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ぬしさま  作者: 里桜子
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瞳のお月様

 本当に悲しい時は涙もでないらしい。

 万里はまるで他人事のようにそう思いながら仰向けで水に沈むサンショウウオを見ながらぼんやりと考えた。

 意味が分からない。人は自分を置いて行く、人は変わってしまう、と自分に行ったのは清良ではないのか。

 未来も過去もない、ただ漂う者だ、といったのは清良ではなかったのか。

 なのに。

 もしかしたら見えないだけなのだろうか、見えなくなったのは自分が「清らか」ではなくなったからだろうか、万里は自分の目が乾くのも知らずに考えた。

 清良に会うまではこんなに欲張りじゃなかったはずだ。恋なんかしなくてもいい、と思ってたし、好きだと言ってもらいたい相手だっていなかった。一緒にご飯を食べたいと思う人だっていなかったし、デートしたいとも思わなかった。起きるのも寝るのも一人でいいって思ってたのに。

 万里に寂しいという気持ちを教えたのは清良だ。それだけじゃない、愛しいも愛されたいも欲しいと思わせるものを与えたのは清良だ。欲というものを教えたのは清良なのに、それなのに、これはどういうことなのだろうか。

 夢だ、夢に違いない。意地悪な清良は自分を驚かせようとして、こんなことをしているに違いない。もう少し待っていたら清良は再び動き出してあの綺麗な金色の瞳を輝かせてくれるに違いない。「万里」って呼んでくれるにちがいない。

 清良が自分を置いて行くなんて、そんなのありえない。

 そんなことを考えながら万里は一日中そこで座り込んでいたが、結局、万里の期待通りに動いてはくれず、ただ白い腹を水辺に浮かばせているばかりなのだった。

 そして、万里もとうとう立ち上がるしかなかった。


 翌日、万里はバイト先に祖母が危篤だからと嘘をついて三日間の休みを取った。忙しい時期のしかも人手がいない中でもかかわらず電話先の店長は以外にも心配そうな声で許してくれた。

 万里は嘘をついたことには少し胸が痛んだが、そのまま電話を切った。そして、浮いたサンショウウオを水から揚げてハンカチに包んだ。丁寧に、身体に傷をつけないように気を付けながら箱に入れると大事に腕の中に抱えた。

 行こうか、清良、最後の旅に、一緒に行こう。

 そのまま電車を乗り継いで、清良と出会ったあの泉へと向かった。

 お盆に父と幸恵さんと一緒に車で行ったときも遠いと思った道のりだった。けれども乗り継ぎながら走る電車はもっと時間がかかった。

 万里はこのままでもいい、と思っていた。このまま清良を抱いたまま一緒に過ごせるなら、それもいい。

 でも、このまま清良の身体を朽ちていくにまかせるには、やはり抵抗があった。この身体はミツさんがあんなに辛い思いをしながら産み落としたものだ。そして、清良も100年の間使ってきたんだ。

 最後まで敬意を払いたかった。

 電車の中の人は、東京から離れるにつれ、どんどん少なくなっていく。 

 まるで、万里を取り残すように。

 ホームで電車の長い乗り継ぎの時間をつぶしながら清良と会う前って何してたっけと思う。そうか、いつもスマホと遊んでるって父に言われてたっけ。

 でも今は、スマホの電源を入れる事すらしたくなかった。清良と話していた方が楽しいって知ってしまったから。

 聞きたいのは清良の声だけでそれ以外の声は雑音でしかなかった。

 最後になるはずの電車に乗り込むと車輌に乗っているのはついに万里だけとなった。

 窓辺で頬杖をついて車窓から外を見てみると、のどかな田園風景が広がっていた。少し窓を開けて風に吹かれてみる。強い風に吹かれて息が苦しくなりながらもそれでも外を見つめているとランドセルを背負った小学生がはしゃぎながら田んぼのあぜ道を走っているのが見えた。

