表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ぬしさま  作者: 里桜子
32/36

また会えるよ

 有明、夜明け、暁、東雲、曙、黎明、彼誰時かわたれどき

 日本語の中には朝、明るくなるまでの表現が細かくある。朝は別れの時だからっていってたのは高校の時の古文の先生だったような気がする。

 万里が住職さんに挨拶もせずにお寺の本堂を出たのは、まだ有明の月が残る、そんな時間だった。

 有明は別れの時。

 まだ暗い。いつもならもし目が覚めても夜だと認識して寝なおすだろう。しかしこうして歩いてみると分かる。確かに夜明けを迎える少し前、暗闇は弛緩していて、夏だというのに空気は冷たい。けれども確かにそこには目覚めの気配がある。風に揺れる植物も決して眠っていはいない。

 万里は砂利を踏みしめ歩み始めた。

 何にも考えられない頭の中で、清良を泉に帰すことだけが頭の中を支配していた。出来る事はこれだけしかない。今、これを止められたらもう、多分立ってさえいられない。

 お寺からおばあさんの家までは一本道で車だったら10分もかからない距離のはずだが、実際にこうして歩いてみると結遠く感じる。それでも万里は一歩一歩前に進んだ。清良がいった「積み重ねる」という言葉が頭に浮かぶ。そう、こうして時を積み重ねて別れの時へと向かっていくのだ。

 そうして万里が泉に着いた時、すでに周りは薄明るくなっていた、彼誰時だ。

 万里は泉を一折見渡してから、傍でしゃがみ込んだ。そして抱えていた箱からオオサンショウウオを包んでいるハンカチをそっと取り出して手のひらに乗せた。

 万里は息を止めた。

 水を徐々に清良を乗せた手のひらに流し込むようにして水の中に沈めていく。するとまるで花びらが開くように自然にハンカチが揺れて水泡を上らせながらユラリと開いていった。

 中のオオサンショウウオは、水分が抜けていて少し干からびかけていた。小さくコポンと音を立てて身体が揺れて、泡と共にゆっくりとオオサンショウウオは浮かび上がる。

 万里はその様子を目を反らさずにじっと見つめていた。

 その時、不思議な事が起きた。

 オオサンショウウオが波がない泉の中で、スウッと浮き上がるとそのまま、まるで、水中を泳ぐかのように泉の奥へ、引き込まれていったのだ。オオサンショウウオは、いや、清良は振り向くこともなく、名残惜しそうに身体を揺らすこともなく、一直線に底に潜っていく。そして、姿を消す直前、ゴボンと大きな水泡が上り起ち、それが波を立てて万里の泉に沈めたままになっていた手に波紋を伝えてきた。

 まるで家に帰っていったようだ、と万里は思った。

 なによ、帰りたかったんじゃない、万里はその場で座り込んだ。ジーンズが水を吸ってお尻に水の温度を伝えてくる。清良を呑み込んだ泉の水はほんのりと温かかった。

 それはまるで泉が清良の帰還を喜んでいる様でも清良が泉に帰れて喜んでいるようにも思えた。

 何よ、今までカラッポだった万里の中に怒りが込み上げてきた。

 あんな姿になってまで帰りたかったんじゃない。帰りたいなんて言わなかったくせに。私の傍にいるって言ってくせに、人は変わって自分を置いて行くって言ったくせに!

 置いて行ったのは、清良じゃないか。

「何よ」

 万里は泉の中に座り込んだままで大きな声で叫んで両手を水面に叩きつけた。何度も何度も何度も。水しぶきが顔に掛かっても万里の全身を濡らしていく。それでも叩いた。何よ、何よ、怒りなのか、悲しみなのかそんなことさえもわからない。それでもこうせずにはいられない。

 会いたいの、出て来てよ。私の願いを叶えて。

 万里は服を着たままユラリと立ち上がった。。

 出て来てよ、汚すなって言ったじゃない、怒ってよ、笑って欲しいなんて思わないから。好きって言って欲しいなんて言わないから。

 万里は泉の奥へどんどん進んだ。最初に思った通り泉は深く万里を呑み込んでいく。

 でも、足りない。もっと、もっと私を呑み込んで。清良の元へ連れてって。

 だって、会いたいのも傍にいたいのも私なんだから、清良が勝手に一人で行くだなんて許さないんだから。

 その時、ふいに万里の手が引っ張られた。水の中で身体が傾く。

 私を連れてってくれるの?清良の元に

 身体が動いて行く。しかし万里が引っ張り出された先は清良のいる泉の底ではなく元の水辺だった。

「何やってんだ!万里ちゃん!」

 ずぶ濡れで岸に座る万里をものすごい形相で見下ろしてたのは、万里と同様にずぶ濡れになったおじいさんだった。おばあさんと住職さんも傍に立っていた。 

「居なくなったって住職さんから連絡があって、心配で来てみれば……」

 何やってる?心配?誰を心配しているの?もしかして私?

