飛光少年A(3)
夏の暑い日に、ぼくは十七歳になった。七月の誕生日は水曜日だ。
ぼくが古松昴を殺した白い曜日。
ブラウン管で、蟹座の最下位を確認する。
古松昴が理不尽で死んだなら、今のぼくや、七月に滅亡するはずだった人類は、理不尽に生きている。世の中は理不尽だ。
誕生日だというのに涙が出た。十七歳は、どうしようもなく大人である気がした。去年……いや、誕生日が来る以前は絶対に考えなかったことを思っている。
吉谷くんのように、誕生日がもう少し遅ければ良かったのに、と思った。もしそうなら最下位の蟹座の憂鬱は振りかからなかったはずだ。
今日の一位のうお座なら、まだまだ時間があったのに……。
世の中がだんだん見えてきて、どうして執拗に勉強をさせられてきたのか分かってきた。後悔はなかったし、焦りもなかった。あとからついてくるのかもしれないが、きっとそれでも後悔はしないだろう。ぼくはもう既に、諦めがついているのだろうか。もしそうなら、いったい何を諦めたのか教えて欲しい。きっとぼくは何も諦めていない。ただ少しだけ視野が広がって、人生の予定が長引いて、戸惑っているだけなのだ。
長谷川くんの自殺は、ぼくの心に大きな影を落としていた
自殺を考えるのは慰謝なのだと、ニーチェだか太宰だかが言っていたけれど、そるもまんざら嘘ではないのかもしれない。
慢性的な病気みたいなものだ。自殺を考えるのも、刃物を振りかざすのも、動物を殺すのも、――だからぼくたちはあそこにいたし、それが共通点だった。事件を起こしたことよりも、吉谷くんが気狂い病院に入れられていたことのほうが、ショックだ。ぼくたちはそういう人種なのかもしれない。ナントカに刃物とはよく言ったものだ。
死は想像よりずっと近くのものだ。近くのものほど曖昧になりがちで、たまに麻痺しそうになる。長谷川くんは友人でも何でもなかったから、死んだってたいして悲しくはない。ただ、怖いのだ。ぼくはまだ死にたくない。他人は幾ら消えたって一向に構わないけれど、自分の存在がなくなってしまうのがとても怖かった。自分はまだ到底死ぬには早すぎるように思えたが、もしかしたら一番日本でそれに近い年齢なのかもしれない。彼は世紀末の絶望など鼻にも掛けていなかったのに、ぼくよりずっと以前から人生に疲れていた。でも当時の彼よりも、今のぼくの絶望のほうがずっと深い。二十世紀最後の年は、色んなものを諦める時なのかもしれない。
「……うん、掃除するのはいいけど、お金は無理だよ」
「はぁ? ありえねぇって、財布くらい持ってんだろ?」
放課後の夕日が窓から射し込んでいる。プレハブ校舎のトイレは独特の匂いがして、強いアンモニア臭以外にも、タバコやら、他の薬物の香りがした。
二年生になっても、工業高校ではクラス換えが行われず、ぼくは相変わらず友達の少ない毎日を過ごしていた。
「財布はありますけど……」
放課後の喧騒の中、ガラの悪い連中にぶつかってしまったのが運の尽きだ。トイレ掃除を押し付けられた上、カツアゲまでされている。知らない顔だから、きっと違う科なのだろう。
「いいからさっさと出せよ!」
後退りをすると、背中にタイルの感触が伝わる。ポケットの中には財布はもちろん、もっと大事なものも入っていた。
三人に囲まれて逃げ場がない。周りの空気が薄く、身長の低いぼくは息が詰まった。
「……嫌です」
嘘をつくのは嫌だった。嫌なものは嫌だ。
「ンだとッ! もう一回言ってみろよ!」
シャツを掴まれて、壁のタイルに押し付けられる。強く頭を打ち、後頭部に痛みが走った。
「……ッ!」
痛みでじわりと涙が溢れるのが分かった。しかし泣いてはいけない。ぼくはなにも悪くないのに、どうしてこんな目に合うんだろう。
