第3章
森を抜け、人目がないことを確かめると二人は街道に出た。マルクトの街へと続く道だ。遠くの方に大きなネブラ山と、そこから流れこむ川の作る綺麗な湖が見える。水の都マルクトの誇る、シレンティウム湖。これが見えたら、街はもうすぐそこだ。
「すごい! 大きな湖だね!」
一晩寝ると、ルークはすっかり元気になった。今日はティオにおぶわれることもなく、足場の悪い森の中を自分の足で歩いてきた。自身の復調に自分でも驚いていたが、昨日たくさん迷惑かけた分を取り返すには元気であるに越したことはない。ルークは深く考えることなく、自分の身体に感謝した。
「マルクトの街も大きいけれど、それが三つは入るだろうね」
一方ティオの足取りは何故か昨日よりも重く感じられた。昨晩あまり眠れなかったのだろうか。
森の中に神術書を捨て、荷物は減ったはずなのに。
彼女が神術書を捨てようとした時、当然ルークは反対した。彼にとっては神術書こそが、仇であるイヴを倒す切り札だったからだ。しかし、街に入るには検問を通らなければならないこと、心配しなくとも神術書はすぐまた手に入ることを説かれ渋々納得したのだった。
「でもやっぱり勿体無いよなあ。あんなにたくさん……」
「そうは言ってもね」
「だってまだ使ってないのもあったよ! 使わずに捨てるなら何のために持ってきたのさ」
「小屋に置いてくるわけにもいかないだろう? あんなもの、持ってるだけで大罪だ」
「今更それを気にしてもなあ」
「罪が重くなればそれだけ追手も多くなるよ。復讐のために動くにしても、追手は少ない方がいいだろう? まずは身の安全の確保だ。神術のことはもちろん、あの二人も行方不明で済んでくれればいいんだけどね」
ティオの言うことはいちいち正しかった。そんな正しさ、幼いルークにはどうしようもない。捨ててきた神術書に今度こそ踏ん切りをつけて、しかしどうしても一つだけ疑問でルークは口を開いた。
「でもさ、どうやってまた神術書を手に入れるの?」
ティオが神術書を持っていた理由はまだわかる。きっと帝国軍を抜ける時にくすねてきたのだろう。大した度胸だ、とは思うが、元神術師であるのならそれほど不思議なことではない。だけど、いつでもすぐにそれを手にすることができるかのような口ぶりは一体どうしてなのだろうか。
「それはまた、追々ね」
だけどティオは、その質問を笑って受け流した。ルークは少しムッとしたが、まあ彼女がそう言うのならばと大人しく引き下がった。共闘することを約束したとはいえ、二人はまだ昨日出会ったばかりだ。そんな相手にいきなり何でもかんでも話すわけにはいかないのだろう。
そう自分に言い聞かせ、ルークは路傍の小石を蹴り飛ばした。
程なくして、二人は街に到着した。
ルークは内心かなりヒヤヒヤしたが、検問は驚く程あっさりと通れてしまった。簡単な荷物検査を受け、街に来た理由を答えただけだ。もちろんその理由はでっち上げだったけれど、ティオの「巡礼の途中です」という言葉を相手は簡単に信用してくれた。
「治安がいいからね。相当妖しくない限りはこんなものだよ」
「それならやっぱり荷物を捨ててくる必要なかったんじゃないの?」
「まだ言うか」
緊張が解け、二人は軽口を交わしながら門をくぐり抜ける。
マルクトの街は活気に満ちていた。
広場へと続く大通りのあちこちに出店が立ち、中央に築かれた噴水の周りではそれが尚更に多く、人だかりができていた。
道の側溝にはシレンティウム湖から引いた水が流れ、街全体が清潔に保たれている。ティオが言うには、こういった街の整備も神術によって行われたらしい。それ故、かつては王国として栄えたマルクトにも、帝国の支配下に入ったことを喜ぶ人は少なくないとか。
さて、目指すはティオの友人宅だ。
「少し歩くよ。はぐれないように、ほら」
「えっ、うん……」
当然のように差し出された手を握る。確かに広場は多くの人で賑わっていたが、そこを抜ければ人波にのまれる心配もない。仲の良い姉弟だとでも思われているのだろうか、道行く人が自分達に微笑みを向けるのが照れくさく、ルークはほとんど顔を上げられずに歩いた。
ティオは慣れた様子で街を進んでいく。迷路みたいに建ち並ぶ建物の間を右へ左へ、迷うことなく歩いて行く。きっと、何度も来たことがあるのだろう。
友人宅を訪ねるのはもちろん、そういえばティオは村には全く顔を出さなかったから、もしかしたら日用品の買い物なんかにもこの街を使っていたのかもしれない。
では何故、村ではなくわざわざ遠いマルクトまで来ていたのか。
