はアニー。あなたは?」

「僕はルーク。ルーク・ロッドウェルっていうんだ」

「ふうん。素敵なお名前ね」

 力ない、か細い声だった。

「体調はどう?」

「わかんない。でも、何だか身体が重たいの」

 アニーはしかめっ面を作る。

「きっと魔女の仕業よ。どこかのいじわるな魔女が、私が外で遊べないように呪いをかけたんだわ」

「魔女……」

 魔女は全ての災いの元凶。悪魔の手先。

 母さん達はそうは思っていなかったみたいだけれど、その母さん達も死んだ。それは多分、そういうことなのだろう。

「だけどね、パパが言ってた。いい子にしてればきっと神様が助けてくれるって。ね? パパ?」

 問われて男は無理に笑みを作る。

「……もちろんだとも」

「ね?」

 アニーはルークに向き直りニッコリと笑う。

「だから今は我慢するの。お外で遊べなくても、いい子でここに寝ているわ。そうすれば、すぐに良くなるから」

「……ああ、そうだね。大丈夫、きっと良くなるよ」

「うん!」

 アニーの笑みに、ルークは何となく察した。きっと本人も、自分がこのまま治らないことをきちんとわかっていて、それでも健気に明るく振る舞っているのだ。

 ルークは自分が情けなかった。お見舞いに、なんて気軽く言って、少女は自分よりもずっと強かった。

 何もできないことがもどかしかった。力のないことが悔しかった。

 ティオへの怒りが、また沸々とわいてくる。彼女は力を持っているのに、それを正しくは使ってくれない。今の彼女には、助けを求めている他人よりも自分が逃げることの方が大事なのだ。何て愚かなんだろう。

 彼女は優しく、それ故に正しい人なのだと思っていた。だけどそれは違った。

 彼女の正しさなんて、正しいこと以外に価値を持たないひとりよがりなものだったのだ。

 そんなものに従ってたまるか。

 ルークは自分が正しいと思うことを貫き通すのだと、そう心に決めた。

「ねえ、そんなことより楽しいお話を聞かせてよ。ルークは街の外に出たことある? 街のそばに大きな湖があるって本当? この街の水はそこから引いてるっていうのに、湖を見たことはないのよね」

「ああ、見たよ。僕はこの街の外から来たから。遠くの街道からでも見えるくらい、すっごく大きかった」

「本当!? そんなに大きいんだ…………見てみたいなあ」

 日が落ちるまで、ルークはアニーと話を続けた。

 そうして、改めて思うのだ。力が欲しいと。

 力のある誰かに頼るのではなく、自分自身が力を持ちたいと。




 予め合流地点に決めておいた路地裏でフローと共に待っていると、ようやくティオがやってきた。その顔には疲労の色が見える。

「遅いじゃない!」

「すまない。交渉が思ったよりも長引いた」

「上手くいったの?」

「ああ、大丈夫だ」

 ティオは重そうな小袋を掲げてみせた。ジャラ、という音が中に詰まった金貨の多さを思わせる。

「とにかく急ぎましょう」

「そうだね。さ、ルーク」

 しかし、差し出された手をルークは取らなかった。フローがため息をつく。

「ルーク、気持ちはわかるけど、言ったでしょ? ティオもあなたを守ることに精一杯で、余裕がないのよ。わかってあげて」

 そんなわけがあるか。ルークは心の中で毒づいた。数日の付き合いだというのに、ティオが自分にそんな執着をするわけがない。ティオに余裕がないのは、帝国の追手にビビっているからだ。

 そんなルークの様子に、ティオは怒りもせずに手を引っ込めた。

「いいんだフロー。私が悪いんだから。とにかく今は急ごう」

 見回りの目を警戒しながら、月明かりを頼りに街を進む。やがて三人は街の外れへとたどり着いた。目の前には街を取り囲む高い外壁がそびえ立っている。そしてその向こうにはネブラ山があるはずだった。ここが秘密の通路の入口らしい。

