最終章
広場はすでに大変な騒ぎだった。
辺りは深い霧に包まれ、何かよくないことの起きる気配で満ちていた。
集まった人々の視線の先には、一人の少女。服のあちこちに黒い血の染みが浮かび、その瞳には生気が感じられない。
後ろ手に縛られた、ティオ・ボウヤーがそこにはいた。
そこへ、円を描くように囲んだ神術師や兵隊達を割って一人の女が歩いてくる。
神官であり審問官である、イヴ・ナイトメアであった。
「これより、魔女裁判を執り行う!」
その言葉に人々が湧いた。皆魔女狩りが見たくてしょうがないのだ。
イヴはティオにだけわかるようにいやらしく笑うと、声高く叫んだ。
「ティオ・ボウヤーよ、貴様は皇帝陛下の下僕である帝国兵並びに神聖なる神術師を、悪魔の業である魔法を使い、殺したことを認めるか!」
「…………」
ティオは当然答えられない。
一つは彼女が虫の息であること。
そして一つは、何を言っても結果が変わらないこと。
そんなことはそこにいる誰もがよくわかっていた。だから、続くイヴの言葉に異議を唱える人間などいはしなかった。
「沈黙は肯定である! 我々はティオ・ボウヤーを悪魔の手先である魔女と断定し、これを火炙りの刑に処す!」
再び歓声が上がった。
「殺せ! 悪魔の手先を殺せぇ!!」
「浄化の炎を! 神の怒りを魔女に!!」
もう流れは止まらない。歩み寄った二人の兵士が乱暴にティオを引きずると、そばに寝かされた十字架へ縛り付けた。縄が引かれ、十字架が少しずつ持ち上がる。
それが動きを止めた時、人々の興奮は最高潮に達した。広場が狂気に包まれていく。
ティオの足元へ、兵士達が薪や茨を持ってきた。神術の炎は火種でしかない。神術で直接燃やすと苦しむ間もなく死んでしまい、面白くないからだ。
魔女は、苦しませて殺すに限る。
着々と進む準備に、イヴは舌なめずりをした。
ルークが一緒でないのは残念ではあったが、それでもティオはずっと燃やしてやりたかった相手だ。
さあ、一体どんな悲鳴を聞かせてくれるのかしら。
やがて準備が整い、兵士達が列の中へと戻っていく。
とうとうイヴの出番だ。
彼女は懐から火の神術書を取り出すと、群衆に向けその時を知らせた。
「時は満ちた! これより刑を執行し、彼女の魂を浄化する!!」
「いいぞおおお!! 殺せえええええ!!」
「殺してくれええええ!! 早く見せてくれええええええ!!」
人々の反応へ満足そうに頷くと、イヴはティオに歩み寄る。そして、彼女にだけ聞こえる声で言った。
「ようやく弟と同じところへ行けるわね、お姫様――きっとお父上もお喜びになるわ」
イヴはティオの瞳に小さな怒りの炎が燃え上がるのを見逃さなかった。自分を憎み恨んだその表情。それを見ると、イヴは恍惚とした喜びを感じるのだった。
それでこそ、殺し甲斐がある。
イヴは一番弱い神術のページを開くと、ティオの足元へ手のひらを向けた。
「さようなら、ティオ…………キフ――」
その時だった。
「――ガァアアアアアアアアアアアッ!!」
耳をつんざくような恐ろしい啼き声が広場に響いた。あまりに異様なその声に、人々はゾッとして口をつぐんだ。イヴでさえ何事かと視線を上げる。
「あ、あれ……」
集まった内の誰かがふと空を指さした。人々は次々とその指す方へ視線を向けて、口々に小さな悲鳴を上げた。
そこには夜があった。
空を覆う、おびただしい数の漆黒。いつの間に集まったのか、カラスの大群が空から広場を見下ろしていた。
カラス達は恐ろしい啼き声を上げながら、その黒い瞳を人々へ向けている。しかし、その姿はだんだんと消えていった。空は黒を追い出し、徐々に明るさを取り戻し始めた――かに見えた。
「な……なんだ、あれ……」
しかしそれは、黒が白に変わっただけのこと。辺りを包んでいた霧が空に集まり、カラスの黒い身体を覆い隠したのだ。
そうして、カラスに代わって空に蓋をした霧は、雲のようにもくもくとその身体を歪めると、やがて山羊の頭を形作った。
