事故物件ファイル03:三角地にある『呪われた喫茶店』 車が何台も連続突撃 溺死した少年と、関わった少年たちの死傷事件 そして、南北朝時代の怨念を鎮める五万騎塚
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◆1
五月初旬ーー。
雲一つない青空が広がっていた。
「いわゆる五月晴れというやつね。今日は」
私、神原沙月は、黒のワゴン車から降りる早々、手で庇を作って空を見上げた。
私は今日、福岡県第三都市のK市に来ている。
藤野亨先輩の運転する車で、竜胆光太郎社長と同乗してきた。
九州自動車道から県道に降りて、西鉄A線の駅の近くに駐車したところだ。
「物件のご近所を知るのも、仕事のうちだから」
という竜胆社長の方針に従って、さっそく私は歩を進める。
今日は、ベージュのジャケットに、グリーンのスラックスを着込み、黒の小振りのリュックを背負っている。
髪を後ろに束ね、それなりの距離を歩くことを想定した格好をしてきた。
物件までの道は、あらかじめ地図で把握している。
バタンとドアを閉める音がして、前方座席を占めていた二人の若い男性も外に出てきた。
少年のような童顔美青年の藤野亨先輩は、グリーンと赤のチェックのシャツに、ジーンズといった姿で、白のキャップをかぶっていた。
相変わらず、仕事中とは思えない服装である。
私達に軽く会釈をすると、いつも通り、藤野先輩は勝手気ままに姿を消してしまった。
結果、私と竜胆光太郎社長の二人で、田圃や畑が広がる田舎道を、共に目的の場所へと歩を進める。
竜胆社長は、水色の麻のジャケットに、白いTシャツを着て、薄茶のスラックスを穿いている。
ただでさえ、彫りの深い美形顔で、背丈も190センチ近い高身長なうえに、鍛え上げた肉体を誇る社長だから、カジュアルな装いもじつに素敵だ。
私は眼福の思いで、新鮮な空気を吸いながら、歩を進めた。
私たちは住宅街を脇に見て、川がある方面へと歩いていく。
寄り道をして、景色を堪能しつつ、歩くこと三十分ーー。
九州最大の一級河川・T川のすぐ近くに、目的の物件はあった。
今回の事故物件は、住居付きの喫茶店だ。
二階建ての木造建築で、グリーンとブルーのタイルが、一階部分の腰壁にあしらわれていた。
築年数は古そうだが、何度かの改築と補強を経て、大切に使われてきたことがわかる。
店のある立地は三角形になっていた。
片側に二車線の大道路、そこに斜めに一車線の道路が合流している地点に、その喫茶店はあった。
建物全体が三角地に合わせた建築がなされており、入口のある先端が尖っている。
その先端に、お椀を下向きにかぶせたような形状の窓が付けられていた。
そして、布製の庇が上を覆う先に玄関がある。
その三角地の物件の前に、私と竜胆社長は立っていた。
「良い感じじゃないですか」
と私が言うと、社長は軽口を叩く。
「風水では『三角地は大凶相』って言うけどね」
風水によると、三角地のように先端が尖っている地形は「凶器」を思わせるとのこと。
その家にバランスを欠いた事態を招くという。
でも、そんな迷信はともかく、この三角地は見通しが良い。
その喫茶店の背後には、広い工場跡地があった。
細い一車線の道路の向かいには小さな公園があって、その背後は住宅街になっていた。
広い二車線の道路は、一級河川の川辺りに沿って伸びている道路だった。
「何が原因で事故物件に?」
と、私が問うと、竜胆社長は事もなげに言う。
「この物件に、よく車が突っ込むんだよ。
それも、前から後ろから、真横からと、様々な方角からぶつかってきたんだって。
文字通りの『事故』物件だ」
私は両目を瞬かせて、眼前の建物を良く見る。
「外見に問題はなさそうに見えますが?」
「でも、三度も改修してるんだって」
「そうなんですか!?」
私は驚いた。
そんなに何度もぶつけられた建物には、とても見えない。
じつに落ち着いた風貌をしていた。
「ところで、社長。
交通事故みたいなものでも、事故物件扱いになるんですか?」
「今年は一回、去年に二回、その前の年にも二回ーー。
わずか三年の間に、車が五台も突っ込んでくると、さすがに気味悪いだろ?」
「どうして?
急なカーブがあるでもなし。
見通しの良い広い道なのに」
竜胆社長は、ショルダーバックからタブレットを取り出す。
「2023年から25年の三年間で合計五件の車の衝突事故が起こったってさ。
これが、オーナー夫婦がこの店舗を手放すことにした原因だと思う。
だけど、どうしてこの三年間だけで五件も事故があったのか、それが引っかかるところだ。
おかげで、『呪われた喫茶店』と噂されてるらしい」
事故を起こした者は、一様に、
「急にブレーキが効かなくなった」とか、
「まるで何かの力で、引き寄せられるようだった」
と証言したという。
「空間でも歪んでるのかね?」
と、竜胆社長は笑いながら、話を続けた。
「ーー突然だけど、『霊道』って聞いたことある?
