1994年 卵対峙(1)
「さいあく……」
ぼくの足取りは重かった。学校なんて行きたくない。今年から“受験生”という憂鬱な代名詞が付き、ただでさえ気分が優れないのに、期待していたクラス分けは行われず、去年と同じクラスでまた一年間通わなければならない。
「……はぁ」
あり得ない、あり得ない。本当に最悪だ。
「朝からため息つくの止めろよ。イラつくやろ」
「……ごめん」
隣を歩くのは弟の陽介だ。一つしか歳が違わないし、さらに僕のほうが歳上だというのに、どういうわけかぼくより背が高い。別々に登校したいのは山々なのだが、末の弟である悠人の面倒をみろと言われているので、仕方なく三人で学校へ向かっている。もっとも、陽介はいつも途中で友達と姿を消すので、一緒に歩く時間は十分足らずだ。
「てか歩くの遅すぎ、俺先行くから。じゃーな」
陽介は小走りで道を逸れた。朝の眩しい日射に、ぼくは少し目を細める。ランドセルが重く背中にのしかかり、本日二度目のため息を余儀なくされた。
「一郎は、友達と行かなくてええの?」
悠人は無自覚にぼくを傷つける発言をする。以前は“お兄ちゃん”なんて呼んできたものだが、返事をしないでいたら自然と呼び方を変えてきた。“一郎”なんて名前、好きでもなんでもないが、“お兄ちゃん”よりは幾分マシだ。
「お母さんに頼まれてることやから……」
咄嗟に口をついた弁解に、自分自身が嫌になる。学校が近付く憂鬱は、五月病のせいだけではないはずだ。
「悠人は、学校楽しい?」
「うん、将太くんと同じクラスになったんやで」
「そう……」
ゴールデンウィークは楽しかった。春期講習というヤツで、遊ぶ時間はさほどなかったが、それでもなかなか有意義な時間を過ごせたと思う。お祖母ちゃんが死んでから、元気がなかった悠人も、誕生日ケーキに喜んでいたし、お父さんから電話があったおかげか、はたまた母の日サービスのカーネーションが効いたのか、お母さんの機嫌も上々だった。
悠人の笑顔に、なぜか気分が沈む。“ブルーマンデー”とはよく言ったもので、たしかに曜日には色がついている。月曜は青で、火曜日は緑、水曜は白、木曜は黒、金曜は茶色、土曜は灰色、日曜は赤だ。
「……一郎、大丈夫?」
「え? な、なにが?」
悠人が心配そうな顔でぼくを見上げる。こんな風に心配されたのは、凄く久しぶりのことであるような気がした。
「陽介が言っとった。一郎、ジュケンセイになったって。だから機嫌が悪くなるんやって」
悠人はあくまで心配した、不安を伴う表情でぼくを見る。ぼくは凄く寂しい人間になった気がした。
「あぁ、大丈夫やで」
ぼくの言葉で悠人はすぐに笑顔を見せた。そんな彼が間抜けに思えたが、しかしそれがどうしようもなく羨ましい。嫉妬や羨望の感情が、この頃ひどく厄介になってきた。
二年生の下駄箱は校門を入ってすぐのところにある。悠人と別れると、ぼくの鬱鬱とした気分はいよいよ本格的に頭をもたげる。朝から校庭で遊んでいる生徒たちを横目に、できるだけゆっくりと歩を進めた。体育館の隣にある六年生の下駄箱は寒く、飼育小屋もすぐそばにあるせいで悪臭が酷い。
下駄箱の扉をそっと開け、安堵する。何もされていない。
「あ、イッチー。おはようさん」
「おはようございます、最近どう?」
下駄箱には友人の小椋くんがいた。友人と言っても、会話をする程度の仲で、特別親しいわけではない。
「それがさぁ、“ぼうけんのしょ”が消えちまったんやよ」
靴を出し入れしながら苦々しく笑う。
「へぇ」
“ぼうけんのしょ”とは流行っているゲームのことだ。新しいシリーズはデータが消えることがないらしいが、古いとどうやら消えてしまうことがあるらしい。ぼくも同じものを持っているが、喜ぶべきことに、まだそれが消えることはなかった。
「そういえば、二組の人たちが“おばけトンネル”に行ったらしいで」
階段を登りながら会話を続ける。
“おばけトンネル”とは、この辺りで有名な心霊スポットで、かなり噂になっている。学校の裏の山にある場所で、人気がなく危ないらしい。親に近づくことを禁止されている人もいるそうだ。
「あ、おはようございます」
「うん、おはよう」
教室の前に弓槻さんが立っていた。朝の挨拶は身体に叩き込まれていて、特別したしくない相手にでもついしてしまう
教室に入り、ランドセルを机に置くと、やっと一息つける。このうるさい空間は嫌いではないが、なんだかそわそわして落ち着かない気分にさせられるので苦手であった。
「ええなぁ、朝から弓槻と会話できるなんてラッキーやで」
小椋くんはそんなことを言いながらぼくのほうに近寄る。席は近いわけではないのだからわざわざ会話をするためにこちらに赴いてくれたのだ。
たしかに、弓槻さんはモデルをやっているらしく、スタイルも良いし、顔もそこそこ可愛い。多くのクラスメイトが憧れ、慕っている存在でもある。
「そう? たしかに可愛いとは思うけど、別にそういうことは思わへん」
「え、そうか? 変なの」
そう言い残すと、小椋くんは自分の席へ戻って行ってしまった。一人になったぼくは、机に頬杖をつき、貧乏ゆすりを始めた。
もしかしたら、ぼくは女の子に興味がないのかもしれない。これは深刻な問題だ。しかし、どうしたら良いのか分からない。
不意に、去年のことが思い出された。小学五年の夏、ジエチルエーテルに浸かった蛙や、分厚い理科の教科書で興奮をした。手淫を覚えたのもその頃だ。
「……大丈夫や」
言い聞かせるように独りごちる。
ぼくは変なんかじゃない。
自分で言うのもなんだが、ぼくの家は平々凡々な中流家庭だ。父は仕事で滅多に帰ってこず、専業主婦の母は、教育――とりたててぼくの教育に熱心だ。
「ただいま」
挨拶を仕込まれたのは物心がつくかつかないかの頃だったと思う。朝は「おはようございます」、帰ってきたら「ただいま」。これは絶対の家訓だった。
「あ、一郎おかえりー」
返事をしてきたのは悠人で、リビングに入ると母さんに爪を切ってもらっていた。
「あ、おかえり」
母さんが視線をぼくに向ける。が、すぐに悠人の爪にそれは戻ってしまった。
爪を切ってもらっている悠人が羨ましかった。もしかしたらぼくは、相当なマザコンなのかもしれない。