「……悪魔だ」
誰かが呟いた。それは集まった街の人間ではなく、兵士の声であったかもしれない。
人々は金縛りにあったように動けなかった。空から目が離せず、固唾を飲んでそれを見守った。
そしてついに霧が動く。山羊はその口を大きく開くと、そのまま広場に降ってきた。
「ガァアアアアアアアアアアアッ!!」
「うっ、うわああああああああああああッ!!」
再びの啼き声と共に、広場は白に包まれた。隣にいる人間すら見えない程の厚く濃い霧の海。その中を何故かカラス達だけは自由に泳ぎ回り、次々と兵士達を襲い始めた。
「ぎゃあッ!!」
「ぐぁああああッ!!」
あちこちで悲鳴が上がる。纏ったはずの神術障壁を、カラス達はやすやすと突き破る。首を鉤爪に裂かれ、眼球を突かれる。兵士達の叫び声に金縛りが解け、民衆はようやく広場から逃げ出した。
「キフラマ!」
とうとう呪文の詠唱が聞こえる。イヴのものではない。その声は神術師団の方から聞こえた。そして、次の瞬間には兵士が地獄の業火に包まれる。
「貴様ぁ! 何のつもりだ!!」
「ちっ、違う! 私じゃない! 私は何もしていない!!」
兵士と神術師の間ですぐに衝突が起きた。真っ白な地獄の中で彼らは疑心暗鬼に陥り、身を守ろうと闇雲に攻撃を始めたのだ。
「あっ、あっ、やめてくれっ、あっ」
「あああッ! うっ、腕がッ! 俺の腕がぁ!!」
「止めなさい! 止めなさいったら!!」
彼らの上げる声に、イヴの制止もかき消されていく。そしてまた彼女も、真っ白な視界の中を襲い来るカラスから身を守ることで精一杯だった。場の混乱は高まる一方だ。
「チィ、悪足掻きを……こうなったら」
もう愉しんでなどいられない。イヴは傍らに立つ十字架へ向き直ると、その呪文を口にした。
「キゴラマッ!!」
瞬間、広場に巨大な火柱が立ち上がった。天まで届くその熱に広場を覆っていた霧は一瞬で消し飛び、カラスやその近くにいた不運な兵士達は消し炭となった。
広場に一瞬の静寂が戻る。
「…………いない……!」
イヴは歯ぎしりした。十字架があったはずの場所に、ティオの死体がなかったのだ。
「イヴ様! あそこです!!」
一人の神術師が声を上げる。見れば、遠く向こうの四つ辻を曲がる影が二つ。ティオと、それに肩を貸すルークだった。
「あのガキぃ……!」
すぐさまイヴの怒声が飛ぶ。
「追え! 絶対に逃すな!!」
「っ、はっ!」
秩序を取り戻した兵士達が駆けていく。その背中を見送りながら、イヴはひとり呟いた。
「絶対に殺す……殺してやる……」
彼女の瞳に、憎しみの炎が宿った。
追手の声が聞こえる。震えそうな脚にそれでも何とか力を込めて、ルークは必死に走った。ティオはもう身体に力を込めることすら難しく、ほとんどルークに引きずられるようにして走っていた。
突然、目の前の角を先回りした兵士達が飛び出してくる。
「ライケプト!!」
それを、ルークが神術で吹き飛ばす。強烈な突風を浴びせられた彼らは硬い石壁に叩きつけられて気を失った。
それでも敵は後から後からやってくる。
「もういい、ルーク、私のことはいいから君だけ逃げろ……!」
隣のティオがまた声を絞り出した。彼女は広場で助けられてからずっと同じことを言い続けている。
「お願いだ、私を置いて逃げてくれ……私なんかのために、命を無駄にするな」
後ろから追手が迫る。ルークは一瞬振り向くとすぐさま神術を放った。
「ライケプトッ!!」
だけど、今度は当たらなかった。狙いを逸れた突風は兵士の髪はただ少し揺らしただけだ。兵士がショートソードを振りかぶる。
そこへカラスが飛び込んできた。
「がぁッ!」
目を潰され、兵士が痛みに動きを止める。その一瞬、ルークが再び唱えた呪文がその身体を捉え石畳の上を吹き飛ばした。
危ないところだった。
止まっていた足に力を込めて、ルークは額を拭う。
それを見て、ティオはより一層その声に悲哀の色を濃くした。
