手がかり
万里は池の近くのベンチに腰を下ろした。
他人事のふりをして池の方に目をやれば、周りの騒ぎは益々大きく、ついには教授のお出ましになるまでの大きさになってしまっていた。
すごいな、と驚きを隠せない万里は、木陰に入るとベンチに座り、コンビニ袋からおにぎりを取り出すとパクリとひと口頬張った。
『エロ主って大した力の持ち主だったんだね』
声に出さずに自分の中に語りかけるのは結構、難しい作業だ。
「気が流れるようにしただけだ。大したことはしていない」
語り掛けるのは難しかったが、帰ってきた答えを認識するのは難しくなかった。
すぐに、こんな事は造作もない、とでも言いたげな自信満々なエロ主の声が返ってきた。
『それって、水を循環できるようにしたってこと?』
「そうではない。循環させたのは気だ」
よくわからない。よくわからないけど、とにかく循環させて滞りを無くしたということらしい。
でも、待てよ…もしかしたら、あの泉はエロ主がいなくなったことで汚れたりしてるんだろうか。
万里がそう言うとエロ主は留守を頼んできたから問題ないという。
『ふぅん』
あの綺麗な泉が汚くならないのなら、安心だ、と万里はおにぎりを頬張った。
でも、何かすっきりしないのもまた事実だ。
何か疑問が湧く、が、具体的な疑問にすることができない。なんだか釈然としないだけだ。
「おい」
二個目のおにぎりを食べ始めた頃、エロ主はいつもの偉そうな声が万里の頭に響いた。
「少し疲れたから寝る。」
池を綺麗なするなんて大したことない、なんて言ったエロ主だが、実際は疲れていたらしい。
ミエなんか張らなくてもいいのに、と何だかエロ主が可愛らしく思えてきて、万里は首を振った。
これ以上、気持ちを揺らすのは止めてほしい、そう思った万里は「おやすみ」と心の中ではなく、小さな声で返事をした。
エロ主は返事もしなかったけれど、その代わりによほど疲れていたのか、静かに寝息を立て始めた。
お昼を食べ終わった万里は、眠ったエロ主をカバンに入れたまま再び図書館に戻った。
今日調べたお蔭でとりあえず、ミツさんは渋谷に住んできたことは分かった。
次に古い地図を探して住所を探して、現代の地図と比べる見たのだが、今は面影さえも残していないことが分かった。
原因は大きく三つ。関東大震災と太平洋戦争と戦後復興だ。
しかし、実際のところ、どれほど変わったのかはわからない。実際に行くしか確かめるしかすべはないだろう。諦めるにしても何にしても、だ。
バイトの休みは三日後。その日は一日歩くか。
万里はそう決めると本を閉じて書架に戻し、借りる本を抱えて荷物を持つと大学の図書館を出た。
三日後、頑張って早起きした万里は、トーストをかじりながらテレビにもかじりついていた。番組を見ていたわけではない。見ていたのは天気予報だ。降水確率は10%。暑いのは堪らないが、降らないのは助かる。
その天気予報が目視でも確認できるように、窓の外に目を向ければ鮮やかな青空が広がっていた。8月ももうすぐ終わろうとしているというのに空を見ただけで暑く感じる天気なんてゲンナリだ。
しかし、9月に入れば大学が始まってしまう。今よりも忙しくなるとじっくりと探すのは難しくなってくる。
「言っとくけど、連れて行かないから」
万里は皿の縁に手をかけてこちらをじっとみるエロ主に目をやった。暑いうえに重いペットボトルを持って歩き回るなんて冗談でも嫌だ。
それに対し、エロ主は何も答えなかった。「ついて行く」とも「行かない」とも。
ましてや「気を付けて」というのは、期待してたわけじゃない、と万里は内心首を振った。
万里は出掛け間際に冷蔵庫から水を取り出すと、エロ主の代わりのようにバックにしまってマンションから出た。とたんに街路樹にとまったセミたちの鳴き声がシャワーのように降り注いでくる。万里は耳を塞ぐように帽子を深く被り直すと、まだ夏の名残を強く残す熱いアスファルトの上を一歩、踏み出した。
そして、それから一日中歩いた結果を言えば、手がかりはは皆無だった。手紙の住所にはマンションがそびえたっていて、近くの表札を掲げている家はすべてチェックしてみたのだが、「相田」という苗字はみつからなかった。頼みの近所のお寺の過去帳もリストの半分尋ねてみたが手がかりすらない。
疲れる…こういうのは本当に疲れる。期待なんかしてなかったけど。それを引いてもだ。
帰宅した万里は、エロ主に何も手がかりがなかったことを正直に伝えた。文句の一つも飛んでくるかと思わず身構えたが、エロ主は「そうか」と答えただけだった。
なんだか、余計に自分の無力を感じる。
百年は長い。そう長すぎた。それを万里は改めて感じ入った。人が変わるだけではなく、街も変わっていくのだ。
百年間何も変わらなかったエロ主は何も言わなかった。いつもの決まり文句「ハラ減った」さえも。