 そうか、もう9月だ、夏休みは終わったんだ。自分も来週から授業が始まる。時は流れているんだ。

 電車を降りると今度はバスに乗った。揺れる、前に来た時もものすごく酔った。父が静かでいいって笑ったのを万里は思い出した。それで頬を膨らましたことも。

 その無邪気な日々はすごく遠い日の事のような気がした。この1ヶ月はそんな風に感じてしまうぐらい色々なことがあった。

 バス停で降りると外は薄暗くなっていた。家を出た時は朝だったのに日本は意外に広い。

 万里は歩き出した、その時。

「万里ちゃん?万里ちゃんじゃないの?」

 誰かに呼び止められるなんて思いもしなかった万里は下を向けていた顔を上げた。

 自分の身体に沿うように軽トラが止まっていた。

「どうしたの?一人?」

 麦わら帽をかぶっていたから万里には誰だかわからなかった。でも、もう一度「どうしたの?」と言って帽子を取った顔には見覚えがあった。

「住職さん。久しぶりです」

 万里は感情の入っていない声でペコリと頭を下げた。

「この辺は暗くなると女の子の一人歩きは危ないんだよ。どこいくの?おばあさんの所?」

 万里は無表情で首を振った。

「泉に行きたくて」

 住職さんは万里の様子が尋常じゃないと思ったらしく、軽トラを降りると遠慮する万里を無理やり車に乗せた。

 軽トラが痛快なエンジン音で走り出す。

「こんなに暗くなっちゃ、泉なんて無理だよ。今日は寺に泊めてあげるから明日にしなよ」

「でも」

 万里は返事を渋った。早く清良を泉に帰してあげたい。

「いいよ。夏休みに柔道教室の子供たちが合宿した時の布団が残ってるから。本堂は広いけど、野宿よりもいいでしょ。」

 おばあさんの家は村の外れだ。確かにここから歩いていくのは時間が掛かる。それに連絡さえもしていない。

 何も考えてなかったことに気が付く。

 仕方なく、万里は住職さんの好意に甘える事にした。

 住職さんの奥さんは、いきなりやってきた万里に驚きを隠せないようだったが、嫌な顔をしたりはしなかった。

「ごはんは?まだでしょう?」

 住職さんの奥さんの料理はおばあさんに負けず劣らず美味しそうに万里の前に並んだ。

 でも、万里は箸を持つことさえできなかった。こんなに美味しそうなのに、食べ方すら忘れてしまったかのように手が動かない。

「すみません。疲れているので、先に休みます。」

 万里はやはり無表情でそう言って頭を下げるとホカホカと湯気が立つお皿から背けるように逃げるように立ち去った。

 それを住職夫婦が無言で見送り、そして万里がいなくなった後で顔を見合わせた。

 万里はそんな住職夫婦にはまったく気が付かずそのまま本堂に入って、閉め切ってあった戸を少し開けた。

 東京とは違う気持ちがいい爽やかな風が入ってきて頬をくすぐる。

「こんな綺麗な空気から離れたから寿命が縮まったんじゃないの?」

 万里は大事に抱えた箱の中の清良に向かって話しかけた。

 あの世の者ではないと言っていた清良は今、どこにいるんだろう。魂が乗り移るって言ってたけど魂移しの儀を行ってない場合がどうなるんだろ?何にも聞いてなかった、何にもわからないよ、清良。しかしもう清良は万里の疑問に一つも答えてくれない。

 万里は本堂の戸にもたれてサンショウウオが入った箱を膝に乗せたまま、綺麗な月を見上げた。

 清良の瞳の色と同じ色のお月様が万里を照らしている。

 万里はそんな月を清良を見つめるような気持ちで見つめた。

 見えなくなった清良ももしかしたらこんな風に自分を見つめているかもしれない、と思いながら。

 そして、清良が入った箱を膝に乗せ、そのまま朝日で月が見えなくなるまで、本堂の戸にもたれて座りながらボンヤリと月を眺めていた。

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