「ルーク……もう、十分だから……私は、君まで死なせたくないんだ……頼むから私を置」
「ああもうるさいな! 今忙しいんだから後にしてよ!!」
しかし、まさか怒鳴られるとは思っていなかったのだろう。ティオは面食らったように口をつぐんだ。その表情を見て、ルークは少しだけ楽しくなって笑う。
「もう、わかってるよ。死んじゃいけないんでしょ? 死んでもいいなんて思っちゃいけないんでしょ? 大丈夫。そんなこと、僕“は”思ってないよ」
「ルーク……」
「生きるんだ。こんなの、どうってことないさ。二人で切り抜けてやろうよ。ねえ、そうだろ!」
今なら素直に言える気がした。自分を見つめるその青い瞳を見ないように前を向いたまま、ルークはさも何でもないことのように言う。
「もう、家族を失うのは嫌だよ。僕と一緒に生きてよ、ティオ」
その時ティオがどんな顔をしたのか、見てなかったルークにはわからない。でも、笑ってくれていたらいいなと思った。
ティオはもう何も言えなかった。今口を開いたら、きっと泣いてしまうから。
目指す場所は、もうすぐそこだ。
さっきよりも少しだけ力強い足取りで、二人は街を駆け抜けた。
「あった!」
追手をかわし、ルーク達はついに目的の場所へたどり着いた。そこは以前も使った秘密の通路。
ルークが呪文を唱えるとその入口が現れた。二人でそこに駆け込むと、ルークは再び入り口に向けて立て続けに神術を使う。
「キアスピス! ボウラピス!」
すると通路を塞ぐように魔力の壁が出現し、通路の岩壁が膨張してそれと融合した。こうしておけば突破されるまでにかなりの時間を稼げるはずだ。
「君は……いつの間にそんな呪文を……」
「今は急ごう! 森まで出られれば僕らの勝ちだ!」
「……ああ」
暗い洞窟を、神術の明かりを頼りに歩く。時々後ろを振り返り、壁を作ってはまた歩く。お互いにしばらく無言だったが、やがてティオが口を開いた。
「ずっと黙っていて、すまなかった」
「……姉さん達のこと?」
「それも含めての全てさ。フローから聞いただろう」
ティオは静かに語り出した。
「弟を殺されて、ひとりぼっちになって、もう死んでしまおうかと思った。でも、そんな私を救ってくれたのが君達だったんだ」
ルークはただ頷いた。
「みんな、とてもよくしてくれたよ。ボロボロの私を見て、何も聞かずに食事を与えてくれた。温かいベッドを与えてくれた。久しぶりに、幸せな時間だった……」
過去を懐かしむように、ティオは遠い目をしていた。
「その時の君はまだ小さかったけれど、よく一緒に遊んだものさ。外に出られない分、もしかしたら君と過ごした時間が一番長かったかもしれない。ずっと一緒で、新しく弟ができたような気分だった」
それが何だかむず痒くて、ルークは無言で続きを促した。
「でもある日、追手がやってきた。何とか私は見つからずに済んだけれど、でも、その時に決心したんだ。これ以上、一緒にはいられない。迷惑はかけられないって。それで私は君の家を出た。二人は引き止めてくれたけどね。国や魔女なんて関係ないって。……だけど、やっぱり魔女と関わっていいことなんて何もなかったんだ。私のせいで二人は……」
黙っていると、小さな嗚咽が聞こえてきた。そしてティオは、消え入りそうな声で言う。
「本当に、ごめんなさい……ごめ、なさい……」
ルークは答えない。しばらく、ティオの嗚咽だけが洞窟に響いた。やがて、それが少しずつ収まると、ティオが再び口を開いた。
「……私を恨むかい?」
ティオはもう泣いてはいなかったけれど、その声はいつもの彼女とは違う、不安の混じったひどく弱々しいものだった。それは、何だかとても辛いことだった。
だから、ルークははっきりと言ってやった。
「恨まないよ」
ティオの目が驚いたように見開かれる。ルークはやっぱりそれを見ないように、前だけを見てもう一度言った。
「恨むわけがないよ」
