魔王様の受難
ふ、と魔王は玉座の上で嘆息を漏らした。その呼気はわずかなれど、花を腐らせ、大地を汚染させる毒息だ。
小さな城ほどある巨大な黒竜―――暗黒腐竜、それが魔王の正体であった。今は威圧感と魔力を垂れ流し、玉座で物思いにふける。吐息すら毒を帯び、魔力は力なきものを不可視の圧力で押しつぶす。魔王の間、まさに魔王国における忌避地であり、魔王の絶対領域だった。毒息に、虫すら紛れ込めぬ。
ここにはまともな生者はいない……はずだった。
魔王がそれを感知し、長いひげをぴくりと揺らす。次の瞬間、小鹿が跳ねるように扉が開き、中から小さな影が魔王の間に飛び出してきた。
「まおうさまー!」
謁見の間の端、そこに位置する人間用の裏道から、満面の笑みの少女がととと、と走り出してきた。ひらひらとした桃色のドレスをなびかせながら、春の花よりも可憐に笑う少女。白真珠の光沢をもつ長い髪、夕日より紅い瞳。黒で統一された魔王の城郭において、とかく彼女は白く目立つ。
なめらかな頬は走ってきたせいだろう、ほんのり上気し、人形めいた美しい容姿を生の明るさで彩っていた。
「まおうさまー! 今日のおやつはパ……ひゃ!」
少女が桃色のドレスの裾を踏み、つんのめる。
ハラハラと見守っていた魔王は思わず人化の魔法を発動し、少女を抱きとめた。
「ふふ、まおうさまは、やはりお優しいのですね」
丸太のように太い腕にうっとりとしながら、少女が笑う。きらきらとした紅い瞳は、純粋に好奇心と胸いっぱいの好意を現し、魔王を見上げている。
その瞳が、わずかに陰る。しゅん、としながら少女は魔王の人化した熱い胸板に頬を寄せた。清楚な雰囲気のせいか、彼女のそれは子犬がすり寄ってくるような可愛らしいしぐさに見える。
しかし。
「今日は、お洋服を着ていらっしゃるのですね。胸毛は見せてくださらないのです?」
口をひらけば、残念なのだ。
極上の美少女――姫君は、胸毛がたいそうお気に入りだったのだ。
どうしてこうなった。
少女を抱きとめて遠い目をする魔王は――毛深い、ガチムチのおっさんだった。ちなみに、人化すれば美青年というセオリーは全く通用しない。魔王はあくまでガチムチであり、ビア樽のような体である。縦横が数倍になっているドワーフに近い。もっとも残念なことに、顔も普通のおっさんだった。むしろ、つぶらな瞳がチャームポイントだと部下が苦し紛れに褒める程度の容姿である。
「あ! お指にも毛が生えてるんですね!」
遠い目をしているうちに、指毛をもふもふされてしまった。そのうち、あらゆる毛をもふもふされそうで怖い。
若い子の思考が読めぬ。
魔王を戦慄させるのは、今のところこの娘であった。
「魔王様も、大概あきらめが悪いですよねー」
寝ているのか笑っているのかわからない、糸目の男が他人事のように告げる。
「お前に言われたくないわ! 今日こそ、何としてもあの娘を家に帰すんだ! 公爵、お前も協力しろ!」
「えー」
めんどくさそうにつぶやくこの男が、実は魔王国の第二位を保持している存在だ。その本性は堕神であり、魔王ほどではないにしろ、この世界のあらゆる生き物の嫌悪を呼び起こすものだ。
「いずれかぷちっと行きそうで怖い……」
魔王は煉獄の色をした瞳をくわっと見開き、何とも情けないことを言い出した。
可憐な美少女は、魔王の爪にも屈しない。毒耐性があるようで、魔王の吐息を全く気にしない。
巨大な黒竜が、小さな少女にまとわりつかれている姿は、笑い一択の光景であった。
巨大生物と小動物の組み合わせ。巨大生物がちっこいのに気を使っているのをみると、何となく和む。