 万里は大きく目を見開いておじいさんを見た。カラッポだった頭に何かが流れ込んでくる。それは暖かい何かだった。

 暖かい人の気持ち。

 でも、おばあさん、私、これしか思いつかなかったの。清良を帰してあげるしか思いつかなかったの。

「……ふ……」

 清良がいなくなってから初めて万里の目から大きな涙あふれ出た。一旦流れ始めたそれは次から次へと止まらない。ついには声も抑えられなくなってその場でしゃがみ込み川砂を掴んで、子供みたいにワアワア声を上げて泣いた。

「万里ちゃん」

 おばあさんは顔を砂だらけにしてワアワア泣く万里を抱きしめた。万里は自分の身体を包んでくれるおばあさんのシャツからは土の匂いを感じ取った。

 そうか、畑仕事を放り出してきてくれたんだ。

 ごめん、ごめんなさい。ごめんなさい。私、自分のことばっかり考えてた。私が清良を想うように私にも心配してくれる人がいるって事を忘れてたよ。

 万里はおばあさんの土の匂いがしみ込むシャツを掴んでまた声をあげた。自分の勝手さは身に染みるのにロクにみんなに謝る事ができない。それどころか小学生みたいにおばあさんの手ぬぐいで涙を拭かれて鼻も拭かれて「家に帰ろうか」という優しい言葉にただ、うなづくしかできなかった。


 おじいさんの家に帰って、万里はおじいさんが涌かしてくれたお風呂に入ってすっかり冷たくなっていた身体を温めた。ずぶ濡れのだった服は全部、おばあさんが洗濯してくれた。すっかり明るくなった日差し下で自分の洋服が物干しに干されて風に元気よくはためく。

 そして、代わりに差し出された服は、今度、万里が遊びに来た時の為にと朝顔の柄の浴衣を甚平に作り直してくれたものだった。

 それを見た万里の目からまた涙が溢れ出した。孫でも何でもない私を待っていてくれたのが嬉しくて。

 ありがとう、自分の気持ちばかりを守ってきた自分がこんなに想われていたなんて。

 泣きながら、感謝をしながら万里はおばあさんの作ったごはんを食べた。

 時々ごはんつぶを喉に詰まらせて周りを慌てさせた。それでも万里は食べるのを止めなかった。涙が混じったごはんは涙でしょっぱくて、でも、おばあさんの作ったごはんは美味しくて。

 食べ終わったあと、ゆっくりとお茶をすすって、それから万里はおじいさんとおばあさんと住職さんの前でこの夏の出来事を話した。

 泉でぬし様に出会ったこと。いっしょに東京のマンションで暮らしていたこと。化身だったオオサンショウウオが死んだこと。

「なるほどね」

 住職さんは腕を組んで、時折うなづきながら万里の話を聞いてくれた。おじいさんもおばあさんも話を否定なんかしなかった。

「実はね、万里ちゃん」

 切り出したのは住職さんだった。

「魂移しの儀式は本当は百年に一度執り行わなければならないんだよ。だけど、ご時世もご時世だし、守っていた犬井の家も今はそんな力もないし、ってことで取りやめになったんだ。だからね、ぬし様は自分の宿る肉体がもうすぐ滅びるのをご存じだったんだと思うよ。」

 そういえば、清良は前に「もう必要がない」と言っていた。「人は自分で解決できる」と。あの頃からもうすぐ自分が居なくなることを知っていたのだろうか。

「それから、犬井の家のことに関しては続きもあってね」

 おじいさんはそういうと言いにくそうにボリボリと頭を掻いた。

「まぁ、何だ。儀式の為に腹貸しをした女の子を下女として引き受けたはいいが、なんか、息子といろいろあったようでねぇ…奥さんが相手を世話して祝言……まぁ早い話が追い出そうとしたんだが、息子を止めるまでには至らなかったそうで…そしたらさ、夢にぬし様が出てきたそうだよ」

「え?」

 万里は顔を上げた。それは夢にみた光景だった。でも、自分は縁談が決まりそうだった時までしか見ていない。もしかして、あのあと源一郎様は…ミツさんに想いをぶつけたのだろうか。

「何でも、随分お怒りだったそうで。犬井の庇護は取り消すと。それから犬井の家は、跡取りが生まれなくなって、まぁ、その先は万里ちゃんの知っての通りだ。」

 犬井家は売却が決まった。

 そんな事が本当にあったんだ。

「神様の気持ちを推測するのは何だけど、きっと、ぬし様は万里ちゃんが気に入っていたんだと思うよ。だって、全然、泉から動かなかったのに、最後は万里ちゃんの傍にいたんだから。最後ぐらいは思いのままにしたかったんだろうよ」

 住職さんの言葉は万里の心に染みた。

 そうだろうか、そう思っていいのだろうか、清良も私の傍に居たかったって思っていいのだろうか。これは不本意だったと思ってもいいのだろうか。

 万里の目から再び涙が溢れ出した。そして沢山泣いた。泣いて泣きつかれて眠るまで、泣いた。

 

 そして、万里はまた夢をみた。出てきたのはミツさんだった。

 彼女は万里の目の前に座っていた。

 第三者的に彼女を見るのは初めてだ。

 ミツさんは粗末な着物姿だけじゃなくて綺麗な白いブラウスとレトロなラインの青いフレアスカートを穿いていた。その装いがほっそりとした身体のラインを引き立てさせている。

 綺麗だな、と万里は思った。

 そんなミツさんは万里に向かってフフフと愛らしい顔で穏やかにそして柔らかく笑った。

「見つけられるよ」

 何を?何を見つけられるの?尋ねてもミツさんは答えない。

「大丈夫。目を凝らして、耳を澄ませて。ちゃんとそこにいるわ」

 どういうこと?何、何の事?

「万里ちゃん、またね」

 またね?どういうこと?また会えるの?

 ミツさんの姿はどんどん遠ざかっていく。そしてついに見えなくなって、万里は目が覚めた。

 雀のさえずりが万里を迎えた。翌日の朝になっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