それは、本心からの言葉だった。
「確かにティオを匿った罪で姉さん達は殺されたさ。初めてそれを知った時には、今ではそれが間違いだとわかっているけど、ティオのせいだとも思った。だけどね、僕は一つだけ確信したことがあるんだ」
ルークは一度ティオに視線を向けると断言する。
「それはね、姉さん達は正しいことをしたんだっていうこと」
ティオを助けたこと。帝国にそれを隠したこと。
そして二人が、自分に教えてきたこと。
ルークにはそのどれもが、とても大切なことに思えたのだ。
「ティオをすぐに引き渡していれば、二人は今も生きていたかもしれない。だけど、それは違うんだ。そんなことをするのは、僕の知っている姉さんや母さんじゃない。困っている人には手を差し伸べる。そんな姉さん達だったからこそ、僕は二人が大好きなんだ」
ルークは笑った。それはいつかの、狂気をはらんだ笑顔ではない。復讐に燃えていたかつての少年はもういない。
自然に浮かんだその笑顔には、希望が溢れていた。
「それを証明してくれたのは、ティオ、君だよ。君が教えてくれたんだ! 君はいつでも僕を助けてくれた。僕を救ってくれた! そして、助けを求める人を見捨てたりはしなかった! 姉さん達が救った魂は、こんなにも綺麗なんだ!」
「ルーク……」
「ねえティオ。君は不幸を振りまく邪悪なんかじゃない。魔女は邪悪なんかじゃない。邪悪なのは人の心だ。魔法を利用し、君を殺そうとする帝国の方だ! だったら、僕はそれに抵抗するよ。僕だってロッドウェル家の一員だ。姉さん達が信じた正しいことを、同じように僕も信じるだけだ」
「…………うん」
「だから生きるんだ。絶対にここを切り抜けて、一緒に生きるんだ!」
「………………うんッ……!」
ティオの頬を再び涙が伝う。けれどその涙は、さっきのそれとは違う、とても温かい涙だった。
「ありがとう」
そう呟いたティオの声は、涙に濡れてぐちゃぐちゃだったけれど、しっかりとルークには伝わっていた。
やがて、洞窟の中に光が差した。出口が近いのだ。
「もう少しだ!」
自然と二人は早足になる。
希望に向けて、未来を目指して二人は歩いた。
そして、とうとう辿り着く。
洞窟の出口に。
「――ジケプト」
絶望の入り口に。
「あッ!!」
「ティオ!?」
外に出た途端、ティオはその場にくずおれた。慌てて抱き起こそうとするルークの手に、生温かいものが触れる。
血だ。
ティオの脚に、深々と矢が突き刺さっていた。
「残念でしたぁ」
「っ!?」
声に振り向けば、そこにいたのはルークにとっての邪悪の象徴、イヴ・ナイトメアだった。さらに、木々の間から神術師達も姿を現す。二人は完全に取り囲まれていた。
「雑魚ばっかり追ってきて、不思議に思わなかったのぉ? うふふ、簡単に誘い込まれちゃって」
「そんな……どうしてここが……」
「馬鹿ねぇ。当たり前でしょう? その穴は、マルクトを陥落とす時に私達が開けた穴なんだから」
イヴは邪悪に笑う。その後ろには大勢の神術師と武装した兵士達が隙間なく立ち並んでいる。来た道は自分達で塞いで来てしまったし、何とか登れそうな背後の崖も脚を負傷したティオには無理だ。何より、怪我がなかったところで登っている途中に攻撃されたらひとたまりもない。
絶体絶命だった。
「さあ、おしまいにしましょう? 今度は転移神術が仕掛けられていないのもちゃあんと調べてあるわ」
イヴが一歩前に出る。勝ちを確信した邪な笑顔だった。
ルークは考える。どうすればここを切り抜けられるか。相手は魔女だ。自分の持っている神術書じゃ勝ち目がないのは明らかだった。
だけど、他に頼れるものもない。ルークはそっと神術書に手を伸ばす。
しかしその時、隣でティオが立ち上がった。
「……終わらせは、しない」
「あぁら、まだ立てるのぉ?」
イヴが懐から矢を取り出す。そして呪文を唱えると、弓もないのにそれは一直線にティオの無傷な方の脚へと突き刺さった。ティオはバランスを崩し、またその場に倒れこむ。