全てはきっと、神術書の存在を悟られぬためなのだろう、とルークは考えた。
簡単に行き来できる場所に住む人間と懇意になって、あの小屋を訪ねられでもしたら。
何かの拍子に神術書が見つかってしまう、そんなリスクを避けたかったのだろう、と。
神力が消耗する一方であるという昨日の話もあり、ルークはしみじみ思った。
絶大な力であることは確かだけど、神術もなかなか大変なんだな、と――
「――うわっ!」
そんな思考を遮るようにカラスが鋭く一声啼いて目の前を横切った。カラスは近くの家の屋根に一度止まると、尻もちをついたルークをあざ笑うようにもう一度啼いて飛び去っていく。そんな様子を、ティオが喉を鳴らして笑う。
「……笑わないでよ」
「いや、ごめんごめん。でも、ちょうど着いたよ」
「えっ、本当?」
立ち上がってティオの示す方へ視線を向ければ、そこには古ぼけた三階建ての建物が立っていた。壁はひび割れ、何となく傾いているような気さえする。さっきの奴の仲間か、屋根からは数匹のカラスがこちらを見下ろしているのがまた不気味で、華やかな街の中にあって何だか浮いてしまっていた。
「ここに、住んでるの?」
「そうだよ」
まるで幽霊屋敷だ。ルークの表情が少し硬いのも仕方がない。これだけ栄えた街にこんな場所があるなんて、思いもしなかったのだ。
しかし、ティオは気にした様子もなく再び手を伸ばす。
「さあ、こっちだ。霧の出てる内に入るよ」
「え、霧?」
言われて見回せば、いつの間にか辺りは濃い霧に包まれている。本当に、いつの間にかだ。考え事をしていたとはいえ、手を引かれて歩いていたさっきまではそんなことなかったはずなのに。でも、一応自分達は大罪人なのだ。姿を隠してくれるこの霧は好都合だった。ルークはティオに手を引かれて玄関をくぐった。
建物の中は少し埃っぽい臭いがした。玄関から最上階までが吹き抜けになっていて、それを螺旋状に木造の階段が這っている。各階にはドアが二つずつあって、どうやらそれぞれの向こうが居住スペースになっているようだ。
要するに、ここは貸家だった。おそらく家賃はとんでもなく安い。
「一番上まで上るよ」
しかも最上階だった。階段を多く上らなくてはいけない分、家賃はもっと下がる。
こんなところに住む友人とやらは一体どんな人間なのか。ティオのことを信用していないわけではないが、その得体の知れなさにルークは自然と警戒を強めた。
やがて長い階段を上り終え、ようやく二人は最上階にたどり着く。他の階と違って、ここには一つしかドアがない。つまりはここが友人の部屋なのだろう。
「気をつけてね」
「え?」
言葉の真意を問いただす前に、ティオはドアをノックした。
しかし、それは二回目を鳴らす直前に遮られる。
「ティーーーーーーーオォーーーーーーーーーーーッ!!」
突如として、蹴破らんばかりの勢いでドアが開かれたからだ。当然ドアの前に立っていたティオにはドアが直撃し、後ろの手すりに突き飛ばされた。危うく落ちるところだ。ティオはミシミシと軋む手すりを突っ張り何とか体勢を立て直そうとするが、今度はそこに誰かがタックルみたいな勢いで飛びついてくる。
「ああん、ティオ久しぶりじゃないっ!? 久しぶりじゃないっ!! 何してたのよ私をほったらかしにして!! 寂しかったんだからあーーーーーんっ!!」
どうやら、それがティオの友人らしかった。
「君は私を殺す気か」
「んまさかっ!! 私がそんなことするわけないじゃないっ!? あっでもー、貴女を殺して私も死ぬっ!! みたいな!? みたいなーっ!!」
「愛が、重いよ……」
ルークは唖然として何も言えなかった。警戒していた相手がまさかこんなだとは、さすがに予想していなかった。
年はティオと同じか、あるいはもう少し上か。胸まで伸ばした亜麻色の髪と優しげな目許、通った鼻筋などがおそらくは落ち着いた美人であることを教えてくれる。しかしその表情が今はデレデレとだらしない笑みを浮かべていて、ティオの唇にキスをしようと近づけたおちょぼ口は、それを阻止すべく突っ張られた頬と相まって何とも言えない間抜けさを醸し出している。
盛りのついた獣みたいな人。それが彼女の第一印象だった。
「それでっ!?」
そしてその飢えた目が、今度はルークに向けられる。グリンとすごい勢いで自分の方を向いた顔に、だらしない笑みを浮かべているはずのその顔に、何故だかルークは恐怖を覚えた。
「ひっ――」
悲鳴を上げた時にはもう遅い。一瞬で跳躍した影が視界を覆ったかと思うと、次の瞬間にはもう身動きが取れなかった。
