第2章
心地良い揺れと温かさの中で、ルークはぼんやりと目を覚ました。
景色が動いている。木々が前から後ろへ流れていく。それをぼうっと目で追って、やがてルークは自分が森の中を進んでいるようだと知った。だけど、足は動かしていない。
「起きた?」
そう声をかけられて、ルークはようやくおぶわれていることに気付いた。
「ッ……!」
その背中を踏み台にして、ルークは後方へと飛び降りる。着地は上手くいかなかったがそれでもすぐに起き上がり、反動で前へとつんのめった相手を威嚇すべく持っているはずのナイフを探した。だけど、それが見つからない。ポケットにもベルトにも、靴の中にもない。そうして身体中をまさぐっていると、目の前に探していたナイフの柄が差し出された。
「ナイフならここだよ」
顔を上げればそこにいたのは、もちろん自分をおぶっていた相手、フードの男だった。やけに大荷物だ。ルークはナイフを受け取るともう一歩後ろへ跳び、切っ先を男に向けて構えた。男はやや微笑みながら、戦う意志はないとばかりに両手を上げる。
「ここはどこだ」
「村へ続く森の中だよ」
その口調は小屋の前での時よりもずっと優しく、慈愛すら感じられるものだった。ルークは少しだけ戸惑ってしまう。
「目的は、何だ」
「君を家に送り届けることさ」
「家、に……」
言われて、ルークは自分の帰るべき家を思い浮かべる。暗くて寒い、自分の家を。帝国の兵士達に荒らされたままの部屋は、一人ではとても片付ける気になれなかった。
そして今日、自分はあそこを過去の場所として捨ててきたのだ。温かく笑顔に満ちていたあの場所はもうない。送ると言われたって、帰るつもりなどなかった。
そんなルークの様子をどう勘違いしたのか、フードの男は言葉を重ねた。
「今日のことは忘れなさい。遣いが戻って来ないとなればいずれは追手がかかるだろうが、今日あの場所に君がいたことを知るのはもう私だけだ。君は何も知らないフリをして、今まで通りに暮らせばいい」
そうして、ルークは男が雲隠れするつもりなのだと悟った。
神術書所持の疑いがある男のもとへ出した遣いが戻らない。そんなことが起きて、帝国が放置するわけない。
だからこの男は逃げるのだ。
自分を送った後はもうあの小屋へ戻らずに、帝国の目が届かないどこか遠くへ向かう。そうしてほとぼりが冷めるのを待つのだろう。村まで行くだけにしては荷物が多過ぎるわけだ。
帝国に見つけられない場所に行かれて、ルークに見つけられるわけがない。
つまり、ここを逃せばもうチャンスはないということ。
「……どういうつもりだい?」
男の表情が曇った。ルークがナイフを向けたまま、一歩にじり寄ったからだ。指が白くなるほど力いっぱいにナイフを握りしめ、ルークは震える声で言った。
「神術書を置いていけ。さもなければ……殺すッ……!」
二人の帝国兵は死んだが、仇はまだ残っている。そいつを殺すためにはどうしても神術書が必要だった。自分を助けてくれた相手とはいえ、ここは譲れない。
男は動かなかった。ただ、静かに問う。
「神術書を使って何をする」
「……復讐だ」
「……母親が殺されたと言っていたね」
「そうだ。その仇を取るんだ」
「……他に家族は」
「姉さんも殺された! 僕にはもう帰る場所なんてないんだッ!」
ルークがそう叫ぶと、男は言葉に詰まった。そして顔を伏せる。やがて上げられたそれは、ひどく悲しそうな表情をしていた。
「何があった」
同情しているにしてはいき過ぎたその声に、ルークは戸惑った。こんな問答は無駄だ、神術書を使われる前に襲いかかるべきだと、頭ではわかっている。だけど、どうしてか。素性も知らぬこの男相手に、ルークは気付けばあの日のことを話してしまっていた。
それはいつも通りの朝――そのはずだった。