それと一緒だな、と公爵以下、魔王の部下たちの見解である。
「じゃあーんー、神殺しにでも頼んでみたらどうです?」
「馬鹿なことを申すな! そんなことしてみろ、わしの髪が殺されるわ!」
気軽にやってくる神殺しなら、一応人間のカテゴリーなため、少女を人の国に戻すことができるだろう。しかし、少女がここにいる事態があの存在の怒りをあおりかねない。
「あー、そういやあの人、女子供には優しいですしねー」
「うむ……それに、しばらくは育児で忙しいといっていたからな」
神妙にうなずく魔王から飛び出した耳慣れぬ情報に、公爵は首を傾げる。
「そんな情報は知りませんがー」
「この間手紙でぼやいていたからな」
「文通してるんですか!?」
「うむ……」
糸目の公爵の目がカッと開く。しかし、そんなレアな瞬間を魔王は見逃していた。頭の中は、あの小さな生物のことで埋め尽くされているせいだった。
少女と魔王の出会いは、三日前に遡る。
「魔王サマーちょっと新しい魔法かけていいですか―それー」
「ちょ、おまえ、なにするきだ……ああああああああ」
公爵が適当に腕を振ると、恐ろしいほどの密度で編まれた魔方陣が出現した。
部下は上司を上司と思っていない粗略な扱いをする。魔王は魔王国最強であったが、割と常識人であり、穏やかな性質だ。部下のいたずらにも、おおよそ寛容さを示す。
しかたない、と魔王は人化し、事態の収拾に努めようとした。こういった小規模の術の場合は、人化したほうがやりやすい……が。
それがこの時はあだになった。
ッパアン!
「アッ」
公爵の術が発動した時、読みが甘かったのか、魔王の服がはじけ飛んだ!
「おっさんのヌードキモイですー」
「強制的に脱がされてその態度か貴様!」
公爵は嫌なものをみたと顔をそむけながら、魔王に向けて再度術を行使した。
「ちょっとどっかいってくださいー」
これもタイミングがまずかった。魔王が自らの衣服を再生しようと、魔力を動かしたときであったのだ。
「あ」
「あ」
余剰に場に満ちた魔力により、魔王はあっさりと転移した。
裸のまま。
「今日も同じ一日でした」
当の上で過ごす少女は、いつもと同じ日記をしるし、いつものように眠る準備をする。
彼女は王族であったが、姉になにかがあったときのための代替え品であることを理解していた。それゆえの、人ばらいされた環境であった。彼女の住まいは塔の近辺だけだ。国民には第四王女がいること自体、知らされていない日陰の身である。
「物語でしか見たことがないけれど、殿方ってどんな生き物なのかしら?」
遠く塔の窓から見える兵士たちは、ピカピカの金属鎧にしか見えない。それこそ遊戯盤の駒に似ていた。
「一度でいいから、殿方をみてみたいわ」
彼女は生まれてこのかた、父以外の男性を見たことがなかった。
だから、それを見ても驚くだけで恐怖はなかった。
人の気配に振り向くと、少女の寝台の上に裸のガチムチおっさんがいたことに、恐怖はしなかったのだ。
さすがの魔王もこの時は蒼白になった。明らかに可憐な少女の部屋で、裸のおっさん。
彼の中の常識的な部分が、このままでは社会的な死を迎えると告げている。魔王だけれども。
「あ、あの、お嬢さん、わしは怪しいものでは」
どう考えても怪しい。しかしそんな怪しい名乗りにも、少女は頓着しなった。
「殿方! あなたは殿方ですの!」
むしろ興奮していた。裸の魔王が自分の体を抱きしめる位、少女は興奮していたのだ。
「ふしぎ! いろんなところに毛が生えていらっしゃるのね?」
「み、みみみみないでええええ」
「ここも触らせてくださいませんか? ふわふわ……」
「さわ、わらわらららら」
