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第4章

「ルークちゃん! いい子にお留守番しててね!? 美味しいもの買ってくるからね!?」

「うん、はい、いってらっしゃい」

「ああっ……ああっ! 別れが辛いわ! 運命の神様はなんて残酷なの!? 私もルークちゃんを愛でていたい! ナデナデしたいっ! でも、でもっ、私は行かなくてはいけないっ……これが神の与え給うた試練なのね!? 愛の試練なのねっ!? ……いいわ。そんな試練、乗り越えてみせる!! 私の愛はネブラ山より高くシレンティウム湖より深」

「早く行け」

 呆れ顔のティオが勢いよくドアを閉める。

 二人の代わりに買い出しへと出かけるフローを見送って、部屋にはルークとティオだけが残された。昨晩のことが気にかかってはいたが、ルークはそんなことをおくびにも出さず、今は一人遅めの朝食をとっているところだった。

「まったく……あ、ほらルーク、パンが落ちるよ」

「んぇ……?」

 というより、気にする余裕もない程に眠かった。手にしたパンを何度も落としそうになりながら目をこするルークに、ティオは心配そうな目を向けた。

「昨日、あんまり眠れなかった?」

「ん……ん、やっ、別に」

 その質問に内心慌てながらも、おかげで醒めた頭でルークは首を振る。

「そういうわけじゃないんだけど……何だか疲れが取れなくて」

「長い距離を歩いてきたしね、疲れが溜まってるんだろう」

 どうやら誤魔化せたようでティオの表情に変化はなく、ルークはほっと息を吐いた。

 本当は、聞くべきなのかもしれない。昨晩、何を話していたの、と。

 しかし、地獄のような孤独を体験したルークの心は臆病になっていた。彼は今のティオとの関係を、大事に大事に守っていたかった。余計なことに口を出すような奴だとは思われたくなかった。追求して何かが壊れてしまうのは嫌だった。

 だから、現状維持。

 それが一晩考えてルークの出した答えだった。

 大体もし今更一人になってしまったら、自分は何をすればいいのかもわからなくなってしまうだろう。

 心に少しの余裕を取り戻し、落ち着いて考えた今ならわかる。復讐をしようにも、敵の居場所も、戦い方も、自分は何も知らないのだから。

 ルークが持っているのは、ちっぽけなナイフだけ。神術の使える者からすればオモチャ同然の、頼りない相棒だ。あるいは神術書を使うにしても、そのための呪文も知らず、第一神術書は森に捨ててきてしまった。もう一度それを手に入れるには、やっぱりティオに頼るしかなく――。

「あ……」

 そして、気付いてしまった。

 ティオがいようといまいと、今の自分には何もできないのだと。

 自分は所詮十歳の非力な子供ガキで、戦力にならないどころか足手まといでしかないのだと。

 ここまで来るのにだって一人の足では歩けずにおぶってもらい、食料は分け与えられ、自分には使えない神術で身を守り、そして今は彼女のつてを頼って宿を得ている。

 復讐だ何だと息巻いてはいたが、未だ自分は何も為してはいないのだ。

 このままでは、何もできない口だけ野郎だ。

 何かをしなくちゃいけない。ルークはそう思った。

「ねえ、ティオ」

「ん、どうしたんだい」

「僕に、戦い方を教えてほしいんだ」

 その頼みに、ティオは驚いたような顔をした。少し唐突だったかもしれない。

 だけど、ルークは足手まといでいたくなかった。

 今はまだいい。ここまで来るくらいなら子ども一人のお守りをしながらでも何とかなった。

 けれど、今後もし追手と対峙するようなことがあったら。

 戦うにしても逃げるにしても、それが命取りになってしまうかもしれない。そう思うとじっとしてなんていられなかった。

 そんな気持ちが伝わったかどうかはわからない。それでもやがて、ティオはまた微笑みを浮かべると、

「いいよ。私にできる範囲でよければね」

 そう請け負ってくれたのだった。


 急いで朝食を片付けたルークは、ティオについて部屋を出た。ティオはそのまま、平気な顔で階段を下りていく。

 誰も住んでいないといういくつもの部屋を通り過ぎ、二人は中庭へと出た。三辺をその建物に、残りの一辺を石垣に囲まれたそこは、確かに騒ぎはしない限り見つかることはなさそうだった。中央に植えられた枯れ木の下に脚の折れたベンチがあるなど、あちこちにここを憩いの場にしようと努力した形跡は認められるが、今ではただの荒地と成り果ててしまっている。外からは見えず、人が来ることもない。秘密の特訓をするにはうってつけの場所だった。