「ホーラピス」

 フローが神術書を片手にそう唱えると石畳が音もなく崩れ、そこに地下へと続く階段が現れた。

「よくこんなもの知ってたね」

「伊達に長くは住んでないってことよ。さ、とにかく中へ」

 促されて、ティオを先頭に二人は階段を下りる。ひんやりと冷たい空気が頬を撫でた。

「いい? 数分も歩けば崖の下に出るわ。そうしたらそこから右へ、壁伝いに進むの。それで村へ続く小道に出られるわ。朝からなら、徒歩でも昼過ぎには村に着くはずよ」

「わかった。何から何まで世話になったね」

「いいわよこれくらい。さ、行って」

 頷いてティオが神術書を取り出す。フローからもらったという三冊の内の一つで、つい今しがた入り口を作るのに使われたのと同じ土の書だ。

「ルーク」

 別れ際、フローに声をかけられる。

「ティオを信じてあげて」

 それから、ティオが呪文を唱えた。崩れたはずの石はたちまち元の位置に戻り、通路は暗闇に閉ざされる。

「ジルクス」

 今度は光の書だ。柔らかい光に通路が照らされる。そこは思いの外広く、明らかに人の手が加わったとわかる洞窟だった。

「……じゃあ、行こうか」

「…………」

 二人は無言で歩いた。ティオは時折何かを言いかけてはやめを繰り返し、ルークは終始不機嫌な顔をしていた。

 やがて言われた通り崖の下に出る。崖は数メートル程の高さで、登れないこともなさそうだった。

 二人はとにかくはその場から離れることにした。もちろんそこに会話はなかったが、どう考えても人口の洞窟の、その真ん前で野宿するわけにもいかないだろう。

 壁伝いに少し進んだ先にちょうどよさそうな場所を見つけ、ティオが気まずそうにそこで野宿する旨を伝えた。だけど、ルークはティオから離れたところで横になった。夕飯も、意地で我慢する。借り物のマントに丸まっている時点で自分でも滑稽な意地の張り方ではあったが、それでもそうするしかなかった。時間が経てば経つほど、ルークには気持ちの整理がつかなくなっていたのだ。

 ティオは何も言わない。二人分のリンゴを手にしばらく迷っていたようだが、やがてそれを袋にしまう気配があり、そのまま寝ることにしたらしい。

 結局、ルークは眠れぬ夜を過ごすことになった。


 翌朝、当たり前のように差し出された朝食をルークは無言のままに受け取った。決して礼は言わない。空腹には負けても、まだ意地は通したかった。それからすぐに出発して、予定より少し遅く、日が傾く頃に村へ着いた。マルクトの街との間に、ネブラ山麓に広がる森を挟んで位置する小さな村。名をウェルスといった。多分、ルークの住んでいた村より小さいだろう。当然宿屋なんてなさそうだ。

 農作業を切り上げてきたところだろうか、近くの畑から歩いてくる農夫がいた。

 その男にティオが声をかける。ティオはここでもやっぱり巡礼の途中だと伝えた。農夫は二人の背格好を見て感心したように頷くと、泊まれる家へと案内をしてくれた。

 二人が泊まることになったのは村の中ではかなり大きな家だ。二階に空き部屋が一つあるとのことだった。農夫と家主に礼を言い、二人は部屋に荷物を置いて、ようやく一息ついた。

 ベッドが一つだけ置かれた、狭い部屋だった。窓も小さなものが一つだけ。そのすぐ向こうにはネブラ山が見えた。それ以外には何もない、簡素な部屋だった。

 ベッドの端にそっと腰掛ける。何だかんだ、ここに来るまで緊張していたようだ。座った途端にどっと疲れが出て、身体が沈み込みそうになった。ふと目をやると、ティオは何故か神術書だけを荷物から取り出し、懐へとしまっていた。