朝食の準備をしていると、突然に家のドアが叩かれた。ルークの母がそれを開けると、そこには一人の神官と何人かの神術師、それを取り囲むように兵士達が立っていた。
一目で何かよくないことが起きるとわかった。
そして、神官は怪しい笑みをたたえたまま言ったのだ。
「お前達に、魔女の疑いがかけられている」
その後のことはよく覚えていない。
母と姉が自分を庇ってくれたこと。二人が無理矢理広場へ連れて行かれたこと、形だけの裁判が行われ、全く理不尽に母と姉は魔女だと判決が下ったこと、そして二人が焼き殺されたこと。とにかく、それが全てだった。
「母さん達はいつも魔女に同情的だった。きっと、それで……」
話し終えても、フードの男はしばらく押し黙ったままだった。再び顔は伏せられていて、その表情は見えない。やがて、一つだけルークに尋ねた。
「その神官の名は」
その問いに、即答する。
「イヴ・ナイトメア……!」
忘れるわけがない、憎き仇の名だ。
もちろん帝国それ自体も憎い。だけど、直接の仇はその女だ。裁判での審問官も、火刑での刑吏も、神官であるイヴの役目だったからだ。
だからルークは、彼女を殺そうと思ったのだ。
彼女が母と姉にしたように、ルークも彼女を焼き殺してやろうと思ったのだ。
神術による、「浄化の炎」とやらで。
「……死ぬよ」
フードの男は言う。
「私の持っている神術書を手にしたところで、相手のはその百倍、いや、千倍の力を持っている。立ち向かったところで、君は復讐を遂げられぬまま死ぬだけだ」
「…………さい」
「事実、君は神術師でも何でもない、ただの一兵士に過ぎない男にすら殺されそうだったじゃないか。悪いことは言わない。復讐の方法ではなく、一人でも生きていく術を」
「うるさいッ!」
だけど、そんなことは関係なかった。こんな憎しみを、悲しみを抱えたまま生きるなんて、死んでいるのと同じだった。ルークは腕を振って叫ぶ。
「死ぬのが何だッ! それでも僕はッ! あいつを、あの女を討つッ!!」
フードの中の青い瞳を下から睨みつけた。吸い込まれそうな程の綺麗な色に自分の濁った思考を否定されるようで、必死に睨み続けた。
男は、また押し黙った。その表情からは思考が読み取れない。しかし、ルークがその瞬きを数えて四度目にとうとう口を開いた。
「死ぬな」
再び自分の意志を否定されたように感じてルークは言い返そうとしたが、その上から男は言葉を重ねた。
「死ぬなんて言うな。死んでもいいなんて思うな」
しばし睨み合う。だが、やがて男は不敵に笑った。
「どうせ復讐をするのなら、生きて仇の骸を笑ってみせろ」
ルークは驚いた。敵と自分の戦力差を説き、絶望的だとしていた男が何を言うのか。だが、男はあくまでも笑みを浮かべたままに続けた。
「私と一緒なら、それができる」
そして右手が差し出された。
「どうせ帝国に追われる身だ。私でよければ君の復讐に協力するよ」
ルークはその手を呆然と見つめた。白く綺麗な手だった。
この手を取れと言うのか。母と姉を奪われ、村人には煙たがられ、復讐に生きようとしていた自分に、まさか手を差し伸べる者がいようとは。
「……お前は何者だ」
「私かい? 私は……」
男はわずかに言いよどんだ。
「……、かつて帝国の神術師だった者さ」
「帝国のッ!!」
「かつてのさ! 今はもう違う。帝国の方針に逆らって追われた身だ」
帝国という言葉で反射的にナイフを構えたルークを、男は両手で制止する。ルークもそれ以上は動かなかった。
「いわば帝国の敵だよ。どうかな、君の助けになれると思うけれど」
構えたナイフはそのままに、ルークはしばし押し黙る。この男を信用していいのか、すぐには判断できなかったのだ。だけど、
――生きて仇の骸を笑ってみせろ。
その言葉をルークはとても気に入った。死しか見えていなかった彼にとって、例えどんなに醜くとも、それは希望に思えたのだ。