「ルークはナイフを持っていたよね」

 こんな場所に来たからには、呪文のお勉強をするわけではなさそうだ。ティオはナイフも使えるのかと感心して頷きながら、ルークはそれを取り出した。

「それじゃ、それを使って私に襲いかかってみて」

「えっ」

 そして、いきなりのその指示に思わずそれを取り落としそうになる。いくら練習とはいえ、本物のナイフ片手に挑めば大怪我をしかねない。一体ティオは何を言い出すのか。

「ああでもその前に――」

 だけど、それからティオが取り出した物にはもっと驚いた。

「――これを使うけどね」

「えっ、あっ! それ……」

 何とそれは神術書だったのだ。持っていた全てを森の中に捨ててきたはずなのに、いつの間に手に入れたのだろう。ルークが視線でそう訴えると、意外にもティオはあっさりそれを教えてくれた。

「実はね、今朝、フローからもらったんだ」

「フローから!?」

 そしてまた驚いた。類は友を呼ぶということなのだろうか。まさか、フローまで神術書を持っていたなんて。

 けれど、それこそどうやってなのだろう。

 誰が持っていようと、検問がいる限り神術書を持ってこの街に入ることなどできないのだ。もちろんあのなおざりな調べ方なら何とか偽装して通れないこともないかもしれないが、そうは言っても見つかれば大罪だ。フローは、そんなリスクを冒してまで神術書を持ち込んだのだろうか。

「秘密の抜け道があるらしいんだ」

 と、そんなルークの疑問に先回りするかのようにティオが答えた。

「かつて坑道だったのか何なのか、街とネブラ山とを繋ぐ通路があるらしくてね、そこから持ち込んだらしい」

「秘密の抜け道……」

 まあ、そういうことなら頷ける。そんなものが帝国に気付かれずにいることが不思議ではあったが、確かにそこを通れば検問も何も関係ないのだ。神術書でも何でも持ち込めるだろう。

 だけど、ティオの言い方には違和感があった。どこか取り繕うような、予めそう答えようと準備をしていたような、そんな雰囲気が。

 これが昨晩話していたことなのだろうか。胸の奥がソワソワする。

「ま、とにかく今は特訓だ。ルーク、一度ナイフを置いてこっちにおいで」

 ルークは頭を振ってそんな不安をかき消して、ティオのもとへと歩み寄った。神術障壁の呪文が聞こえ、身体を生ぬるい水に覆われたような感覚があった。

「これで本当に大丈夫?」

「もちろん。試しに指の先でもつついてみるといい」

 ルークは地面に置いておいたナイフを拾い上げると、その切っ先を指で触ってみる。想像したようなチクリとした刺激はなく、触れることを何かに阻まれたような感覚があった。小屋の前で帝国兵に遅いかかった時と同じ、あの感覚だ。

「ね? 大丈夫だろう?」

 ティオはどこか上機嫌で、手をクイクイと曲げ「かかってこい」とばかりにルークを煽った。それでもルークは向かっていかず、もう一つだけ尋ねる。

「これ、どれくらいもつの?」

「何だ、心配性だな。半日以上はもつから大丈夫だよ。さあ、おいで」

 そうして一つ息を吐くと、今度こそルークは飛びかかった。身長差があるから、両手では急所を狙いづらい。右手で持ったナイフを突き出すようにして、まずは胸を狙った。

 ただ、神術障壁があるとはいえいきなりティオにナイフを向けるのはやっぱり怖くて、その勢いは途中ですぐに失われ、そこを横からはたかれてしまった。切っ先は狙いをそれて、ルークの身体が開く。