震える右手をポケットに突っ込むと、懐かしい温度が指先に触れた。
大丈夫、これは正当防衛だ。
ゆっくりとカッターナイフを握り締め、ポケットから取り出す。
「おい、なんだよ。そんなもん――」
開いた口に突っ込んで、キチキチと刃を伸ばす。言葉を発するどころではなくなった相手の表情から余裕がどんどん無くなっていく様子に、堪らない興奮を覚えた。
そういえば、ぼくはまだ人間の舌を切り取ったことはない。生きたまま切断したらどうなるんだろう? やってみたくてうずうずする。めくるめく妄想を展開させ、息があがる。
周りにいる二人の生徒も、ぼくの動きを止める気配はない。
遠慮なく口内のカッターを端に動かし、小さく上下にスライドさせた。
「……ぃ!」
思ったより鮮やかな色が出た。記憶の中にある黒に近い赤よりずっと扇情的だ。もっとやろう、次は舌だ……。あぁ、でもその前に舐めてみよう。きっとそのほうが楽しい。そうに決まっている。
「おい!」
隣の不良が低い声を出した。鬱陶しい声だ。
「なんです? 邪魔するの? ねぇ、この人どうなってもいいの?」
力を少しだけ込めて、口の端へ押し付ける。涙がぼろぼろ流れる様が可愛らしい。くぐもった呻きが更にぼくを昂らせた。
カッターナイフを動かさないよう慎重に顔を近づける。懐かしい芳香に、ほんの少し引っ掛かっていた理性が飛んだ。口の端をべろりと舐めとる。
もっと舐めよう、もっと欲しい。以前は理解できなかった、彼に舐めさせたいと思う欲まで頭をもたげた。
舐めとることに集中するうちにカッターナイフが邪魔になり、口内から抜き取る。かちゃり、という音を聞きながら、ぼくは懐かしい味を追いかけた。
舌を突っ込みべろべろ舐める。快感で頭がどうにかなりそうだ。彼の苦しげに発する、アァとかウゥとかいう呻きも、効果音としてぼくを煽る。うっとりと目を瞑り、あの夏のノスタルジーに思い切り浸った。
「……なッ!」
違和感に思わず口を離す。よろよろと二三歩下がり、再び訪れた背中の冷たい感触に、身体の芯が冷えていった。
口内の違和感を吐き出すと、鮮やかな赤が見えた。舌がヒリヒリする。
どうやら返り討ちに遭ってしまったようだ。
「痛いじゃないですか、まだ途中だったのに……」
――もう少しだったのに……。
舌打ちをすると、噛まれた部分からじわりと鈍い痛みが走った。
「キメェんだよ、変態! ホモ野郎!」
取り巻きの一人に鳩尾を殴られる。一瞬だが呼吸が止まり、床に膝をついた。
「……うぅ」
痛い。何もここまでしなくたっていいじゃないか。それにぼくはホモじゃない。彼が女の子でも同じことをしただろう。
「何も殴らなくてもいいじゃないですか。アンタだって泣くほど喜んでたのに」
「はぁ? 何をどう解釈したらそうなんだよ。マジキモい」
キモい、という言葉の衝撃は強かった。ぼくはキモいのだろうか?
三人が去っていく足音を聞きながら、カッターナイフを拾う。血の付いた刃を舐めてみたが、先ほどのような感動は得られなかった。
――あぁまただ。
また満足できずに終わってしまった。いつだってそうなのだ。本当に満足できたことなんて一度も……。
「あぁ、違う」
狭い空間に、一人呟いた声が反響した。とんでもない虚無感にため息がでる。
「一回だけあった」
最初で最後の一回だ。もう二度と、ああいうことを起こしてはいけない。それでもやはり我慢ができる自信がなかった。
目を瞑り、記憶を探る。相手がいなくたって続きはできる。そもそもぼくからお金を取ろうとする奴等も悪いのだ。ぼくだけの責任じゃない。
――ぼくのせいじゃない。