この手を取れば、この男の助けを借りれば、自分はこの絶望から這い上がることができる。そんな気がした。
だから、男の青い瞳にルークはニヤリと笑ってみせたのだ。
「ルーク・ロッドウェルだ」
その笑顔は、もしかすれば狂気をはらんでいたかもしれない。暗い希望に取り憑かれた狂信者の笑みだったかもしれない。
だけどルークはこの時、母と姉を失ってから初めて笑ったのだった。
伸ばした傷だらけの小さな手を、男の手は優しく握ってくれる。
「私は、ティオ・ボウヤー」
「…………え?」
そしてルークは間抜けな声を上げた。
自分が名乗り、相手も名乗った。それはいい。
でも、その名前には強い違和感を覚えたのだ。
別段珍しい名前というわけではない。おそらく帝国中を探せばティオなんて名前の人間はいくらでもいるだろう。
ただ問題は、その何人もいるティオ達の中に、男はいないだろうということ。
「男じゃ、ないの……?」
それは、ルークですら知っている程に有名な女性名だった。ジャックという名前の女性がいないように、ティオなんて名前の男性もいるはずはない。
だったら、答えは一つしかないだろう。
「ああ、噂ではそういうことになっていたらしいね」
ルークの反応を少しだけ面白そうに、男は――いや、ティオと名乗ったその人は、その頭を覆う外套のフードを脱いだ。
そこから現れたのは短く切られた綺麗なブロンドと、女性的で優しげな微笑み。
「私は女だよ、ルーク」
こうして見れば間違いようもない。そこには一人の少女が立っていた。女性と呼ぶにはまだ幼く、年は十七、八くらいだろうか。
握ったその手もどこか気恥ずかしく、ルークは危うく再び気を失いかけた。
「今の時代、男の方が生きやすいからね」
ティオは性別を隠していた理由をそう説明した。ローブのようなゆったりした服も、深くかぶった外套のフードも、そして落ち着いたその話し方も、全て女であることを隠すためだったのだ。
その言葉の意味が、ルークにはよくわかる。
女であるというだけで、母と姉のように、無実の罪で裁かれることがあるからだ。
ここ十数年、あちこちで魔女狩りが行われていた。魔女は悪魔と契約したその手先であり、世界に災厄をもたらすと信じられていた。彼女達は悪魔から授かった邪悪な力「魔法」で、天候を操り、呪いや病気を生み出し、死人と話すことすらできるという。
そして、そんな恐ろしい魔女の捜索は基本的に民衆からの密告に頼っていたのだ。その上、一度告発されてしまえばどんな弁明も意味を成さない。それ程に魔女は人々から恐れられ憎まれていたし、魔女だなんて疑われるような人は元々庇ってくれる家族や友人を持たない者ばかりだったから。
そんな世の中だ。もし人里から離れた森の中に一人で暮らすような女がいれば、すぐに誰かが密告をしただろう。そうなれば、すぐに火炙りだ。
だからティオは男のフリをしていたのだ。
しかし、そのティオは今やフードを脱ぎ、だぶついた服のあちこちを動きやすいように結び、何とも女性らしい身体の線を浮かび上がらせていた。帝国の兵士を殺した「男」として追われるであろうこれからは、「女」としての姿でいる方が都合がいいからだ。
ティオは時々ルークを振り返りながら、森の中を進んでいく。もうルークの村は通り過ぎ、二人は北へと進んでいた。
「一体、どこにっ、向かってるの……」
頼りない足取りで歩くルークは、息も絶え絶えに声をかける。しばらく寝ていたとはいえ、それでも彼は疲弊していた。あるいは、緊張が解けたということもある。最初こそ元気に歩いてはいたが、気付けば前を行くティオとの間は開くばかりだった。
「まずは私の友人のところへ厄介になろうと思う。マルクトの街だ」
その様子に気付いたティオが、言いながらルークの方へと戻ってくる。そして、目の前で背中を向けたかと思うとそのまましゃがみこんだ。
