1 二度と元には戻らない
ひとりになったとき。
あの光景を思い出す。あの感触を思い出す。
1 二度と元には戻らない
あの事件から3日後。生徒が登校するのはまだ先だが、教師たちはいち早く授業を再開するべく復旧作業に追われていた。俺も例外ではない。幸い保健室の被害はほとんどなく、代わりにカウンセラーの人たちと打ち合わせを重ねていた。
生徒たちの中には、深い心の傷を負った者も少なくない。みんなあのときは明るく振舞っていたが、3日経ち、5日経って、あのときを思い出したときに、それがトラウマになっていることもあり得る。それを察したのか、教育委員会からカウンセラーが何人か派遣されてきたのだ。
「それじゃ、よろしくお願いします」
大体の生徒たちはカウンセラーに任せて、俺は特に関わりが深かった生徒を診ることになっていた。具体的には…人質の中でも壇上に上げられたヴァレンタイン、藍上ルカ、奈月の3人と、テオだ。特にテオは、アレックス先生の話だと、ずっと部屋にこもりきりで、祐未が呼びかけても扉越しに話しはするが出てこないらしい。
会議室を出ると、アレックス先生とすれ違った。
「あ、アレックス先生。テオの奴、どうしてますか」
「相変わらずだよ。祐未も直樹も裕樹も心配しているんだ」
「先生もでしょう」
「そうだね。…霧」
「なんですか」
「大丈夫かい?」
「え」
「顔に疲れが見えるよ。クマもできている。しっかり休めていないんじゃないかい?」
「いや…大丈夫だ。こうでもしてないと、むしろ気分が沈んでな」
「霧…」
「…こういうとき、俺たち教師がしっかりしてないとな。生徒たちが不安がる」
話しながら、今朝の朝礼でレスト先生が言った言葉を思い出す。
『この学校は、この学校創立以来の事件に見舞われました。生徒たちは心身共に深い傷を負ったでしょう。目の前であんなことが行われたのですから。それに、我が校の校長が、極限の精神状態の中で、凶行に走ったという事実も、すでに生徒たちの間で知れ渡っていることと思います。恐らく、いや絶対に、あの事件が起こる前の花神楽高校に戻ることはできません。しかしだからこそ、我々教師がしっかりと先導し、生徒たちが一刻も早く日常に戻れるよう、努力しなければなりません』
「だからここで立ち止まってるわけにはいかない。1週間後には授業再開したいですし。じゃあ俺はこれで」
何か言いたげなアレックス先生を残して、俺は保健室に戻った。
カウンセラーの人との打ち合わせはかなり長くかかったらしく、もう夕方に差し掛かっていた。台風一過の青空が白くかすみ、そろそろ夕暮れがやってくる頃だろう。
必要な書類を纏め終わるころにはすっかり保健室が夕暮れに染まっていた。今日の仕事は終わった。荷物をまとめ、白衣を脱いで帰ることにする。
ハンガーにかかった白衣が、真っ赤に染まっているような気がした。
そんなはずはない。あれはすぐに捨てたはずだ。
夕日だ。
夕日に照らされているだけだ。
振り払うように視線を外して、保健室を出た。
修復工事をしている体育館の前を通って、校門に差し掛かったとき、大きな影が立ちはだかった。
「よう」
「…西野」
「学校、まだ入れねぇんだってな」
「だからってここで待ってたのか?俺を?」
私服を着ている西野隆弘は、本当に高校生には見えなかった。普段だって制服がコスプレに見えるくらいだ。
そして、俺が密かに気にかけている生徒でもある。
「今帰りか。車か?」
「今日は電車なんだ」
「時間あるか」
「駅までの歩きで足りるか?」
「…あぁ」
あの日、空港であったことは、周囲には詳細は話していない。散々報道もされたが、それはマスコミというフィルターを通したものに過ぎない。本当の一部始終を知っているのは俺と、この西野だけだ。厳密にはもうひとりいるが、その人は今この場にはいない。
つまり西野は、いくらそうは見えなくても18歳の身で、あの惨状を目にしてしまったということだ。今は変わりないように見えるが、胸の内に何を感じているかは計り知れない。
「俺より自分の心配しろよてめぇ」
心を見透かされたかのように西野は俺を見下ろしてきた。
「お前こそ大丈夫なのか?アレはドラマでも何でもない、現実に起きたことなんだぞ」
「現実逃避するほどガキじゃねぇ」
「でも高校生はまだ子供なんだ。お前だってな」
「…子供、か。久しぶりに言われたぜ」
「こういうときは、大人に任せておけばいいんだよ」
「だからたまには自分の心配しやがれっつってんだよ」
「…ありがとな。でも、俺は大丈夫だ」
「どん底には、一度落ちてるからな」
感覚が失われたはずの左目が痛んだ気がして、思わず手で押さえた。