怪我の功名
結局その日一日、万里が机に向かって勉強していた間中何故かエロ主は邪魔をしてはこず、バイトが終わって夜遅くに帰ってきてからも腹が減ったと大騒ぎしたりはしなかった。
お腹が空かなかったとも思えるし、忙しいと気を使ってくれたのかも知れない。
万里は少しばかり迷ったが、良い方に取っておこうと思った。前向きがモットーだ。
だから、問題が起きたのは翌日だった。
エロ主は、朝になって突然、退屈だから大学へついて行きたいと言いだした。
連れてなんかいけない、と言うと校内にある薄汚い池で待ってるという。
仕方ない、と万里は譲歩した。邪魔をしないなら置いて行く理由もない。嫌だといってもコイツがその気になれば無理やりにでもついてくるのも経験済みだ。
空の500mlのペットボトルに水を入れて、エロ主の住処である深底のお皿にペットボトルの口を入れると身体をより小さくしたエロ主がスルリ、と入り込む。
そしてキュッと蓋を閉めながら、面倒くさいからこのまま閉じ込めておこうかななんて思ったとたんに突然、
ビリッ
と手がしびれた。なによ、心の中を勝手に読むなっての。
「私を誰だと思っておる。無礼者が!」
勝手について行くって言ったのはどっちなんだか、と万里は口の中をモゴモゴと動かした。頼むときは少なくとも「お願い」だろうが、と万里はトカゲよりも小さくなったペットボトルの中のオオサンショウウオを睨み付けた。だいたい心が読めるんだから、言葉にしなくてもわかるはずだ。
口の利き方を覚えろというのだ。
それなのにエロ主は顔を反らして尻尾を揺らしている。ホント、なんて都合がいいのだろう。もう、相手にするのも面倒くさい。連れて行くと譲歩したのが馬鹿だった。
諦めと呆れと怒りを三分割したようなな気分で万里は部屋を出た。駅まで10分ほどの坂道を下る。それから電車に乗って30分ほど。事件はその電車内で起きた。
その日の電車の中は結構混んでいた。
万里は人の波に押されて車輌の奥に入っていった。混みあって密着した身体に何かが当たるのはよくあることだ。だから、この時もお尻に触る何かは最初のうちは故意ではないと思っていた。
でも……違う、分かる。
手のひらが万里のお尻にぴったりと張り付いている。時々指が波打つように動く。
万里は青ざめながらキョロキョロと周りを見回した。夏休み中の今は学生は少なく、客はサラリーマンが目立つ。周りの人たちは万里に視線なんか向けていない。
でも、お尻には確かに手が張り付いている。カバンを抱える腕に力が入る。まるでバリアを張るように全身にゾワッと鳥肌がたった。
嫌悪感に気持ちも悪くなってきた。
しかし、当の万里の気持ちなどお構いなし指はお尻を這う。身動きをしないことがこの手の主の助長を促してるようだった。だんだんと動きが大きく、そしてついに大胆にも尻肉を掴んできた。
グッ…万里は唇を噛んだ。声が出ない。叫びたいのに!
嫌だ、気持ちが悪い。それに怖い。声を上げるどころか顔も上げられない。
何てやつ。必死の思いで顔を上げ、もう一度周りを見るが、みな涼しい顔で電車に揺られている。誰がこんなことしてるかなんて顔では判断できない。
怖い。怖いのに動けない。全身から冷たくてねっとりとした嫌な汗が噴き出してきた。思わず肩をすくめて身体を固くして目を瞑った。
助けて!