「乗って」
「え」
おぶされ、ということだろうか。そう理解して、ルークの顔が少し赤くなる。
ただでさえ、食料なんかの荷物を全て持たせてしまっているのだ。その上に自分まで背負わせてしまうなんて。相手の方が年上とはいえ、男である自分が女の子にそこまでさせるのは何とも気が引けた。
「でも……」
「今の内に少しでも小屋から離れておきたいんだ。さ、早く」
しかし、そう言われてしまうと変な意地を張った方がむしろ迷惑になりそうだ。ルークは結局、ひどく情けない気持ちでティオの背に乗った。
何となく、懐かしい匂いのする背中だった。
ティオは急ぎながらも、大きな木の根があれば跨がずに迂回をし、ぬかるみがあれば避けて通り、背中のルークを気遣いながら歩き続けた。十歳の少年とはいえ重くないわけがないだろうに、そんな素振りを少しも見せずに進んでいく。
初めはただ恥ずかしいだけだったのに、規則正しく揺れるリズムに、いい匂いと温かさに、ルークの中で冷たく凍てついていた何かが溶けていく感覚があった。
それは、久方ぶりに感じる安らぎだった。
小さな自分を、大きな何かが包み込んで守ってくれている安心感。
ティオの肩へ、ルークはそっと顔を埋めた。
「寝られるなら、寝てしまっていいよ」
身体を伝って彼女の声が響く。だけど、ルークは首を振った。
「眠れないんだ」
「……そうか」
たったそれだけで、ティオは全て理解してくれたようだった。
ルークは毎晩悪夢を見るのだ。
それはあの日の記憶。眠る度、何度も何度も家族の死を見せつけられるのだ。
そして、真夜中に目覚めた時の喪失感。暗闇の中に浮かび上がる自身の孤独。
絶望。
だから彼は、眠ることが怖かった。
「私でよければ、そばにいるよ」
ティオのその言葉に、うっすらと涙が滲んだ。
日も暮れかけた頃、ティオはようやくその足を止めた。ルークが顔を上げると、ティオが、肩越しに視線を向けて笑いかけた。
「そろそろ食事をとろうか」
「夕ごはん……」
「大したものはないけどね」
ティオは少しだけ木の少ない場所を見つけると、そこにルークを下ろした。だんだんと暗くなっていく森が怖くて、彼は荷物を探るティオの傍を離れなかった。
「ジルクス」
やがて神術書を手にとったティオがそう唱えると、二人の周りだけがぼんやりと明るくなる。光の神術だ。ルークはほっとして頷いた。
「すごいね、ティオはたくさん神術書を持ってるんだ」
「まあ、一通りはね」
ティオは、ルークが見ただけでもすでに三種類の神術を使っていた。口髭の剣を飛ばした風の神術、彼を燃やした炎の神術、そしてこの光の神術だ。一冊の神術書で使えるのは一系統のみだから、これで少なくとも三冊は持っている計算になる。一体何冊持っているのだろう。
と、そんなことを考えていると光がだんだん弱まり始めた。そして神術書が燃え上がったかと思うと、あっという間に辺りは暗闇に包まれてしまう。
「なっ、何で!」
「っと、どうやら神力が切れかけだったみたいだね」
ティオが再び荷物を探る気配がして、それからさっきと同じ呪文を唱えた。再び辺りをじんわりとした光が満たす。ルークはほっと胸を撫で下ろした。
「ところで、神力が切れたってどういうこと? 神術書ってずっと使える物じゃないの?」
「それはそうだよ」
ティオは三度荷物を探り、取り出したリンゴをルークに手渡してから光の神術書を指さした。開かれたページには神術陣のようなものが書いてあり、そのインクはじわりと発光しているように見える。
「そもそもルークは神術書の仕組みを知っているかい?」
「ん……本で神様にお願いして、奇跡を起こしてもらう……とか?」