「ほら、そんなんじゃ反撃をもらうよ。もう一度だ」

 その言葉に少しだけムッとして、ルークはもう一度切っ先が指に刺さらないことを確かめると、今度は思いきりナイフを突き出した。狙ったのは腹だ。

 だけど、これもまたあっさり払われる。さらには手首を掴まれて捻られてしまった。

「突き出したナイフはすぐに引かないとこうなるよ」

 神術障壁のおかげか関節が痛むところまではいかなかったが、それでもそれを振りほどける程の力は入れられず、ティオに放してもらえるまで動けなかった。

「さ、もう一度」

 その敗北感に、ルークは少しムキになった。気を落ち着けるように長く息を吐くと、ナイフの先まで神経を張り巡らせるように集中し、そうして今度は脚を突いた。すかさずティオは脚を引き、腕を取ろうと手を出してくるが、それはもうわかっていたことだ。ルークはすぐにナイフを引くと、低い位置へ手を伸ばして下がっていたティオの首へ、それを繰り出した。

 今度こそ。そう思えたのも一瞬のこと。

 ティオは身体を逸らしてそれを避けつつ、もう片方の手を伸ばしてきたのだ。必殺の一撃のつもりで伸ばしていた腕はあっさり掴まれ、また拘束されてしまう。

「惜しかったね」

「……っ!」

 そう言ってニヤリと笑うティオに、ルークは何だか嫌になってしまった。

「どうすりゃいいのさ!」

 そうして八つ当たりするようにナイフを地面に叩きつけた。自分から教えを請うたのに、と思えない程バカではなかったが、それでも自分の感情をコントロールするにはまだ幼すぎた。