「この可愛い坊やはどちら様かしらぁーーっ!?」
抱きしめられ、ワシャワシャと頭や背中を撫で回されながらも必死にもがいたが、抜けだそうとする度に先回りした彼女の手に引き戻される。助けてくれとばかりに視線を投げても、ティオは困ったように笑うだけだった。彼女にもどうしようもないのだろう。
「キィーーっ!! 私からティオを奪う気ねっ!? 私のティオを奪う気ねっ!! ん憎ったらしいっ!! ああっ、なのに、それなのにっ!! 何でこんなに可愛いのっ!? んまーっ!! ねえ坊やいくつ!? お名前言えるっ!?」
すぐに抵抗の無駄を悟り、されるがままになった。この上なく鬱陶しいが、体格差がある以上仕方ない。そうして髪はクシャクシャ服はよれよれになりながら、とりあえず質問には答えておこうとルークはため息を吐き出した。
「ルーク・ロッドウェルだよ」
「え……?」
しかしその瞬間、彼を撫で回していた手は突然動きを止めた。そして驚いたような顔で覗きこんでくる。
「ルーク……ロッドウェル……?」
「? そう、だけど……?」
その態度の変わりように、ルークは訝しげな視線を返す。自分を見つめる瞳には動揺の色が見て取れた。だけど、それも一瞬のこと。
「あ、ああ、別人ね。ごめんなさい。知り合いの名前に似てたから勘違いしちゃったわ」
どうやら人違いらしかった。そうしてまた元の表情に戻ったかと思うと、解放されてほっと一息ついたのも束の間、また両手を広げて襲い掛かってくる。
「うわ――もがっ!? もがががっ!?」
しかし、今度は揉みくちゃにされるわけではなく、正面から固く抱きしめられてしまった。身動きが取れず、息もできず。そんな状態で、ティオの友人から自己紹介を返された。
「私はフロー・エインズワース。ティオの友達よ」
それから一段と強く、抱きしめる手に力がこもった。フローの鼓動の音が聞こえる。その温かさに、何だか落ち着かない気持ちになる。ティオとフローで、何がこうも違うのか。
「大変だったでしょう」
労いの言葉をかけられても口を塞がれたルークには答えようがなかった。代わりにティオがため息をつく。
「そう思うなら、そろそろ放してあげてくれないか。窒息してしまうよ」
「あっ、ああ! 私ったら、ごめんなさいルークちゃん」
「助かった……」
ティオのおかげで何とか解放してはもらえたが酸欠で目眩がする。埃っぽい空気を、それでも肺いっぱいに吸い込みながら、ルークはフローへの警戒レベルを数段引き上げるのだった。
部屋の中へ招かれた彼らは、まずことの詳細を話した。フローはルークが予想していた程の驚きは見せずに黙ってそれを聞き終えると、おもむろに口を開いた。
「それで、これからどうするつもりなの?」
「帝国の動き次第だが、この街で旅の準備を整えたら一度北へ逃れようと思う」
「国を出るのね」
「ああ。真っ向から立ち向かっても勝ち目はないからね。身を隠し、機を待つよ」
「相手が帝国なら、後ろから飛びかかっても勝ち目なんてなさそうだけれど」
「敵は帝国じゃないよ。イヴ・ナイトメア一人だ」
「ああ……あいついっそ南の前線にでも行ってポックリ逝ってくれればいいのにね」
「それじゃ復讐にならないよ」
「とはいえ、神術書もないんじゃねえ」
「ん、その件についてはまた後で」
ルークは口を挟めなかった。どうやらすぐに復讐をするというわけにはいかないらしいことに、少しばかりの不満は覚えたが、とてもそんなことを言える雰囲気ではなかった。
そして、自分をおいて交わされるそんなやり取りを、ルークはフローの膝の上で聞いていた。結局、どれほど警戒レベルを上げたところで彼女の魔手からは逃れられなかったのだ。ルークはもはや諦めて、それでも精一杯ムスッとした顔を作りながら話に耳を澄ませることしかできなかった。
ティオがちゃんと復讐を手伝うつもりで話を進めてくれている。
とにかく今はそのことに満足して、彼は話の終着点を待った。
「ま、しばらくはうちにいるってことね!」
そうして、さしあたりはここで匿ってもらえるということで決着したらしい。ルークの頭を撫でながらフローが嬉しそうな声を上げだ。
「フローには迷惑をかけてしまうけれど」
「本当にね! 巻き込まれたら恨むわよ」
「う……」
「とはいえ、敵もすぐには動かないでしょう。それに私には天の目もあるし、何か街に変化があれば」
「天の目?」
と、知らない単語が出てきてルークは思わず口を挟んだ。フローは頭を撫でていた手を止めて、「あー」と何やら考える。そんな彼女の代わりに、質問に答えてくれたのはティオだった。