悪魔の力とされる「魔法」に対して、それをかき消す神の力とされるのが「神術」だ。疫病が流行し、人々が魔女の恐怖に怯えていた時、皇帝が「神から授かった」として民衆に示したのが神術書だったのだ。皇帝は「治癒の書」と呼んだそれを使い、その場に集まった人々の目の前で不治の病に冒された少年を回復させる奇跡を見せたという。
そしてそれ以来、皇帝は「神に選ばれた者」としてその地位を確固たるものとし、その力を独占しているのだ。
「そう、神術は神の力とされているね」
ティオはルークの答えをそこだけ肯定した。
「だけど神様も忙しいだろうからね。あちこちでお願いされても手が回らないだろう?」
「それができるから神様なんじゃないの?」
「ああ、まあ、そうかもしれない。それじゃあ単に面倒臭いだけかな」
少しムキになるルークを笑って受け流し、ティオは続ける。
「とにかくね、神術書は神様にお願いするための道具じゃなくて、神様の力を蓄えた道具なんだよ」
「蓄えた?」
「そう、蓄えてあって、それを自由に取り出せる。そういう道具」
「蓄えたのを、取り出せる……? でも、それが使えなくなることと関係あるの?」
「うん。ずーっと冬が続く倉庫、って言ったら何となくイメージがつくかな?」
「ずっと冬が続く倉庫……」
ルークは無意識にティオの言葉を繰り返す。そんな彼の姿をティオは少し可笑しそうに見ていたが、ルークは彼女の言葉の意味を考えるのに夢中で気付かなかった。そして、その甲斐あってか何とか答えにたどり着く。
「あっ、そうか! ずーっと取り出すだけじゃ、いつかなくなっちゃう!」
「よくできました」
そう言って、ティオはルークの頭を撫でてくれた。さすがに恥ずかしい。けれど不思議と嫌な感じはしなかった。
「つまり神術書に神の力を蓄える方法なんて誰も知らないんだ。神様にお願いしようにも、神術書は力を使い切るとひとりでに燃えてしまうしね。神術程の強大な力を無制限に使えたら、戦争もあっという間に決着がつくよ」
「戦争ってあの」
「そう、南との戦争」
現在ケテル帝国は南に接する帝国アルカナと戦争をしている。まだルークが母のお腹にいた頃に父が参加し死んだ戦争だ。神の力とされる神術も万能ではなく、優勢ではあるもののアルカナの技術力に攻め切れずにいるという。その万能でない理由の一つが消耗品であるということなのだろうか。
ケテル帝国だけが持っているはずなのに、他国を攻め切れない神術。
せっかく手に入れても、使えば使うだけ消耗する神術。
話を聞いているうちに、ルークには神術書が「神の力」と呼べるほど大層なものではないように感じられてきた。神術書さえあれば。そう思っていたのに。殺されそうな思いまでしてようやく手にしたその力が、急に色あせて見える。ルークは何となく釈然とせず、難しい顔でリンゴに齧りついた。
「何だか持ってた神術のイメージと違うなあ」
「どんな力にだって弱点はあるさ。だからこそ、こちらにだってやりようがあるんだ」
そんなルークをティオは励ますように笑う。
「大丈夫。私がついてるよ」
夜が更けていく。それが怖くないのは、神術の光があるからというだけではないようにルークには思えた。
小ぶりではあったがまるまる一個のリンゴを食べ終えて、ティオは寝る準備を始めた。
「寝たくない……」
「……それでも、身体は休めないと」
ティオは申し訳なさそうな表情で、それでも予備のマントをルークに差し出した。ルークはそれをしばらく見つめていたが、やがて無言のまま受け取った。寝なければ迷惑をかけることはわかっていたのだ。さすがに明日もまたおんぶして歩いてもらうわけにはいかない。
すると、ティオが神術書を片手に顔を覗きこんできた。
「この辺りに獣はいないと思うけど、一応神術障壁を張っておこう」
「神術障壁って?」
「見えない鎧みたいなもの」
言うなりティオは呪文を唱える。
「ジアルマ」
直後、彼の身体は奇妙な生温かさに包まれた。それはおねしょをした瞬間のような何とも言えない不快感で、顔は自然としかめっ面になる。それを察してティオは少しだけ可笑しそうに笑った。