 と、そのティオと目が合ってしまう。ルークはさっと目をそらした。気まずい沈黙が流れ、やがてティオが口を開く。

「仲直りをしないか」

 それは、歩み寄りの提案だった。合流してからの様子でわかる。ティオは自分の言葉がルークを傷つけたことがわかっていて、関係を修復したいと感じているのだ。

 しかし、ルークの腹の虫は収まらない。彼はそのティオの言葉を聞こえなかったふりをした。身体ごとそっぽを向いて、背中を向けた。

 安全のためにとアニーを見捨て、そのうえルークすら見放すようなことを言ったティオを、まだ許すつもりにはなれなかったのだ。

 何て幼い。自分でもそう思う。でも、今の彼にはそうするしかなかった。

 だから、そのチャンスを逃してしまった。

 それが、二人が分かり合うための最後の機会だったとも知らずに。

 意地を張り続けるルークの態度に、ティオもさすがに苛立った様子だった。それでも怒りをぶつけなかっただけ、彼女は大人だったかもしれない。

「私は少し外出するよ。ただ、くれぐれもルークはここから出ないように。村の人にあれこれ余計なことを話してはいけないよ。いいね?」

 返事がないと知りつつそう残して、ティオは部屋を出ていった。フローから譲り受けたという三冊の神術書を手に。

 ルークは部屋に一人になった。遠くに聞こえる子供達の声、村人達の生活音が彼の孤独を際立たせる。それが嫌で、ルークも部屋を出ることにした。ティオの言うことに従うのが癪だったのもある。薄暗い廊下を進み、軋む階段を下りる。と、建物から出るところで、家のおばさんに声をかけられた。

「あれ、一人かい? お姉ちゃんは?」

「……」

 ルークは上手く答えられずもじもじと視線を彷徨わせただけだったが、気のいい人らしい、特に気にした様子もなく話題を変えた。

「巡礼の旅なんだって? 大変だねえ」

「や、それほどでも」

「どこから来たんだい?」

「えっと、マルクトの街」

 ようやくボソボソと受け答えをし始めたルークに、しかしおばさんは首を傾げる。

「マルクト? マルクトっていうと、じゃあ教会の人かい?」

「あ、いや、出身はもっと南の村。多分、名前を言っても知らないと思う」

「ふうん、そこからお姉ちゃんと一緒に来たのかい」

「……まあ」

「よかったねえ。一人じゃ心細いしねぇ。旅は大変だよ」

 それだけ言うと、仕事があるからとおばさんは台所の方へ戻っていった。

 別に、怪しいところはなかったはずだ。ティオに心配される程、自分だって間抜けではない。言っていいことと隠さなくちゃいけないことの分別くらいつく。

 それで気が大きくなったルークは外へ出て、村の中央に位置する広場へ向かった。子供達が無邪気にじゃれ合っている。その輪から外れたところでルークは立ち止まった。

 少し前までは自分もああだった。だけどもう戻れない。自分は悪を知ってしまったから。

 無実の罪で姉と母をを殺したイヴ・ナイトメア。

 悪魔の手先である魔女を裁く神官のはずなのに、悪魔は彼女の方だっだ。

 そして、それを知ってしまったからには自分がその悪魔を討ち倒すしかないのだ。

 そのためには、やっぱり神術が必要だ。

 ルークは強く思う。

 ティオに頼るのではなく、自分の力として使える神術が欲しい。

 思えば、ティオはナイフでの戦い方を教えてはくれたが、神術の使い方を教えようとはしなかった。わざわざ中庭に出なくとも部屋の中で教えられ、その上威力も絶大な神術よりも、実戦でほとんど出番もないだろう上に教えるのも一苦労なナイフ格闘を選んだ理由は何か。ルークは考える。ティオは自分に神術を使わせたくないのではないかと。

 大体、自分は最初から神術書を求めてティオの小屋へと向かったはずなのに、彼女が仲間になってからも一度として神術書に触ったことはなかった。神術書の使用も、その管理も全てティオが行なっているからだ。さっきだって、少しの外出のためだけに神術書三冊を全て持ち出していた。村の人に見つかるリスクがあるというのに、自分にその番を任せるのではなく、だ。もちろん自分達は現在喧嘩中ではあるし、神術書がフローから譲り受けたものとはいえ彼女の物である以上、それは別におかしいことではないのかもしれない。