「ほら、ここは最上階だろう」
「え? うん」
「だからほら、上から見下ろせるだろう?」
「ふうん……? えっ、もしかしてそれだけ?」
「何よ、文句ある?」
不満気なフローに、ルークは慌てて首を振った。要するに、高いところに住んでいる分遠くまで見えるから街の変化にもすぐ気づける、ということなのだろう。でもそれを自分で「天の目」だなんて。正直、ちょっと格好つけが過ぎる。
何にせよ、もし自分達に追手がかかったとしても、ここにいることを知られる前に自分達が逃げ出してしまえばフローにもそれほど迷惑はかからないということだろう。最悪自分達を匿っていたことがバレたとしても、ティオとフローは友人なのだ。神術書のことや帝国兵殺しのことは知らなかったフリをすれば罪は免れるかもしれない。
さりとて、自分達がここにいることを知られないに越したことはないのだ。ティオと目が合うと、彼女は肩をすくめてみせた。
「ま、私とルークは当分ここに缶詰だな」
「そんなあ」
「そうしてもらわないと私も気が気じゃないしねえ」
ルークは部屋を見回した。外観からは想像できない程に片付いてはいるが、広くはなく、部屋数も少ない。一日中ジッとしていたらカビが生えてきそうだ。
「まあ大丈夫よ。ここ、私以外には誰も住んでないし、霧が出てれば中庭にくらいは出られるわ」
逃亡生活は辛いもの。そう覚悟はしていたが、何だか想像していたよりずっと地味な辛さだ。
明日からのことを思うと、自然とため息が出た。
「――っ!?」
その夜、ベッドの上でルークは目を覚ました。心臓は早鐘のように打っていて、身体はどっさり汗をかいていた。毎晩見る悪夢のせいだ。
それでもティオと一緒だった昨日はそれほどでもなかったはずなのに。
そう思って横を見て、床で寝ているはずの二人がいないことに気付いた。夕食後、三人で一緒に床についたはずなのに。不安を感じて顔を上げれば、居間の方から明かりが漏れていた。
二人はそこにいるのだろうか。ルークは引き寄せられるように戸へ近づいていく。
「彼女――は――――だったわね」
そして、聞こえてきたフローの声に足を止めた。自分が寝た後で部屋を抜けだした二人に、その声色に、自分には聞かせたくない話なのだとすぐにわかった。
「――私の――だ」
「違――。悪――はあいつ――――たじゃない」
「でも――なければ――」
「怒るわよ――慰――しいの?」
二人はボソボソと話していて、その内容は上手く聞き取れない。ルークは必死で耳をそばだてた。
「あなた――うと勝手――――たら――あの子――って――なさい」
「もちろん――けど――な予感がするんだ」
「――が関わって――から?」
「…………」
フローの質問に、ティオが押し黙る。
一体彼女が何を聞いたのかはよくわからなかったが、フローはそれを肯定と受け取ったらしい。
「大丈夫よ――から――――ってると――てるの」
「――けど」
「安――きない?」
「――」
「――れで出口を――に?」
「お願――いかな」
「――いいけど」
「いざと――は――頼む」
そして、話はそれで終わりらしかった。二人がしばらく黙った後で、椅子を引く音がする。ルークは慌ててベッドに戻った。
戸の開く音がして、二人分の気配が入ってくる。
「……ルーク?」
ティオの声がして、心臓が跳ねた。それでもじっと動かずに寝ているフリを続ける。やがてティオの横になる気配があって、ルークは小さく息を吐いた。
明かりが消え、完全な暗闇が戻ってくる。
そうして落ち着くと、今度は頭の中を疑問が渦巻いていく。
二人は何を話していたのか。
自分に聞かせたくなかったこととは何だったのか。
確かに昨日今日会ったばかりの間柄だ。自分には聞かせられない話の一つや二つ、あるのかもしれない。あるいは、自分に気を遣って聞かせなかったのかもしれない。それはまだ自分が知るべきことではないと、二人がそう判断したために秘密にしてくれたのかもしれない。
二人は自分に優しくしてくれている。特にティオは、孤独だった自分を救い、助け、導いてくれた。彼女がいなければ、自分はきっと孤独と絶望の中で死んでいただろう。
今はそれでいいではないか。それで満足するべきではないか。
だけど、どんなにそう言い聞かせても妙な胸騒ぎが治まらなかった。
自分は、自分にとって大事な何かを知らずにいる――知らされずにいる。
そんな気がした。
二人が寝入った後も、ルークはなかなか寝付けなかった