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ぬしさま  作者: 里桜子
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スケッチブック

 その日、清良と一緒に出掛けた映画は楽しみにしていたものだったにもかかわらず、一番面白かったのは予告編というような非常に残念な映画だった。

 いつもだったら、文句を言わずには済ますことなどできない万里なのだが、今日はそんなことは気にもならなかった。どうでもよかった、と言ってもいい。

 何といっても清良と並んで歩くという、諦めていたことが実現したのだ。

 実際に歩いている今でさえも、まだ、フワフワと雲の上を歩いていているようだ。

 しかし、これは夢ではない。今、すれ違った女の子は清良の姿は見えていたようだったが、隣で一緒に歩いていた女の子は気が付かなかった。話しの合わない二人は青ざめた表情で万里達を振り返る。

 その周りの反応は二人が並んで歩いているという証拠だ。

 万里は、柄にもないと思いながらもそっと清良の袖を掴んで目を伏せた。

 ねぇ、清良、私がどんなに嬉しいかわかる?流石に話しかける勇気はなかったが、心の中でそう清良に話しかけてから清良を見上げる、

 すると清良と目が合ってしまった。どうしよう、浮かれてしまう。古い映画みたいに雨の中を踊りたくなるくらい。こんなに嬉しいのは人生で初めてかも知れない。

 だから、映画のデキなんか、周りの反応なんか、今日の万里はどうでもよかった。

 そんな風に二人で楽しく過ごして、家に帰ると、清良も機嫌よさそうな笑顔を見せた。

「人は面白い物を作り上げるな」

 清良が笑いながら感心したようにうなづく。万里が「ストーリーはイマイチだったよね」と言うと、更に破顔してうなづいた。

 意見が一致しただけで嬉しいなんて、と万里は思う。

 その後も万里達は話しながら何度も目を合わせた。その度に微笑み合う。バカップルみたい。今まで見かけた時には呆れながらバカにしてたのに、そうは思うものの、万里には止めることなどできない。