万里が心の中でそう叫んだ瞬間……。
バチッ
電気でも弾けたような大きな音がしたかと思うと、電車内の電気の灯りがゆらりと揺れた。まわりが一斉にざわめき始める。それと同時に万里の尻から手が離れた。しかし、何故か電車が急ブレーキをかけた様子はなくそのまま暗いまま電車は走り続け、しばらくしてようやく車内の電気が点いた時、万里の横にいたスーツ姿のサラリーマンが手の甲を押さえてうめき声をあげていた。手の甲はヤケドをしたように真っ赤にただれている。万里は直感する、こいつが犯人だ。
そして、助けてくれたのはエロ主だ。
「ってぇ……」
真面目を絵に描いたようなメガネの男は顔を真っ赤にしている。手は相当痛そうだ。
万里以外の乗客は何が起きたのかも分からない。お互い顔を見合わせながらザワザワとしていたが、やがて年配の女性が手を押さえる男に「大丈夫ですか?」と声をかけた。
「ええ、何でもないです」
「いきなりどうしたんですかねぇ?」
「さぁ、僕にも……」
万里は心の中で「嘘つけっ」とツッコミを入れた。お前、人のお尻を触っていただろうが。そういうの、天罰っていうんだから。
そう心の中で叫んだところで、万里は改めてエロ主が助けてくれたんだ、と思った。結構いい所があるではないか。
「おい」
頭の中が緩くなったところでエロ主の声が響いた。
「ハラ減って死にそうだ」
今ので力を使い果たした、という。万里は次の停車駅で慌てて降りて、売店が無いかとキョロキョロと見渡した。
しかし、売店は見当たらなかった。すると、なぜかエロ主はトイレに行けと言う。
良くわからないまま、トイレに駆け込み個室に入ってペットボトルの栓を緩ませると同時にエロ主が出てきて銀髪のイケメンに変わった。
金色の瞳を見る事も出来ないくらい早く私は引き寄せられて、そして抱きしめられた。
「怖かったな」
そう言われて、万里はさっきの恐怖を思い出した。自覚をすると足がガクガクと震え出した。
うん、怖かった。声も出ないくらい怖かった。
エロ主は万里の背中に手を回してしっかりと万里を抱きしめた。万里も体重を預けるようにして懐の中に入り込む。
怖かった。でも、助けてくれた。
「ありがとう」
自然に万里の口からお礼の言葉が出る。ありがとう、何度言っても足りないくらい。
しかし、帰ってきた言葉はそんな暖かい万里の気持ちを吹き飛ばすものだった。
「黙れ、今、食事中だ。しゃべるな」
「はぁ?食事中?」
前に生き物は何でも精気を発して生きていると言っていたが…、まさか。
「今、お前の精気を食べておる。喋ると雑味が入ってウルサイ」
なんだと?そう言えば、さっき腹減ったって言ってたっけ。
では、何か?ここに入るようにいったのは、私を慰めるためじゃなくて、簡単に腹を満たす為か?
何て奴。
「ちょっと、止めてよ。勝手に食べないで」
少しでも感謝をした自分がバカだった。万里は手に力を入れたが、逆にエロ主は万里をギュッと抱きしめた。
「さっきまで震えておったくせに、もう元気になったのか」
そう、私はさっきまで怖かった。
でも、今はそうじゃない。怖くないし、正直言えば嫌じゃない。むしろ、エロ主の身体は冷たいのに暖かいと感じてしまう。
「馬鹿」
万里はエロ主の背中に両手を回して抱きしめながら小さな声で答えた。
「あの不埒者にこうしてもらったほうがいいのか?」
分かってるくせに何て言い方をするのだろう。言わせたい、なんてそんな子供っぽくて……かわいいこと…しないで。
「分かる、でしょ。今、私が何て思ってるかくらい」
「わからぬ、申せ」
なんて…奴。図々しくて意地悪で。でも、なんて可愛いんだろ。
「もうっ」
万里はエロ主の肩に埋めていた顔を上げて正面をみた。そして両手でエロ主の冷たい頬を挟んだ。
「だからっ、ありがとう。すごく、すごく、感謝してる」
「かわいい奴め、そうやっていつも素直でいろ」
エロ主はそうやって万里を抱きしめた。強く、そして優しく。
少しだけ恩着せがましいのが玉にキズなんだけど、まぁいいか。エロ主は助けてくれた。そして、今髪を撫でる手はとても優しい。
私の精気を食べるのは許してあげる。
それになんだかこの腕の中は心地いい。
万里はふぅっと息を吐くと、改めて、エロ主の背中に手を回した。