 しかし、自分に協力してくれると言った手前、その手段として必要不可欠なはずの神術について何も教えてくれないというのは変ではないか。

 もしかしたら、ティオは自分に神術書を触らせたくないのではなく、ただ単に――。

 と、そんなことを考えていると、村の入り口の方がにわかに騒がしくなった。馬の足音と、ガラガラという車輪の回る音。何事かと顔を向けると、どうやら行商人達がやってきたらしい。多分、追手の神術師達が紛れ込んでいたという商人団だ。ルークは身構えたが、その姿を見て力を抜いた。馬車を引くのはどいつもこいつも優男ばかりだったのだ。すらりと細いその身体は屈強な戦士のそれとは程遠く、もはやそこに追手が紛れ込んでいないことはルークの目にも明らかだった。

 自分達をジッと見つめるその視線にもにこやかに、商人達はルークに笑顔を見せた。そしてそのまま馬車を引き、ルーク達を案内したのと同じ農夫に村長の家へと招かれていった。

 追手はやはりマルクトに入ったのか。フローは大丈夫だろうか。そんな思考が一瞬だけ生まれた。

 広場にいた子供達は、物珍しさに商人たちを追って村長の家の方へと駆けていく。

 ルークはまた一人広場に残されたが、子供達を追っていくわけにもいかず部屋へ戻ることにした。


 夕飯を終え、ベッドに入っても、相変わらずティオとの会話はなかった。外出から戻ったティオは、もうルークに声をかけてはくれなかったのだ。二人はすれ違いを抱えたまま一つのベッドへと入る。ルークは毛布のほとんどをティオに譲って横になった。ティオは「またつまらない意地を」とでもいうように呆れた様子ではあったが、ルークの狙いはそれだけではなかった。

 ルークは背中を向けて、寝たふりをする。やがて、ティオの方から寝息が聞こえてきた。それでもしばらく様子を見て、完全にティオが寝入ったと確信してからこっそりとベッドを下りる。毛布から抜け出すのは簡単だ。それから慎重に音を立てないようにして、ルークは部屋の隅に置かれた彼女の荷物を調べ始めた。

 そしてとうとう、それを見つけた。

 神術書だ。

 ルークは神術書を使い、一人で事を為す覚悟を決めていたのだ。

 こんなことをして何になる。何もできない自分の情けなさを、怒りを、全てティオにぶつけて発散しているだけではないか。そう感じる自分もいた。だけどその怒りが、そんな冷静さを失わせてしまっていた。

 フローからもらったという神術書三冊を取り出して並べてみる。ルークは震える手でそれを広げた。

 そして目を疑った。

 それは、ただの本だったのだ。確かに魔法陣のようなものが描かれたページもあるにはある。しかし、間違いなく何の力もない本なのだとルークにはわかった。何故ならそれは、あの日フローが見せてくれた、初代皇帝について書かれた本だったからだ。それでも苦し紛れに聞き慣れた神術障壁の呪文を唱えてみたが、あのぬるま湯のような嫌悪感が自分を包むことはなかった。