すすす、と優雅に近づき、少女はためらいなく気になっていた毛をなでた。胸毛である。
「わたくしも、この毛がほしいですわ……何と言う柔らかさでしょう……」
「あああああ」
魔王のほうがいろいろと限界であった。
裸で転移したら、美少女がいた。しかもなんかわからないままセクハラされてる。しかも美少女は感極まった表情で、頬を染めて目を潤ませているのだ。
「すてき……」
美少女はうっとりとしたまま胸毛に頬を寄せた。ふんわりと白くまろやかな頬を、胸毛が受け止めてしまう。
これはもう、魔王ででなくとも涙目になるであろう。いろいろ大変な事態が起こりつつあった。魔王の鉄壁の理性も大変な事態を迎えつつあるのだ。
混沌とした状況に、ようやく変化が訪れることとなった。人の気配である。
静かな姫君の部屋で物音がしたのに気付いたのか、護衛が上がってくる。魔王がはっと周りを見回す。まずい、どこか結界に触れてしまっていたらしい。
「姫様! ご無事ですか!」
塔を駆け上がる足音。はっとした少女は、魔王の巨躯を隠そうとしたが明らかに無理だった。魔王にとっては少女の家具など小人サイズなのだ。隠すところなど、ない。
その時、のんきな声が部屋に割り込んだ。
「へーい。迎えに来ましたー」
公爵が陽気に壁からにゅるりと登場した。その姿に、少女はさっと魔王の陰に隠れる。その動きに、魔王が理不尽な気持ちを抱いた。あっち公爵、こっち魔王。本来どっちが怖いかといえば、こっちのはずなのだが、なぜか懐かれているようだ。
「あー……すみません、お楽しみだったようデスネ」
気まずそうに、しかし紳士的に、公爵は一礼して帰ろうした。そのひょろい肩を魔王はガシリとつかむ。
「いろいろ誤解だ! わしも帰る!」
「あーそうですよね、おっさんのヌードは視界の暴力ですし。そーれ」
気の抜けた声とともに、公爵は転移魔法を発動させる。
見慣れた玉座の間に、魔王は安堵の息を漏らした。まだ全裸だけれども。
「おっさん? あなたはおっさんとおっしゃるの?」
「ああ、いや、わしは……」
ひょこ、と魔王の後ろから現れた少女に、公爵がいつも通りの気の抜けた声を漏らした。
「あーつれてきちゃったみたいですねー」
「も、元の場所に帰しなさい!」
「え、拾ってきたの魔王さまなのにい」
理不尽な部下をよそに、魔王は少女に向き合った。
「すぐ家に帰すから。怖がらなくても……」
「まあ! 帰りませんわ! わたくし、殿方とお会いするときは、結婚相手の方だと教えられてきましたの。おっさん様が、わたくしの旦那様ではございませんの……?」
小動物のしょんぼりしたまなざしに、魔王は勝てなかった。
「魔王様のロリコン」
「よ、嫁ではない!」
「えっ……」
そして少女は城に住み着き、冒頭に至る。
今日も魔王について回る少女を、城の住人はほのぼのと見守っている。
「ところで、あの国に魔王を殺せる女勇者が生誕したと聞いたことがあるんだよねー。王族でー、毒耐性がハンパナイかんじのー。でも、ニンゲンがその子を逆に怖がって、使ってないとかさー」
それは昼下がりのおやつ時。紅茶を優雅に差し出しながら、公爵は噂話を口にした。
「転移魔法を失敗といってもー、……あの日の失敗は規模が大きすぎた。君が干渉したのだろう?」
途中から公爵の口調が変わる。殺気を乗せた視線に、姫君は臆することはない。
塔の姫君は笑いながら言った。
「そんなむずかしいこと、わたくしにはわかりませんわ」
姫君は優雅に紅茶を一口含み、
「でも、運命の出会いがほしいと、神様にお祈りはしましたのよ?」
と、とろけるように笑うのだった。