第1章
木の根につまずき、ぬかるみに足を取られ、それでもルークは森の中を駆け続けた。
いつも遊び場にしていた大樹はとうに通り過ぎ、日の光もまばらな木々の間をひたすら奥へ奥へと突き進む。血走った目の下には大きなクマができ、頬はこけている。ここ数日、食事がまともに喉を通らなかった。フラフラとおぼつかない足取りで、しかし意志だけは固く、ルークは走り続ける。
その右手に、ナイフを握りしめて。
「森に怪しい男が住みついているらしくてな」
誰かがそう話していたのはいつのことだったか。
「そいつがどうも神術書を持っているらしいんだ」
ルークの姉も母も、馬鹿な噂話だと相手にしなかった。もちろん、彼自身も本当に信じてなどいなかった。
神術は神から授かった神聖なもの。神術書は悪を打ち払い敵を駆逐する兵器だ。軍でも神術師と呼ばれる選ばれた一部の者にしか使用が許可されていない。
神聖であり、強い力を持つ兵器であるが故に、帝国が厳重に管理しているのだ。
それをこんな片田舎に住む男が持っているわけがない。話していた本人だって、多分ちょっとした噂話程度のつもりだった。
だけど今、ルークは藁にもすがる思いで森に住むというその男のもとを目指していた。
目的は言うまでもなく神術書である。
人を殺す兵器を欲する理由など、一つしかない。
彼には、どうしても討ち倒さねばならない敵がいるのだ。
木々が少しずつその数を減らし、やがて開けた場所に出た。突然の日差しに目が眩み、ルークは思わず立ち止まる。
どうやら、噂は本当だったらしい。少なくとも前半は。
村の広場二つ分程の広さの草原に、粗末な小屋がぽつんと建っていた。そのわきには真新しい薪が積まれ、明らかに人の住んでいる気配が――いや、気配も何も、今まさにその小屋の前で男が三人、何かを話している。ルークはすぐさま木の陰に身を隠し、そっと様子をうかがった。
一人は外套のフードを深くかぶっているが、おそらく噂の男だろう。十歳のルーク程ではないにせよ、背はそれほど高くなく小柄に見える。大き過ぎるローブを着ていて、それが彼の体躯を隠していた。遠くから見ただけではあまりに得体が知れない。
対照的に、残りの二人は服の上からでもわかるガッシリとした身体つきの男達だった。片方は口に、もう片方は顎に髭を生やしている。既視感を覚えたが、村の人間ではない。遠くからやってきたからか、身を隠すためか、二人ともマントをつけていた。
しかしそのマントも、腰に差したそれまでは隠せなかった。
ルークの鼓動が、一際大きく跳ねた。
着ているものこそあの時と違えど、腰に差されたショートソードは見間違えようがない。白地に大樹の枝をイメージした金色の装飾がなされた鞘と、柄にも同じく黄金の大樹を描いた紋章がある。
あれは、ケテル帝国の剣だ。
そう理解する前に思考は真っ赤に染まり、ルークは咆哮と共に駈け出していた。小屋までの距離を一瞬で走りぬけ、驚いたようにこちらを振り向いた口髭の男――帝国の軍団兵に体ごとぶつかった。
両手で構えたナイフと共に。
「ぐっ」
男は衝撃に一歩後ずさり、低い呻き声を上げた。その声にルークは勝利を確信する。その手が温かな血に濡れる感覚を想像すらした。
しかし、ナイフを抜こうとして違和感を覚えた。あまりにも、感触が軽過ぎたのだ。視線を落とせば、ナイフには血の一滴すらついていない。
「何者だ貴様ぁ!」
刺されたはずの口髭が、とても致命傷を負った人間とは思えない力でルークを突き飛ばす。違和感に気を取られていた彼はあっさりと後ろへ転がされてしまった。慌てて起き上がろうとしたその眼前に剣の切っ先が突きつけられる。
「……? 何だ? 子供じゃないか。こんなところで何をしている?」
そして、それだけだった。口髭は相手が子供と見るやいなや、興味をなくしたように剣を引いた。見たところ、やはり口髭の腹は無傷だ。
ただそれでも、たった今自分の命を奪おうとした相手を前に剣を引くとはどういうことか。
その意図はわからないが、舐められていることだけはわかった。ルークはすぐさま立ち上がりもう一度ナイフを構えようとして、
「やめなさい」
突然、それをフードの男に止められた。その声は予想していたよりもずっと高く細い。