 一体これは、どういうことなのか。

「どういうつもりだい」

 とその時、狼狽するルークの背に、ティオの冷たい声がかけられた。それでルークは理解した。自分の企みはティオに筒抜けだったのだ。

 そしてそれは、自分が信用されていないという証左でもあった。

「神術書はどこだ!」

 ルークは吠えた。先に不誠実なことをしたのは自分だというのに、予想だにしなかった事態に逆上していた。そんな声に、ティオは飽くまで冷静に言葉を返す。

「神術書を手にして、どうするつもりだい」

 その落ち着き払った声がまたルークを苛立たせる。

「言っただろ!? 復讐するんだ!」

「それは知ってるよ。だけど君が神術書を手にしたところで、追手を撒かない限りイヴに近づけやしないよ」

「なら追手なんて殺せばいい!!」

 もちろん、それが至難の業であることはルークにもわかっていた。しかし、出し抜かれた怒りは延焼し、スラムでのやり方に対する強い反感をも再び燃え上がらせていた。

 案の定、ティオはルークの言葉を否定する。

「素人が神術書を持ったところで、神術師には勝てないよ。大体神術書の数だってこちらは三、向こうは少なくとも五だ。わかるだろう?」

 ルークは歯噛みする。そんなことはわかっている。だけど、どうしても我慢がきかないのだ。そんなルークに、ティオはさらに、

「それからルーク、『殺す』なんて言葉を簡単に使うのはやめなさい。その言葉は、君の心を蝕んでしまう」

 憐れむような目でそう言った。その目が、ルークの中にあったある想像をむくむくと大きくしていく。

「そんなこと言ったって、どうせやることは一緒じゃないか! ティオだって復讐を手伝うって言ったじゃないか! 一緒にあいつを殺すんだろ!? そんなの、綺麗事だ!」

「それでもだ」

「意味がわかんないよ! 何だよそれ!」

 そして、とうとうルークはそれを口にした。

「ひょっとして、ティオは元から復讐を手伝う気なんてなかったんじゃないの!?」

 ルークは、ティオが自分に神術を教えない理由がそれなのではないかと思っていたのだ。

 復讐を手伝うなんていうのは、あの時ナイフを手に迫っていた自分を落ち着かせるための方便であって、本当にイヴを殺す気なんてなかったのではないか。これ以上帝国に歯向かうつもりなどないのではないか。

 彼女には大義も何もなく、ただ保身のために行動しているだけではないのか。

 そういう予感があったのだ。

 もちろん、今がそうしなければならない時だということはよくわかっている。人の数も神術書の数も劣るこちらが追手と真っ向からやり合うわけにはいかない。まずは追手を撒いて、チャンスを待つ。それはルークにも理解できた。

 だけどこの時、言われたティオは言葉に詰まってしまったのだ。その反応は、ルークの仮説を決定づけるには十分過ぎた。怒りの炎がさらに舞い上がる。その炎は、どんどん彼の思考を歪めていった。

「変だと思ったんだ! 初対面の僕をいきなり手伝うだなんて! どうせ帝国から逃げるために利用できるとでも思ったんだろ! 本当は僕のことなんてどうでもよくて、自分のことだけ考えてたんだろ!」

「ルーク、違うんだ、ただ、私は……」

「何が違うんだよ!? ずっと僕を騙してたんだな!? 僕だってスラムのあの子と一緒なんだろ!? 使えないとわかったら簡単に見捨てるんだろ!?」

「なっ、そんなわけないだろう!!」

 その言葉に、とうとうティオも声を荒げた。余裕のない、感情だけの声だった。

「いいからルーク、話を聞きなさい!」

 だからそれもきっと、何か意図があったわけではないのだろう。ただ単純に、ルークに自分の言い分を聞いて欲しかっただけなのだろう。

 だけどその言い方が、ルークの神経を逆撫でた。

「僕に命令するな!! ああしなさいこうしなさいって、うるさいんだよ!! 保護者気取りか!? お前は――」

 ルークに言ってはいけないその一言を言わせた。

「――姉さんや母さんの代わりにでもなったつもりかよっ!?」

「っ……!」

 どうしてかはわからない。でも、その言葉にティオがいたく傷ついたということだけは手に取るようにわかった。今までに見たこともない表情だった。ティオは言葉を失ってしまったかのように沈黙し、顔を伏せた。

 場を沈黙が支配する。

 唇を噛み締め震えるティオを、ルークは妙に冷めた気持ちで見つめていた。

 もう、おしまいだ。束の間の温かかった時間は壊れてしまった。

 誰かに壊されたのではなく、自分の一言が壊してしまったのだ。

 怒りがスッと引いていき、ただ後悔だけが残った。

 せめて謝ろうと思った。それでどうにかなるわけではないけれど、でも、と。

「ティオ……」

 しかしルークがそう声をかけた瞬間、それを遮るように窓の外で鳥の羽音が響いた

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