 そんなルークを見て慌てたのはティオだ。

「ああ、違うんだルーク。からかってるわけじゃないんだ」

 急いでナイフを拾い上げて優しくそれを握らせると、オロオロと解説を始めた。

「つまりね、ナイフだけに頼っていてはダメなんだって実感してほしくて、その、別に君を圧倒して楽しんでいたわけじゃなく……や、えっと、圧倒というか……」

 いつも落ち着いているティオのそんな姿に、ルークは何だか急に申し訳なくなった。途端に自分がとてもかっこ悪く思える。それで、仏頂面ではあったが何とか頭を下げた。

「ごめん……どうすればいいのか、教えて」

「ん、あ、ああ」

 コホンと咳払いをするとティオは何とか落ち着きを取り戻し、もう一度きちんと説明してくれた。

「うん、だから、私が言いたかったのは、ナイフだけに集中しちゃダメだってことなんだ」

「? 相手の動きもよく見ろってこと? でも……」

「ううん、そうじゃなくて、自分の身体のことだよルーク」

 ティオは両手を見せるように持ち上げた。

「例えば、今さっき私は両手を使ってルークの攻撃を防いだよね? だけどルークが使ったのは」

「……ナイフだけ?」

「そう。もっと言えば右手だけだね」

 言いながら、ティオは左手でそれを掴む。それから右手を上げて、

「単純に考えて、ほら、私はまだこっちを使える。どちらが有利かわかるだろう?」

「確かに……」

 ナイフの攻撃力が素手より高いとはいえ、数で言えば二対一。二段構えの防御はそう安々とはくぐり抜けられないかもしれない。理屈ではわかる。でも納得はいかない。

「でも、じゃあナイフを持っている側が不利ってこと?」

「まさか。そんなことはないよ」

 その疑問を、ティオはあっさり否定した。

「君も左手を使えばいいんだよ」

「あ……」

 あまりに単純な答えに、ルークは一瞬呆けてしまう。人間、腕の数は同じなのだ。二対一で不利ならば、こちらも二にすればいいだけのこと。

「ナイフで戦う場合に攻守両方が気をつけなくちゃいけないことは、ナイフだけに集中してしまわないことなんだ」

 自分はさっきそれをしてしまっていたのだと、今更ながらに気付いた。ナイフは先っぽまで集中したけれど、逆に言えばそこ以外にはほとんど気を向けていなかった。

「攻める方は、ナイフだけに集中しても防がれてしまうから他の手も繰り出すこと。守る方は、ナイフだけに集中していたらそれ以外の攻撃を捌けないから注意すること」

 言いながら、ティオは手を伸ばした。

「ちょっと実演してみようと思うんだけど、いいかな?」

 その気遣うような表情に言いたいことを察して、ルークはすぐにナイフを手渡した。自分は特訓で負かされたくらいで怒らない、という意思表示のつもりだった。

「ありがとう」

 ティオは笑顔でナイフを受け取るとそれを構える。

「じゃあルーク、本当はダメなんだけど、ルークはナイフを避けることにだけ集中してて。神術障壁があるし痛くはないから」

「……わかった!」

 そうして、ティオは両手を構えた。ナイフ使いというより、格闘家みたいなポーズだ。ルークは鈍く光るナイフに意識を集中する。

「いくよ」

「うん」

 返事をした瞬間、それが自分の顔目がけて伸びてきた。慌てて首を曲げて避けつつ手でそれを防ぐ。もちろん手加減してくれたのだろうけど、確かにナイフが来るとわかっていれば反応できないこともない。ルークは少し余裕を感じて、伸びてくるであろうティオの左手に視線を向けた。

 だけど、一向にそれが伸びてくる気配はない。そして。

「うわっ!」

 次の瞬間ルークの身体は宙に浮き、気付けばその場ですっ転んでいた。足払いをかけられたのだ。

「どう? 反応できた?」

 起きるのを手伝うよう手を伸ばしながらティオが問う。ルークはそれに、素直に感心しながら首を振った。

「そっか。手だけじゃなくて、足もあるんだ」

「そう。ナイフは剣術じゃなくて格闘術だから、基本は殴る蹴るだね」

 どうやらルークが「格闘家みたい」だと感じたのは正しかったらしい。それが少しだけ嬉しかった。

「でも、それじゃナイフは何に使うの? あってもなくても同じじゃない?」

「ううん、大違いさ」

 ティオはナイフをルークに返しながら答えた。

「例えば、相手が戦闘に不慣れならそれで注意を引けるだろう? 誰でも本能的にナイフは怖いからね。そういう訓練をしていないと、どうしたってナイフに意識は集中してしまう」

 それから、今度は横に手を伸ばしながら言う。

「もう一つは、リーチが伸びるってことかな。ナイフが道具ではなく身体の一部だと思えば、その分有利なのはよくわかるだろう?」

「ああ、そっかあ」

 ルークはもう感心して頷きっぱなしだった。何だか、これを聞いただけで自分が格段に強くなったような錯覚があった。これを聞かずに拗ねていたさっきの自分がますますバカらしくなってくる。

「でも」

 と、それでもやっぱり気になることはあった。

「相手が神術を使えたら、ナイフなんて効かないんだよね……?」

 小屋での戦闘を思い出したのだ。あの時は不意討ちに不意討ちを重ね、敵の急所にナイフを二度も突き立てた。今の組手でそれができていたら大勝利だっただろう。だけど、現実にはそんなもの効果がなかったのだ。それに気付いてしまった途端、大きくなっていた気が急速に萎んでいく。

 だけど、ティオは首を横に振った。

「前に、神術障壁は神術障壁で打ち消せるっていう話はしたよね?」

「あ、そういえば……」

 神術障壁も万能ではなく、同じく神術障壁を纏った武器に攻撃されれば簡単に通る。そういう話だった。つまりはこちらもナイフに神術障壁をかければいいということ。

「それ以外にもう一つ、神術障壁には弱点があるんだ」

「弱点?」

 ルークは首をひねった。神術障壁は、隙間なく身体を覆える上に動きにも制限がかからない鎧みたいなものなのだ。そんなものの弱点なんて、思いつきもしなかった。

「そんなもの、あるの?」

「軽さだよ」

 言って、ティオはルークの足を指さす。

「今実際にやってみただろう? 神術障壁に重さはないから、その分投げられたり関節をきめられたりには弱いんだ」

「あ……」

 ルークはハッとした。例えナイフに神術障壁をかけられなくとも、全くの無力ということにはならない。だって今まさに、自分はただのナイフを持っただけのティオに無力化されていたではないか。そんな当たり前のことに、この時になってようやく気付いたのだ。

