1994年 卵対峙(3)
夏が近付くと、どういうわけか鼻血が出やすくなる。ぼくはそれを、吐かずに飲みこむというおかしな癖があった。
「なぁ、なにしとるん?」
図工の時間は比較的自由だ。十二色のクレヨンで皆、思い思いの絵を描いていた。
弓槻さんは、ぼくが猫を殺したことを気にしている素振りは全く見せず、楽しそうに友人と談笑している。
「なにって、絵、描いてるんだよ」
上を向いて鼻血を飲み込む行為をやめ、隣の菊地くんに視線をやる。
ぼくは絵が上手いほうではないが、特別下手でもない。壊した猫の絵を描こうとも思ったが、さすがにそれは断念し、普通の風景画を描くことにした。
「それ、変やろ」
そう言われるには自覚があった。ぼくは、絵画白色反転障害という発達障害がある。その所為で、クレヨンで描いた絵が、色の部分とそうでない部分がどうしても逆になってしまうのだ。他人から見たら奇妙な絵に見えるらしいが、ぼくにとってはこれが普通だった。
「変? 変ってなにがや!」
弓槻さんを可愛いと言わなかったことで変と言われたときよりもムカついた。ぼくは咄嗟に彫刻刀の箱に目を走らせ、素早くそれを掴んだ。
「何が変なんや、言ってみぃ!」
思い切り突き刺した右手は、机に刺さり、長年使われてきた古いそれにはヒビが入った。
「おまえ、武器使うのは反則やろ……」
咄嗟に身体を避けた菊地くんはそう言いながら、眉を顰める。
教室がガヤガヤとうるさくなり、ぼくたちの騒ぎは、クラス全体の問題となり始めた。
「……ちょっと、どうしたの?」
クラス委員の安部さんがこちらに近寄る。違う班なんだから放っておいてくれればいいのに。委員長だからってでしゃばり過ぎだ。
「コイツが突然切りかかってきたんだよ!」
菊地くんがぼくを指差して言う。安部さんはため息をついて、ぼくのほうへ向かった。
「菊地くんに謝ったら?」
「ぼくは悪くない、気分を害されたんや」
そうこう言い争っているうちに、窓からトンボが入ってきた。羽が半分千切れ、低空飛行を続けている。
近くで女の子たちの騒ぐ声がした。どうしてこんな、トンボぐらいで騒ぐのだろう?
ぼくは立ちはだかる安部さんを押し退け、女子たちの輪に入った。そしてその注目の的となっている虫を、思い切り踏みつけた。
「ちょっと雨宮くん! なにしてるの!」
安部さんや弓槻さんを始め、ぼくをけなす言葉が飛び交った。「ダメ宮」「ダボ」という単語は辛うじて聞こえたが、その他の言葉は遠くで、よく聞き取ることができなかった。
「な、分かった?」
「ごめん、今なんて?」
女の子というのは、どうして集団で攻撃をするんだろう。ぼくは聖徳太子じゃないんだから一気に何人もの罵声を聞けるはずがない。
そうでなくても、遠くの音が近くで聞こえたり、近くの会話が曖昧になったりするのだ。
しかしまぁ、学級目標の“明るく元気なクラス”というのは達成していそうだ。
「都合の悪いことは聞いてないからなぁ、ダメ宮は」
菊地くんの言葉に、クラスメイトが再びぼくに非難の目を向けた。
「まぁまぁ、みんな落ち着いて」
そう声を上げたのは古松くんだ。たしか中学生のお兄さんがいて、なかなか良い学校に通っているらしい。
「だって、コイツ謝る気ねぇんだぜ」
「ぼくは悪うないから謝らへんよ」
菊地くんには結局、謝罪することはなかった。ぼくは自分の信念を通す。
ぼくは悪くないのだ。




