飛光少年A(4)
「だから、ぼくは悪くないんです。猫のことだって、そういう、……勝手に向こうが言ってきて、」
プレハブ校舎での授業が懐かしい。あの不良たちの所為で、ぼくは停学処分を受けてしまった。
最近頻発している、猫などの虐待も疑われているようだった。
「いい加減にしろよ。いい歳なんだから、もっと大人の対応をだな――」
中学からの友人である良輝くんに誘われるまま河原に赴いたが、まさかこんなに叱られるとは思っていなかった。
彼は野球が得意だったらしいのだが、ぼくが知り合った頃には怪我をして引退していた。あの頃に比べると、良輝くんはずっと大人になっていた。
ぼくは平べったい小石を探している良輝くんを睨み付ける。
「いい歳って、なに?」
「は? なんだよ。俺はただ――」
「キレる十七歳? ……ぼくはそんなんじゃない。そういうのは、平田くんみたいなのを言うんであって、ぼくは、ずっと前から――」
ずっと前から殺そうと思っていた? ……いいや違う。キレたわけでもないけれど、そんなんでもない。何を言おうとしたのか分からなくなり、頭が混乱した。酷い耳鳴りがして、鼻の奥がツンと痛む。
「でも刺したら痛い、そんぐらい分かれよ!」
良輝くんの大声で、我に返る。彼が何を言っているのが一瞬理解することができず、少しの間が開いた。
「えっと、普通そこまで考えないよね。ぼくには関係ないし」
考えが及ばなかった。たしかにやられたら嫌だと思うけれど、自分がやるほうなら痛くない。だから考えることはないのだ。
「普通は考えるだろ!」
ぐらりと視界が揺れた。痛みで視界が霞む。目頭が熱くなって、悲しくないのにぼろぼろ涙が溢れた。自分で制御できない類のもので、感覚がなくなっていた。
息が苦しく、口をぱくぱく開けているのに一向に楽にならない。いっそ全ての感覚がなくなってしまえばいいのにと思いながら、それでも大きく呼吸を繰り返した。
「普通痛いだろ……猫のことだって、本当はやってないんだろ?」
殴られたのだと気づいたのは数秒後だ。
良輝くんが、川に向かって石を投げているのが見える。数回水面を跳ねたそれは、あっけなく沈んでしまう。
「もし――」
体勢を立て直し、声を出す。かすれた声がでたことに自分でも驚きながら、ぼくは言葉を続けた。
「……もしおれが、本当にやったんだとしたら、どうする?」
曇り空なのが寂しい。石が水面へ落下する音もまた、わびしかった。
「は? なに、いきなり」
良輝くんは驚いた様子でこちらに視線をやり、眉を顰めた。
「もしも、です。今みたいに、友達でいられる?」
以前ピッチャーだった彼は、人差し指と中指が長い。小石をいじりながらも、やはりぼくから視線を離さずに答えた。
「まあ、……うん。でも、違うんだろ?」
そう言って再び、川に向かって石を投げ出す。
ドキリとした。平静を装うのが精一杯で、何も考えられなくなった。ただひたすら、嘘だけはつくまいと頭を回転させるー
「おれは、良輝くんとずっと友達でいたい」
「ん? ああ、いんじゃね。何かあった?」
絶対にバレてはならない。猫を殺したことも、古松昴を殺したことも、良輝くんにだけは知られてはならないのだ。
相変わらず良輝くんは石を投げることをやめない。ぼくはなぜか、長谷川くんのことを思い出した。
「この前、同級生が死んだんです。……背が高くって、すらっとしてて、顔はかなり綺麗だった。整形してるんじゃないかって思ったくらいの顔だった」
ポツリと、一人言のように呟く。石が水面下に落ちる音が消え、なんだか寂しくなった。
「仲良かった?」
「いえ、全然」
そう言うとまた、昔が思い出された。教護院での生活が、途端に懐かしくなる。
「一度、殺されかけたことがあります」
「ふうん」
水音がなくなって寂しさを感じる。良輝くんのほうを見るが、もう彼はこちらを向いてはいなかった。
「自分の父親を殺そうとしたそうです。未遂でしたけど、彼は……ずっと、それについて悩んでいました。たぶんやり遂げられなかったことに対してずっと、何か思っていたんです」
涙が出そうになる。必死に堪え、ぼくは言葉を続ける。
「ぼくがあのとき死ねば、長谷川くんは今、生きていたと思います。やり遂げたことに、なるから……」
そこまで話すともうとまらなかった。自分の感情が制御できず、目頭の熱さを抑えることができない
「……泣くなよ」
その言葉には聞き覚えがあった。誰に言われてもかまわないけれど、良輝くんに言われると、なぜだが悲しさが収まらなくなった。ますます涙が溢れ、嗚咽交じりに怒りをぶつける。
「男だったら泣いちゃいけないの? お兄ちゃんだとしっかりしなきゃいけない? 嘘をつくのは人殺すより悪いんじゃないの?勉強をしろ挨拶をしろ、ゲームをするな、お箸は右手……って、うんざりじゃないですか。でも今さら自由になったって、何をしたら良いのか……分からない」
友達と遊べと母さんに言われた。遊びたくなかったので、友達でを辞めた人が数人いた。ダメ宮という仇名を付けられたのはいつのころだったろう?