「ティオ!」
けれど、また立ち上がった。
「こんなところで、終わらせてたまるか……!」
「しつこいわねぇ。あんたはとっくに終わってるのよ、お姫様」
そしてまた矢が刺さる。今度は倒れなかった。
「そうさ、私の絶望は、終わったんだ」
また、一本。
「ルークが、終わらせてくれたんだ。ルークの言葉が、私を救ってくれた!」
さらに一本。
「せっかく見つけた希望を! 終わらせてたまるか!」
脚にはもうほとんど力が入らない。それでもティオが倒れなかったのは、ルークがいたからだ。
彼女もまた、ずっと絶望に囚われていた。家族を亡くし、ひとりぼっちになって。
そこから救ってくれたダイアナとエリザすら死なせてしまった。
自分の命に代えても守ると誓ったはずだったのに。
だから、彼女は全てに決着をつけて死ぬつもりでいたのだ。
死に囚われたルークを助け、彼に平穏を与えた後で、自分は帝国に命を差し出すつもりでいた。
そうすることが自分の義務なのだと思っていた。
自分が死ねば、これ以上を誰かを巻き込まずに済む。
ルークを死なせずに済む。そう思っていた。
だけど、そんな彼女にルークは言ってくれたのだ。
生きていてもいいのだと。
一緒に生きて欲しいのだと。
その言葉に、彼女の魂がどれほど救われたか。
きっとイヴにはわからなかっただろう。
「チィ、面倒ね! もういいわ、死になさい!」
そうして、二人は同時に呪文を唱えた。
「「ライゴラマッ!!」」
二人の手から生まれた炎と炎とが、正面からぶつかり合った。巨大な二つの灼熱は、ぶつかり、せめぎ合い、決して混ざることなく炎の壁を作り上げた。陽炎に歪むその向こうで、あまりの熱量に神術師達は木の陰へと身を隠す。
「あああああああああああああッ!!」
しかしルークは違った。彼は炎の熱に当てられながら、それでもティオのもとへと駆け寄ったのだ。そして倒れそうな彼女を支え、その手に自分の手を重ね合わせる。
「ルーク! 何を……下がってて!」
「言ったろ! 二人で切り抜けるんだって! 僕だって一緒に戦う!」
「……ああ!」
ティオの炎が勢いを増す。それは二人の力だ。
炎と炎の拮抗が崩れようとしていた。
「くっ、死にぞこないがぁ! どこにこんな魔力を……!」
イヴは一歩後ずさる。
「くそ! この私がッ! ティオなんかにぃ!!」
さらにもう一歩。今やティオの炎はイヴのそれを完全に圧倒し、飲み込もうとしていた。
あと少し。
あともう少しで、二人の未来は現実になる。
「ああああッ!! この私が、この私がッ!! 炎で押し負けるなんてええええええッ!!」
そしてとうとう、イヴの炎は勢いをなくし、その操り手であるはずの彼女に牙を剥いた。燃え上がる紅蓮に包まれて、その姿は見えなくなる。
魔力を使い切ったティオが倒れるように膝をついても、炎は消えずに燃え続けた。
壁となった炎の向こうは窺い知れない。未だ退路は見つからない。自分達が取り囲まれている状況には変わりない。
しかし、自分達はあのイヴを倒したのだ。ルークにとって、そしてティオにとっても仇である邪悪を打ち破ったのだ。
そう思った。
「――なんてね?」
だけど、その幻想はあっけなく打ち砕かれた。
炎の中から声がした次の瞬間、ルークの身体は後ろへ吹っ飛ばされた。
「がッ!?」
岩壁に全身を打ち付け、視界に星が散る。何が起きたのかわからない。ただ一つ確かなのは、イヴがまだ生きているということだった。
顔を上げると、さっきまで灼熱に包まれていたはずのその場所に、火傷一つ負わずにイヴが立っていた。
「イヴ……!」
「ほぉんと、嫌になるわぁ。気持ちでどうにかなると思ったの? ひっくり返せると思ったの? この状況が」
怒りに声を絞り出したティオへ、イヴが余裕の笑みを浮かべて歩み寄る。
「私が負けるわけないでしょう? あなた如きに」
「ぅぐッ……!」