 そのうち、笑い合うだけじゃ物足りなくなって、自然に唇が重なって、万里は清良の胸に身を沈めながら清良の銀色の長い髪に指を絡ませた。

 絹のような光沢を放って、滑らかで、艶やかで、なんて綺麗なのだろう。

「蜘蛛の糸みたいにも見えるね」

 万里はそういって、清良に微笑みかけた。夏休みにおばあさん家で見た軒先の蜘蛛の巣についた朝露が輝きを放っていて宝石みたいに綺麗だったのを思い出したのだ。

「万里は罠にかかった蝶か?」

 清良は、万里の頬に唇を寄せながらクスクス笑う。

 もう、そんな気障な言い回しどこで覚えたの?やだな、そんな事を考えるなんて。まるで、嫉妬してるみたい。嫉妬する女なんてつまらないと思っていたのに。

 万里は苦笑する。

「今までたくさんの蝶が罠にかかったんでしょ?」

 言ってしまってつまらない事聞いたな、と、万里は少しだけ後悔した。

「万里だけだ」

 うそつき。長い時を過ごして来たくせにそんなワケないじゃん。でも、いいか。騙されてあげる。

 騙されてるのに嬉しいなんて、変なの。

「清良、好き」

 万里は清良の懐のより深い所に身を埋める。

 清良は万里の体温ごと受け止めて、万里を包み込む。それだけで頭の中が蕩けそうになってくる。

「清良」

 万里は何度も何度も清良の名前を呼んだ。声が枯れてしまうまで。

 もっと、もっと、ねぇ、今夜はずっとこうして抱きしめていて。私を放さないで。


 その夜、万里はミツの夢を見た。

 夢の中のミツも幸せそうに絵描きの陽一さんと蔵の中で並んで座っている。

 ミツさんを見る陽一さんの目は薄暗い蔵の中でもわかる暗い輝いていて、恋する瞳、そのものだ。

 今なら、私だってそうわかる。清良が自分を見る瞳と同じだもの。万里はミツの頭の隅で微笑む。

「だからって、黙って持って来てはいけないのではないのですか?」

 陽一さんの手の中のモノを見てミツさんは恥ずかしそうに微笑む。

「黙って持ってきたわけじゃないよ。今日、絵を描きに行った家でもらったんだ」

「本当ですか?」

 陽一さんは手の平の白いモノを半分にして、笑うミツさんの口を開けさせてそれを入れた。

 甘い、甘い、恋のような甘い、味。具体的に云えばお饅頭。

「美味しい?」

 陽一さんはミツさんがうなづくのを確認すると、自分も口の中へ入れて微笑み合う。

「あと少しで仕事が終わるから、そしたら、ここを逃げよう。大丈夫、なんとかなる」

「でも」

 ミツの脳裏に仕送りをしている実家の小さな弟や妹の顔が浮ぶ。しかし、ミツは陽一さんの「大丈夫」という言葉にすがりつく。

 そこに、夢を見た、と言っていい。

「大丈夫、なんとかなるよ、贅沢はできないけど」

「はい」

 微笑む陽一さんにミツも微笑んでうなづく。

 万里はミツの頭の中でこの二人は昨日の私たちと同じだ、と思った。甘くて、幸せな、時間。

 しかし、

「ミツ!ミツ!はいるかい?」

 表で大きな声が響く。

 二人で甘い時を過ごしていたミツは、慌てて立ち上がると蔵からそっと出た。

「はい、ここに」

「ああ、どこにいたんだい?奥様がお呼びなんだよ。早く」

 呼ばれたミツは一瞬、眉をひそめたが、主人の呼び出しなど断ることなどできるはずもなく、母屋へと向かう。

 しかし、裏口へと向かう途中の木陰で再び今度は男の低い声で「ミツ」と呼び止められた。

 奥様の息子、この家のお坊ちゃま「源一郎さま」だ。

 源一郎さまは、ひどく不機嫌な様子でミツの顔を眺めていた。

「何か、ご用でしょうか」

 ミツは、源一郎様と目を合わさないようにしながら頭を下げる。

 しかし、源一郎さまは、そんなミツさんの腕を掴むと自分の方へ引き寄せた。

「何をなさいます」

 ミツさんは顔を背ける。しかし、そんな余所余所しい態度を取るミツさんへ源一郎さまは顔を近づけた。

「断れ、いいか、何があってもだ」

 その時はミツは何を言われているか分からなかった。

 しかし、すぐにミツは源一郎さまが何を言っているのか理解した。

 母屋の奥の座敷で待っていた奥様がミツを呼んだのは、他でもない、ミツへの縁談話の為だったのだ。

 断れ、源一郎さまに言われなくても陽一さんという恋人がいるミツは断りたかったけれども、主家の奥様からの縁談を断ることなど出来ようもなく、奥様とて、そんなことを百も承知だ。

「お前のような身上には、もったいないくらいの話なんだけどねぇ、ぬしさまの宿主だったお前だから、特別に探したんだよ。お前の家族への仕送りもこっちで何とかするから心配はないよ」

 随分と恩着せがましい言い分だ、と万里は思った。

 お前のような身上とは、つまり、買われたも同然のミツのことを指しているのは間違いないし、特別、というのも単なる言い訳に過ぎない事は万里でなくともミツでもわかることだった。

 わかるのは、ただ、一つ。使用人にすぎないミツに恋をする息子、源一郎から遠ざけるためだ。

 ミツに恋人がいても、ミツに源一郎への気持ちなど少しもないことなど、この奥様には関係ないのだ。この人にとって、大事なのは、苦慮しないといけないのは、一人息子の源一郎と使用人のミツに間違いが起きないようにすること。息子の将来に傷をつけないこと、ただ、一つ。

 後のことなど、どうでもいいのだ。

 しかし、そんな自分勝手で一方的な申し渡しでさえ、はねつけることなど出来ない弱い立場のミツは、ただ、ただ、下唇を噛んでうなづくことだけしかできなかったのだった。

 なんて、なんてこと。

 ミツの気持ちは十分すぎるほど分かる万里だったが、万里にしても唇を噛むことしか出来ないのだった。

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