「大丈夫。すぐに慣れるよ」
「これ本当に効果あるの?」
「もちろんあるよ。狼に噛み付かれたくらいじゃ気付かないかもね」
ルークは狼に足を噛まれ、首を噛まれ、それでもスヤスヤ眠り続ける自分の姿を想像した。何だかそれはそれで問題ありそうだったが、狼の歯が通らない程の強度ともなれば安全ではあるのだろう。きっと剣や槍だってそうは効かないだろうから、もし人に襲われても一発でおしまいということはない。
と、そこでルークははたと気付いた。
「ねえ、ひょっとしてこれ、昼間の兵士も使ってた?」
自分のナイフが帝国兵の喉に届かなかった妙な感覚を思い出したのだ。彼らは神術師ではなかったが、他人にかけてもらうことができるのならそんなことは関係ない。予想通り、ティオは自分にも神術をかけながら頷いた。
「やっぱり……」
ルークは一度は自分を見逃そうとした帝国兵の態度に今更ながら納得した。神術障壁の前では、ナイフを持った子供など何の脅威でもない。
「もちろん神術障壁も万能ではないけどね。少しずつ消耗はするし、障壁が耐えられないような大きな力で攻撃されれば傷を負う。そして、同じように障壁を纏った武器による攻撃は簡単に通る」
ティオがルークの手をとった。確かにティオの手との間には兵士を襲った際に感じたような壁はなく、むしろ身体の表面に張った膜が融け合って一つになるように感じられた。
「まあ、まさか今日の内に追手がかかることもないだろう。安心してお眠り」
「……うん」
「大丈夫。君が眠れるまで、私も起きているからね」
二人は木の根を枕に寄り添って横になる。やっぱりティオからはどこか懐かしい匂いがして、少し心が安らいだ。やがてまぶたも少しずつ重くなっていく。ティオが優しく頭を撫でてくれる。そうしている内に、いつの間にかルークは眠ってしまった。
それでも、闇は彼を離さない。
「…………姉さん、母さん」
うなされるようにそう呟いたルークを、ティオはそっと抱きしめた。
*
ドアがノックされる。
「お入りなさい」
失礼致します、と男が部屋へと入ってきた。中は神術による光でこれでもかとばかりに明るく照らされ、その豪奢な内装を惜しげもなく見せつけている。部屋の主である女は隅に置かれた机で羊皮紙に向かい、何かを描いているところだった。その手を止めずに女は尋ねる。
「どうしたの」
「バリーとビリーの二名からの定時連絡が途絶えました」
「……あらぁ、心配ね」
しかしその報告を聞くと、女は波打つ長い髪を掻き上げるように顔を上げた。
「場所は例の村だったわよね?」
「ええ、森の中に怪しい人間が住み着いていると」
「んふふ、そう、そうなの」
その顔が禍々しい笑みを浮かべる。その不吉さに上げそうになった小さな悲鳴を、男は何とか呑み込んだ。と、直後には女はいつもの慈愛に満ちた表情をしていて、男は幻覚でも見たのかと頭を振る。
「明日にでも、その二人に話を聞きに行きましょう。馬の準備をお願いね」
「は、ハッ!」
話はおしまいとばかりに女が手をひらひらと振ると、男は一礼してそそくさと部屋を出ていった。その足音が完全に聞こえなくなったのを確認すると、女はドアに鍵をかける。
そうしてベッドに潜り込むと、枕の下から人形を取り出した。精巧に作られたその美しさは、今やもう見る影もない。ブロンドの髪をあちこち引きちぎられ、肌はナイフで滅多刺し、眼球を繰り抜かれた眼窩からは暗い闇がその無念を訴えかけている。
その無残な姿を愛おしそうにしばらく見つめた後、女が呪文を唱えるとそれはあっという間に燃え上がり、そして灰になった。
「んふ、んふふふ、あはぁ、今度こそあなたを灼けるのねぇ――ティオ」
神官イヴ・ナイトメア。民の尊敬を集める彼女の、歪んだ本性がそこにはあった。