そのつま先がみぞおちに突き刺さる。そうしてうずくまったティオの頭を踏みつけて、イヴは快感に身を震わせた。
「あぁッ! 最高だわぁ。希望が絶望に変わる瞬間のその表情! 悪足掻きもおしまいねぇ? いい加減魔力も尽きたでしょう。存分にいたぶってあげるわぁ」
「や、やめろ!!」
岩から何とか身体を引き剥がしたルークが駆ける。ナイフを片手に、イヴへ突進する。しかし数歩進んだところでまた身体は宙に浮いた。さっきよりも高い場所にぶつけ、ベシャリと地面に落とされる。
「ぁ……が……」
「ごめんなさい、痛かったぁ? 私、風は苦手なの。手加減ができなくて、殺しちゃうかも」
「く、そ……」
ルークは悔しさに歯噛みする。結局何もできないのかと、まるで成長していない自分に怒りすらわいた。
でも、諦めるわけにはいかない。
そして立ち上がろうとして何かを踏みつけた。思わず目をやれば、それはさっきまで使っていたはずの神術書だった。
自分の愚かしさを責めている時間はない。ルークはそれを広げると、イヴに向かって呪文を唱えた。
「ライケプトッ!!」
「キアスピス」
しかしルークの神術は、イヴの魔法に簡単に弾かれてしまった。目には見えない頑強な魔法の壁は、神術の風に当てられたところでびくともしない。
それでも、ルークにはもう神術しかなかった。今度は土の神術書だ。そうしてイヴの足場を崩しティオとの距離を稼ぐと、すぐさま炎の神術書を開き呪文を唱える。
「キフラマッ!!」
「ジケプト」
だがそれも、風のような速さで跳躍をしたイヴには当たらない。
ルークの神術は、魔女を相手にまるで歯が立たなかった。
イヴは楽しそうに笑う。
「色んな神術を使うのねぇ。すごいわ。でも、遅い遅い。神術書は大変ねぇ?」
「くっ……」
動けないティオを置いてイヴはルークへと迫った。
「予備動作で攻撃するのがバレバレ。開いてるページを見ればどんな攻撃が飛んで来るかも簡単にわかる。その威力も弱いって、ねえ?」
イヴが笑う。邪悪な笑みだった。彼女は心底この状況を楽しんでいるのだ。
ルークは怒りと恐怖が綯い交ぜになって叫んだ。
「くそおおおおおおおおおッ!!」
そしてさっきよりも強い炎の神術を繰り出した。激しい炎がイヴを包む。しかし、歩みは止まらなかった。身体を覆った魔法障壁がそれを防いでいるのだ。
圧倒的戦力差。
イヴの魔法を前に、ルークの神術はあまりに無力だった。
「さ、もうわかったでしょう? 諦めなさい。投降すればこれ以上痛い目に遭わずに済むわ……今だけはねぇ」
炎の中から、変わらぬ笑みを浮かべてイヴが姿を現した。燃え盛る炎を背景に笑うその姿は、まるで悪魔のようだった。
もうルークには手がない。絶望の臭いが辺りに立ち込める。
そうして、どこかでカラスが啼いた。ルークはそれでもその瞳をしばらく睨みつけていたが、やがて身体から力を抜くと神術書を地面に放り投げた。
「あらぁ?」
「……もう、いいんだ」
「なぁに、やっぱり諦めちゃったのぉ?」
イヴがくすくすと笑う。
ティオの魔力は尽きた。ルークでは体術も敵わず、神術は効かない。そして何より、例えイヴをどうにかできたとしても後ろには神術師の大軍が控えている。
もとより勝ち目のない戦いだ。
こんなもの諦めて当たり前だと、そう思ったのだ。
しかし次の瞬間、顔を上げたルークは不敵な笑みを浮かべていた。
「もう、時間稼ぎはしなくていいんだ」
「はぁ?」
時間稼ぎ。その意味をイヴが理解するよりも早く頭上から声がした。
「そうね、遅くなってごめんなさいルーク。よく頑張ったわ!」
一体誰がと見上げたイヴの視線の先には、長い亜麻色の髪を風にたなびかせ崖の上に立つ少女と、カラスが一匹。
「……誰よあんた」
「初めましてイヴ・ナイトメア。私はフロー・エインズワース――魔女よ!」
それはフローだった。ティオのことは諦めろと、ルークに諭していたその人だった。
「来るなと言ったのに……」