「命を粗末にするべきではないよ。村へ帰りなさい」
「っ……!」
フードの中の碧眼は優しい色をしていた。顔つきも中性的で威圧感はない。だけど、その言葉には有無を言わせぬ力があった。ルークは何も言えずに、ただその目を睨み返すことしかできなかった。
男はしばらくルークを見つめた後、不意に視線を外して帝国兵の二人に声をかけた。
「さあお二人も、子供の相手をしている場合ではないのでしょう。どうぞ中へ。神術書などありはしませんがね」
それを聞いて、ルークは帝国兵がここを訪ねた理由に今更ながら気付いた。彼らの目的も神術書なのだ。きっと村での噂が王都まで届いたのだろう。そして、信憑性は低いとは思いながらも“再び”この二人をこの地へ遣いに出したのだ、と。
もし神術書の噂が本当なのだとしたら、この二人をどうにかしなければならない。
「ふん、あるかないか、決めるのは私達だ。念入りに調べさせてもらうぞ」
「……ご自由に」
フードの男と顎髭の兵士が小屋の中へと入っていく。口髭もそれを追おうとして、未だ自分を睨み続けるルークに気付いた。その喉から不快な笑い声が漏れる。
「血の気の多い小僧だ。だが、そんなオモチャじゃ俺を殺せはせんぞ」
そして、今度こそ背を向けて小屋の方へと歩き出す。
「さっきのことは見逃してやるから、子供はママのところへ帰るんだな」
ただ、その一言が余計だった。
少しずつ冷静になりかけていたルークの頭に、再び血が上る。心臓が痛いくらいに鼓動する。
焼ける肉の臭い。苦しみに歪む顔。それを取り囲む笑顔。歓声。――狂気。
あんな惨状を、この男はもう忘れたというのか。
自分の顔を、もう覚えてなどいないというのか。
許せない。
「母さんは――」
数歩駆けて、ルークは跳んだ。そして、逆手に持ったナイフを振り下ろす。
「――お前達に殺されたんだッ!!」
狙いは首だった。腹への刺突が効かなかったということは、中にチェーンメイルを着ているのだろう。だけど、露出した肌になら、肉になら、その刃はやすやすと突き刺さるはずだ。ルークはそう思ってナイフを振った。内に燃える憎しみの全てを込めて。ありったけの力を込めて。
その結果は、信じ難いものだった。
「……餓鬼が」
相手の首にほとんどしがみつくような状態で、ルークは見た。ナイフの切っ先は確実に首を捉えている。あと小指の先程の距離を進めば、一発で致命傷を与えられる位置。
それなのに、ナイフはそこから、髪の毛一本分すら近づくことができなかった。
見えない何かに阻まれている。
そう感覚した時、突然に身体が宙を舞った。
直後に背中を大きな衝撃が襲い、視界が青く染まる。
いや、違う。空を見ているのだ。
気付けば、ルークは仰向けに横たわっていた。何が起きたのかすぐには理解できない。全身が痛くて動かすことができず、息苦しさに口を動かしても上手く空気が吸えなかった。
その眼前に、再び剣が突きつけられた。
刃を辿って目線を上げると、そこには傷一つ負っていない口髭の男が自分を見下ろすように立っていた。
そうしてようやく、ルークは自分が投げられたことを悟った。
「一度見逃してやったというのに、そんなに命がいらないか? それとも、子供なら何をしたって許されるとでも思っているのかね?」
口髭がおどけたように剣をゆらゆらと振るが、その表情は笑っていなかった。
「いけない子だ」
動きを止めた剣先が、当たり前のようにルークの頬に届いた。チクリとした痛みを感じて、しかしルークは動くことができない。もし動こうものなら、一瞬で首を刎ね飛ばされる。そんな予感がした。
「何をしているッ!?」
その時、小屋の方から声がした。
視線だけを向けると、それはフードの男だった。ひどく焦った様子で戸口のところに立っている。口髭は鼻で笑った。
「貴様こそ、そんなに慌ててどうした? 随分な口の聞き方ではないか」
「……何をしているのです」
「見ての通りだ。また飛びかかってきたのでな、相手をしてやっているのよ」
「相手は子供でしょう。帝国の兵士様は広い度量をお持ちだと聞きましたが」
「うむ、確かに子供だ。だが、悪い子供だ」
口髭は汚い笑みを見せた。
「悪い子供には、教育が必要だ。そうだろう?」
そして、剣先をルークの肩へと移す。