良輝くんを見ていると、いつまでも子供ではいられないという焦りが生じる。
バイクが運転できることや、アルバイトができることは喜びではない。子供ではいられない残酷な絶望がたしかに存在していた。
「それは、つらいよな。俺には分かんねーけど、でも、そう思う」
心臓をわし掴みにされた気分になった。胃の辺りが重くなり、脳の神経がぐるぐると回る。
ぼくは共感が欲しかっただけなのかもしれない。良輝くんの言葉は、ぼくをひどく感傷的にさせた。
「……ごめん」
良輝くんの言葉に、また一つ劣等感が加わった。
もしかしたらぼくは、謝ることのできない人間なのかもしれない
家へ帰る途中、寂しくなって猫を拾った。
冷蔵庫から酒を取りだし、氷を入れたコップに注ぐ。氷がぱりんと割れる音と、猫がみゃあ、と泣く声が聞こえた。
カッターを持って、酒を煽る。法律違反は未成年者の特権だ。今のうちでないとできないことをしてしまおうと思った。
肉をえぐる感覚には飽きていた。しかしそれでもやめられない。
頭がふらふらとしていた。指先の感覚がほとんどなく、唇は痙攣していた。
自分を腕を間違って切りつけてしまったことすら、感覚が鈍ってしまい、ほとんど痛みを感じなかった。
ぐらりと視界が揺れた。今までのいろいろを吐き出している気分だ。死んでも良いと思った。痛みが快感で、綺麗な川が見えた。
無性にキスがしたくなった。人肌が恋しかった。涙が出た。悲しいのか、苦しいのか、酔っぱらいの所為なのか分からない。とにかく死にたかった。
唾液が煩わしく、何度も指で拭った。口の中に指を突っ込んだ。ぬめぬめとうるさい。ティッシュはどこだ? どこに置いたろう……。指がてらてら光る。なめくじだ。なめくじみたいだ。
探さないと……壁に当たった。指の唾液が乾いて、世界がまわっていた。わざと傷痕に爪をたてた。
初めて、怪我をしてよかったと思った。気をそらしたかった。気持ちが悪かった。
何の情緒も秩序もない。ぼくの存在が嘘ならどんなに良いだろう。死のう死のう。死ななければならない。ぼく自体は残酷で、どうしようもなく排除の対象であると、ほかでもないぼくが一番分かっているのに、ほんのすこし残った理性が邪魔んする。ぼくは酔っぱらいの亡羊だ。
喉元を過ぎれば熱さを忘れるとはよくいったもので、ぼくはきっとまた同じことを繰り返す。分かっていてもまた、繰り返すのだ。
今は何も思わない、考えないのだ。何も思うまい。いや、ぼくは無抵抗だ。そのまま、深いトンネルへと吸い込まれたい。きっと、古松昴は、今のような道楽をしたことかまない。これからも、ずっと、そうなのだ。
不公平だと思った。彼はぼくの、一番の理解者だと思っていたけれど、じっさいはそんなことはない、全て最初から分かっていたことなのに、無性に寂しかった。
思えば、ぼくは常に絶望していたのだ。
良輝くんに抱きついて、泣きながら何かを言っていた気がする。