ティオの声に、フローは悪戯っぽく笑う。
「悪いわね、ティオ。でも、あなた同時にこうも頼んだでしょう? ルークのことを頼むって」
それは今朝、ルークが門に向かって走っている時のことだった。
「待ちなさい」
その背中に声をかけたのはフローだったのだ。
「一体どこへ行くつもり?」
「……ティオを助けるんだ」
フローの冷たい視線を受けながら、それでもルークは堂々と言った。フローは少しだけ驚いたような顔をして、それでも変わらずに冷たい声で問う。
「勝ち目なんてあるわけないのに?」
「そんなのやってみなきゃわからないよ。戦わず、逃げるだけなら何とかなるかもしれない」
「それでも命がけよ」
「わかってるよ。でもこれは、そうするだけの価値があることだ」
ルークは譲らなかった。もう、何度も考えたことだから。
決心した様子のルークに、フローは一際冷酷な表情を作って最後の質問をした。
「ティオのせいで、あなたの家族は死んだのに?」
二人の間に沈黙が下りる。しばらく互いに黙って睨み合った後、ふとルークがその表情を崩した。
「そんなに辛そうな顔をするくらいなら、言わなきゃいいのに」
「なっ……」
「違うよフロー。姉さん達は、帝国のせいで死んだんだ」
そう言い切ったルークの表情に、フローは問答の無駄を悟った。ルークはもう覚悟を決めているのだ。それなら、自分にできることは一つしかない。
「……どうやるつもり?」
「それはまだわからない……けど、何とか助けだして、あとはあの通路から」
「馬鹿ね。あんなもの帝国が知らないわけがないでしょう」
「えっ……」
「いい案があるわ」
その言葉に、今度はルークが驚いた。
「手伝ってくれるの?」
「本当はあなたを巻き込みたくはなかったんだけどね。ティオの苦労がわかるわ」
「まさか、最初から一人で助けるつもりで……?」
「当たり前でしょ? 友達を見捨てるくらいなら死んだ方がマシよ」
そうして二人は作戦を決めた。
敵を撹乱した後、ティオの救出、敵の誘導をルークが。そして――
「――ここからは私の出番ってわけね」
新たな魔女の出現にイヴは怯んだ。しかし、すぐに背後の神術師達を思い出す。
どの道、数の利はこちらにあるのだ。今頃魔女が一人増えたところで、自分とこの数の神術師を相手に勝てるわけがない。
結局、状況は変わっていないのだ。
「なるほど、ティオかと思ったら、広場でのあれはあんたの仕業ねぇ? 芸達者じゃない!」
「お褒めの言葉をどうも。その節は私の使い魔ちゃん達がお世話になったわね。お返しをしてあげるわ」
「えらく自信をお持ちのようねぇ! でもこの数を相手にどうするつもりかしらぁ?」
イヴが両腕を広げて余裕の笑みを浮かべる。しかしそんな彼女の態度を、フローは鼻で笑った。
「あなた馬鹿ね。自分が今どんな状況にいるのか、まだわからないの?」
「……はぁ?」
「一つ、どうして私は救出をルークに任せてここで待機していたのでしょう? 二つ、霧を操る私が得意とする魔法は何でしょう? 三つ、マルクトは何の都と言われているでしょう? 四つ、さて私は今どこに立っているでしょう?」
その問いに、イヴはしばし考える。そして、答えがわかるに連れてその表情は驚愕のそれに変わっていった。
「あんた……まさか……!」
「わかったみたいね。よくできました。……ご褒美をあげるわ」
直後、フローの足元が光り出す。彼女が時間をかけて準備した、彼女の魔法を強化する術式の放つ光だ。
山の上から、不気味な音が響き始めた。それは徐々に大きさを増し、こちらへ迫ってくるように感じられる。
「場所が悪かったわね、イヴ。水の都、私のホームグラウンドに、まさか燃やすしか能のないあなたが来るなんてね? ……浄化の炎だっけ? ダメよそんなの。本当に綺麗にするんなら――灰も残さず押し流さなくちゃ」
水を操る魔女、フロー・エインズワースの姿がそこにはあった。