「ましてや相手が女なら」

「……イヴ・ナイトメアなら」

 忘れもしない、あの神官なら。

「ルークが足払いでもかければ簡単にすっ転ぶだろうね」

 そんな場面を想像してみる。子供だと舐めきった態度のイヴにナイフを突き出し、それを避けようとしたところに足払いを引っ掛けて。

 何が起きたかもわからずに、間抜け面のまますっ転ぶイヴ。それは、とても胸がスッとする光景のように思われた。

「ね? 特訓にもきちんと意味があっただろう?」

「……うん!」

 ルークは笑った。自分にもできることがある。そう思うことができた。

「ねえ、もっと教えてよ!」

「ん、そうだね。じゃあ、ナイフを使った投げ技なんかも少し……」

 たとえそれが、勘違いだったとしても。




「たっだいまー!」

 フローは昼過ぎに帰ってきた。ルークは寝不足に加えて特訓の疲れもありウトウトとしていたが、彼女の気配には敏感に反応した。かけていた椅子を蹴飛ばして立ち上がり、寝室へと逃げる。

「逃がすかッ!」

 しかし、予想以上にフローは素早かった。ルークがドアを閉める寸前でそこに足をねじ込み、無理矢理にドアを開けようとしてくる。

「ルークちゅわ~ん、とぅあだいむぁ~~」

「ぐっ……」

 ティオは助けに来ない。むしろ微笑ましそうにこちらを見ていた。これが彼女なりの親交の深め方だと知っているのだ。そしてもちろん、ルークにだってそれはわかっていた。やり方に多少の問題はあれど、自分が緊張しないようにと気を遣ってくれているのは伝わってきたし、邪険にされるよりはずっといい。

 だけど男のプライドとして、好き勝手いじくり回されるわけにはいかないのだ。

「わっ!」

 ドアノブをパッと離すと、突然開いたドアにフローがバランスを崩した。その隙に脇をすり抜けて、近くにあった別のドアへ駆ける。

「あ、そっちは――」

 フローの慌てた声が聞こえたが、ルークは止まらなかった。細い廊下を進んで、再びドアをくぐる。後ろ手に勢いよくドアを閉めてほっと一息。

「……え」

 そして、驚きのあまり目を見開いた。

 ルークが飛び込んだのは、寝室と居間を合わせたくらいの大きさの、薄暗い部屋だった。窓はついているが、カーテンに覆われているのだ。そして、その部屋に山と積まれているそれはどう見ても――

「――しんじゅ」

「ただの本よ」

「えっ!?」

「ほとんどはね」

 突然の声に振り向けば、そこにはフローが立っていた。本の山に見とれて、ドアを押さえておくのを忘れていた。

「あ、あ……」

「ふっふっふ、もう逃げられないわよ?」

「うっ、うわあああああああ!!」

 そうして結局、ルークはフローの気が済むまで揉みくちゃにされたのだった。


「……満足した?」

「んー、もうちょっと」

 またもやフローの膝に乗せられて、今度は頬ずりまでされて、ルークは不貞腐れたように口を尖らせた。フローの腕が腹の前で交差されていて抜け出せそうにない。もう抵抗は無意味だった。

「で、この本は何なの?」

 それならばと、自分の敗因となったこの本の用途くらいは知りたくてルークは尋ねる。

「んふー、気になる? 知りたい?」

「……やっぱいいです」

「あはー、そう拗ねないで? これはね、私の作った商品達よ」

「商品って?」

「私、写本師やってるのよ」

 フローはそう言って、得意気にルークの顔を覗きこむ。

「どう? すごい? すごいっ!?」

「いや、仕事とかよく知らないしわからないんだけど……」

「うんまあ別にそれほどすごくもないのよ」

「ああ、そうなんだ……」

 何だか疲れる会話だった。おそらくおどけたその口調も仲よくするためのものなのだろうとは思ったが、ルークは呆れてため息をつく。これほどまでに子供っぽい年上を、彼は見たことがなかった。でも、写本ができるということは読み書きはできるのだろう。口に出して認めはしなかったが、それについては素直にすごいと思った。

「教会のお手伝いだから、報酬の方も質素倹約みたいだしね」

「これ、教会の本なの?」

「そりゃそうよ。本と言ったら教会だもの。写本だって本当はあいつらの仕事。でも、戦争で若い奴らはみーんな神術師にするーってんで王都に引っ張られてって、人手不足なんですって」