「どうするおつもりです」
「腕を斬り落とす」
「なっ……!」
「なあに、死にはしないさ。ちょっと血は出るかもしれんが、こんなに血の気が多いんだ。少しくらい減ってもかまわんだろう?」
フードの男が息を呑んだ。ルークは、見るからに弱っている。腕を斬り落とされて、果たしてそれだけで済むものか。
しかし、それを見て満足したのか、口髭は剣を下げると再び見下すような視線をルークに向けた。
「ま、俺も鬼じゃない。この子供が謝ったならば許してやろう。地面に額をこすりつけ、『兵士様、申し訳ございませんでした。もう二度と致しません』と、そう言えたならな」
ルークは悔しかった。憎き帝国兵が目の前にいるというのに何もできない自分が。まるで歯の立たない自分が。お前はどうしようもなくただの子供で、何をする力も持っていやしないと、そう言われた気分だった。
「君! 謝ってしまいなさい!」
フードの男の声を受けて、ルークはゆっくりと身体を起こす。足に力が入らず立ち上がれなかった。
「意地を張る必要なんてない! 謝れば許してもらえるんだ! 言ったろう! 命を粗末にするんじゃない!」
彼がどうしてこうも自分を庇おうとするのか、ルークにはわからなかった。
それでも、きっと彼の言う通りにするのが利口なのだろうと思った。それがきっと大人というやつなのだろうと。
ルークは覚悟を決めた。
「さあ、答えを聞かせてもらおうか」
口髭の剣が顎を撫でる。その冷たさに、かえってルークは安堵した。自分の選択は、決して間違ってなどいないのだと。
「――地獄に堕ちろ、帝国の犬め」
そう言って口髭を睨みつける彼を、フードの男が信じられない物を見るような目で見ていた。
彼には申し訳ないと思う。だけど、最初から謝る気はなかった。
やつらは仇なのだ。
ルークから母を、そして姉をも奪った悪魔達なのだ。
そんな相手に頭を下げるのだけは、死んでも嫌だった。
口髭は予想通りとばかりに笑う。
「馬鹿な餓鬼は嫌いだ」
それから剣を振りかぶると、冷たい目をして言った。
「死ね」
ルークはもう動けなかった。諦めて目を閉じる。
口髭は躊躇いもなく剣を振り下ろすだろう。復讐を果たせぬまま死ぬことが情けなくはあったが、自分も母や姉のところへ行けるのだと思うと、不思議と気持ちは楽になった。
「ライケプトッ!!」
だが、剣が振り下ろされることはなかった。風がルークの頬を撫でたかと思うと、剣は一瞬の内に口髭の手を離れ、遠く向こうに立つ木の幹へと突き刺さっていたから。
突然の出来事にルークも口髭も声が出せなかった。ただ一人、呪文のような物を唱えたフードの男だけが「しまった」とばかりに、剣へ向けていた腕を抱くように身を引いた。
やがて、口髭が戸惑い気味に声を出す。
「貴様、やはり……いや、だがしかし……」
その間にフードの男は覚悟を決めたようだった。外套の下から本を取り出すと、ページを開いて迷わず呪文を口にした。
「キフラマ!」
「ぎゃあぁぁああああああアアアアアアアアアッ!!」
一瞬だった。
フードの男が呪文を言い終えた時には、もう火柱が口髭を包んでいた。真っ赤に燃える炎の中で、黒い影となった口髭が何かを求めて手を伸ばし、そしてそのままの格好で倒れた。それでも炎は燃え続け、辺りに嫌な臭いが漂い出す。
それはあの日の臭いだった。
村に帝国の神官達がやってきたあの日。
寂れた村の広場に大勢の人が集まったあの日。
そして、ルークの母と姉が火炙りにされたあの日。
家族と仇の違いはあれど、人の焼ける臭いは同じだった。
ルークは目眩を覚えた。頭が麻痺したみたいにぼうっとなった。
「君!」
フードの男がこちらを見ている。その後ろにもう一人、顎髭の兵士が迫っているのが見えた。ルークは反射的に、最後の力でナイフを投げた。くるくると回りながら顔を目がけて飛んでくるそれを、フードの男は驚いて避けた。直後、彼の頭があったはずのその場所を顎髭のショートソードが空振りする。
もう一人の存在を思い出したフードの男は、さっきと同じように呪文を唱えて顎髭を燃やした。そこまでがルークの記憶だ。
「――ルーク!」
意識を失う直前、姉に名前を呼ばれた気がしたが、それは空耳だったに違いない。