彼女の作戦はつまり、土石流で敵を一網打尽にするというものだ。そのためには強化術式を組む時間と、この位置関係が必要だったのだ。
「あ…………あぁ……っ!」
「さて、この数を相手に……何だったっけ? ま、好きなだけ撃ってみなさいよ。ご自慢の炎を、さ」
勝負は完全に決した。
そう、誰もが思った時だった。
「……なら……ガキも道連れだぁぁああああああッ!!」
「なっ!?」
突如、イヴがルークに飛びかかった。
それこそ最後の悪足掻きだ。
自身の死が決定して、それでも無意味な憎しみの爪痕を残す。そうしてしまう程に、彼女の心は汚れていた。
誰も反応できなかった――ただ一人を除いて。
ルークは素早く腰のナイフを抜き取ると、片手でそれを突き出した。その反撃に驚きはしたが、しかしイヴもすぐに反応する。すんでのところで身をひねり、イヴは何とかそれを払いのけた。ナイフがルークの手を離れる。これでもう、攻撃の手段はないはず。
さあ、後は憎たらしいこのガキを捕まえるだけだ。
イヴは手を伸ばした。払いのけたのとは別の手で、ルークの胸ぐらを掴もうとした。
しかし直後ルークが視界から消えた。一体、どこへ。
そう思った瞬間、彼女の身体は宙に浮いていた。
「…………ぁえ……?」
「ガキだからって舐めるなよ、おばさん」
ナイフに集中するあまり自分が足払いをかけられたことに、イヴは最期まで気付かなかった。
「何よ、ちょっとびっくりしたじゃない……ライゴ・フルウィオルスッ!!」
その直後、フローによる呪文の詠唱が行われた。
崖の上から現れた急流は、木々を押し倒し、土石を転がしながらイヴ達帝国軍をまたたく間に飲み込んでいく。
「あ、あああああああアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
あちこちで悲鳴が上がった。しかしそれも一瞬のこと。濁流はそれすらも飲み込んで山を下り、平原を駆け、シレンティウム湖へと流れ込んでいった。
やがて静寂が訪れると、そこには禿げた山肌だけが残った。フローの言う通り、水は灰も残さず全てを流し去っていったのだ。
もしかしたらそこには、ルークやティオを縛り付けていた絶望も混ざっていたのかもしれない。
「終わったんだね」
「……ああ」
ルークの頬を、自然と涙が伝った。
「姉さん、母さん……」
仇であるイヴを討ち倒して、初めて心から二人の死を悼むことができたのだ。空を見上げ、ルークは再び呟いた。
「全部、終わったよ」
彼らの間を一陣の風が吹き抜けていった。それはルークの涙を拭うように頬を撫で、また空へと上っていく。よく澄んだ、高い空だった。
「終わりじゃないわ。始まりでしょう?」
背中からフローに声をかけられる。
「むしろこれからが大変なんだから」
「……そうだね」
「もう! 本当に笑ってる場合じゃないんだからね!」
二人が顔を見合わせて笑うと、フローは拗ねたように頬を膨らませた。それが面白くて、ルークはまた笑う。自然にこぼれた笑みだった。
フローは呆れたように、それでもどこか嬉しそうにため息をつくと、未だ動けないティオに肩を貸して立ち上がらせた。
「つっ、フロー、お願いだからもうちょっと優しく」
「だから、そんな場合じゃないんだってば。敵もここに全員集まってたわけじゃないでしょう? 見つかる前に逃げなくちゃ」
「そうは言ってもね、私は脚に矢が」
「死にゃしないわよ。ほら! ルークも行くわよ!」
「痛っ、痛いっ! フロー、君わざとやってないか!?」
ルークも反対側からティオを支え、三人は歩いて行く。
きっとこの先も、辛いことや悲しいことはいくらでも彼らを待ち受けているだろう。
でも、それでも。
「さっ、まずは山を下りるわよ! 治療はその後で!」
「ぐっ……ルーク、君からも何とか言ってくれないか……」
「うーん、そうだね。まあ……頑張って、お姉ちゃん」
ティオと一緒ならそれも乗り越えられるような気がした。