「ふうん。修道士が神術師になるんだ」

「神の力を使うには、神の教えを熟知したものでなければいけないんですって。へへぇ、御大層なことですわねー」

 フローの口ぶりは、まるで帝国を馬鹿にしているようだった。ルークには、それが少しだけ嬉しい。何だかそれだけで、フローは味方なのだと信じることができた。

「この本とかひどいわよ~? 何でもケテル帝国初代皇帝は雨雲を割り嵐を沈め、天使に連れられて天から下りてきたんですって! うひー! 確かめようがないからって、いくら何でもこれはひどいわよねぇ!?」

「あはは」

 そうして彼女の話を聞いていると、何だか昔を思い出した。眠れない時、ルークの母もこうやって彼を抱いて色んな話をしてくれたのだ。それは父の話だったり、作り話だったり――魔女の話だったり。

 彼女の話では、魔女はいつも正義の味方だった。まだ幼い魔女が悪の存在に気付き、戦士である弟と共にそれを討ち倒すべく立ち上がるのだ。ついぞ結末まで聞くことはできなかったが、ルークはその話が大好きだった。

 でも多分、そのせいで母さん達は殺された。

 ルークの中で、怒りの炎が静かに燃え始める。彼にとっての悪とは、イヴ・ナイトメアだった。

 物語の中の姉弟きょうだいに代わって、自分は絶対にそれを討ち倒さねばならない。

 彼は、そう決意を新たにした。

「ねえ、聞いてる?」

「え? あ、ああ、うん」

 と、その時フローに顔を覗きこまれ、ルークは我に返った。どうやら相槌を打つのも忘れて考えこんでしまったらしい。取り繕うように慌てて首を振って、話題を変えた。

「ところで、ほとんどはただの本って言ってたけど、じゃあ他の本はやっぱり……」

「あ! そうそうそうよ、大事なのはその話よ!」

 それで上手く誤魔化せたようで、フローは思い出したように手を打った。

「ここは私の仕事場なのはもちろんだけど、神術書を隠してる部屋でもあるの。だから、ルークちゃんは立ち入り禁止ねっ!」

 木の葉を隠すなら森の中、ということか。ルークが最初に思った通り、ここにある本の山の中には神術書も紛れ込んでいるらしい。そこまではよかった。だけど、後半はいただけない。

「何で神術書があったら入っちゃいけないのさ?」

 ルークは神術書を触ってみたかった。実物を何度も目にしたにも関わらず、未だに触ったことはなかったのだ。ティオと一緒にいる時は彼女が肌身離さず持っていたし、さすがに荷物を漁るのは気が引けた。遠慮していたのもある。

 だけど、それが部屋で、相手がこのフローなら話は別だ。この部屋で本の山を目にした時から、ルークはそう考えていたのだ。でも、フローは首を振る。

「ダメなものはダメよ!」

「だから何でさ!」

「そりゃ、だって、危ないからよ! 暴発でもしたらどうするの?」

「え、神術って暴発するの?」

 ルークの問いに、フローはぎこちなく頷く。

「そ、そうよ? 下手に触ったら、どかん! よ?」

「……呪文を知らなくても?」

「知らなくても、よ?」

「え、えぇ……?」

 その答えに釈然とはしなかったが、しかしそう言われてしまっては仕方ない。匿ってもらっている身で神術を暴発させ、部屋を吹き飛ばすようなことになればフローまで巻き添えを食う。それだけは避けねばならない。ルークは渋々了承した。

「……うん、じゃあ、わかった。勝手に入ってごめんなさい」

 その答えに、背後のフローがほっと脱力したのがわかった。

「ああ、いえ、私も最初に言っておけばよかったのよね。不便をかけてごめんなさい。さ、戻りましょう。お土産に、リンゴのはちみつ漬けを買ってきたの。ティオが涎垂らして待ってるわ」

「リンゴのはちみつ漬け!?」

 フローの膝からようやく解放されて、ルークは勢いよく立ち上がる。そうして、フローを急かすようにドアへと駆け寄った。リンゴのはちみつ漬けなどと魅力的な言葉を聞いて、我慢できるわけがない。

「随分仲よくなれたみたいだね」

 居間に戻ると、ティオが笑顔で迎えてくれた。急ぐルークに手を引かれていたフローも、それに笑って答える。

「ええ、とっても」

「ねえ、そんなことより早く、リンゴのはちみつ漬けは!?」

 そうしてルークの言葉に二人は顔を見合わせ、可笑しそうに声を上げて笑ったのだった。

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