死んだ人の霊魂が、あの世に行くために通る道だっていうんだけど」
「なに、急にオカルトな話を振って。
社長はやっぱり、そういうの信じるクチなんですか?」
そういえば、竜胆社長はいつも事故物件やその契約書などに怪しげな図形を描いて、何やら呪文めいたのを唱えていた。
私の質問に対して、竜胆社長は冗談めいた口調で答える。
「信じるも何も、現実にあるんだから仕方ない。
といっても、『霊道』ってのはもともと、半分以上、この世にあるわけじゃないから、『現実にある』とは言い切れないのかな。
こんな話、信じられないよね。あははは……… 」
何がおかしいのか、社長は殊更、面白げに腹を抱える。
私は訳がわからないので、ちょっとむくれた。
「なんですか、そんな変な冗談、なんにも面白くありません。
ちょっとキモイです。
ーーで、話を戻しますが、ここ、三角地とはいえ、そんなに悪い物件ではないし、不思議ですよね。
川が見えたり、近くに公園があったりして、喫茶店を経営するには、ほんとに打ってつけな場所で、良い物件だと思うんですけど」
社長はウンウンと小刻みに頷く。
「実際、長年の間、ずっと繁盛していたようだよ。
住宅街の奥様方や、河原で遊ぶ親子連れなどが立ち寄った、ここらでは老舗の喫茶店だったらしい。
ーーさて、物件の周りを、ぐるっと回ってみますか!」
私たちはまず、二車線の道路に沿った側面を歩いた。
広い県道で、それなりに車が通っている。
その向こうには土手が広がり、少しだけ一級河川の水面と向こう岸が見える。
向こう岸の土手はグラウンドが整備されて、自転車も行き来している。
サイクリング道でもあるのだろう。
これなら、この物件からT川を眺める景色は、結構良いに違いない。
それにしても、建物に沿って歩いてみると、改めて思う。
小窓が多い喫茶店だな、と。
外から中を覗くと、各テーブルにそれぞれ窓が付いているようだ。
幾つもの窓を眺めつつ歩くと、側面にも出入口があることに気付く。
が、この出入口は住居用だ。
結構、奥に長い建物で、一階部分に出入口が二つある。
正面に喫茶店の来客用と、側面に住居スペース用の出入口がある。
一階は喫茶店、二階は住居になっているから、それぞれの玄関があるというわけだ。
が、住居用の玄関は引き戸になっていて、いかにも勝手口のような、一面白色に塗られたデザインで、ここから間違って入るお客様はいなさそうだ。
加えて、
『ここは喫茶店入口ではありません。表へお回りください』
と矢印とともに書かれたプレートが扉に嵌め込まれていた。
でも、私と竜胆社長は玄関の方からここまでやって来たので、矢印の示す方向とは逆に進んで、裏手へと回る。
すると、裏手の壁のところだけ、少し凹んでいていた。
おそらく、自動車が突っ込んできたときの跡が残ってしまったのだろう。
社長は腰を折って、傷跡を覗き込むようにする。
「現況優先だから、これは仕方ない。
まあ、この程度なら、修復費用もさしてかからないだろう」
さらに喫茶店の裏手には、砂利が敷き詰められた駐車場が広がっていた。
普通の自動車なら五台は停まれそうだ。
もっとも、ここら辺は空き地になっているところが多いから、いくらでも停まれると思われた。
竜胆社長が嘆息気味に口にする。
「これだったら、ここまで藤野くんに運転してもらっても良かったな」
私、神原沙月は、驚いた。
「近所を歩くのが大切って言ったの、社長じゃないですか!」
竜胆光太郎社長は苦笑いになる。
「そうだけどね。
裏手にあった工場が閉鎖されてるとは聞いていたけど、工場の建物がすっかり解体されて更地になっているとは思わなかった」
それから私たちは、さらに回り込んで、今度は喫茶店の反対側面を進む。
こちらは細い一車線道路に面しているが、道路が湾曲している分、間にスペースが空いていて、ちょっとした植え込みがある。
建物のこちら側は窓が少ない。
それだけ客席が少なく、厨房にでも面しているのだろう。
そうして建物をぐるっと回って、正面玄関へと辿り着いた。
「さあ、いよいよ、店舗スペースへと入ってみますか」
「はい。
ところで、この喫茶店の名前、ご存知ですか?」
「ほら、玄関の庇に白字で書いてあるだろ?
喫茶ウエルカムだよ」
ガラスが幾つも貼り付けた木製扉を開けると、カランカランと来客を報せる鐘が鳴った。
一階の喫茶ウエルカムの屋内へと、足を踏み入れる。
私は思わず感嘆の声を上げた。
「良い感じですねえ!」
竜胆社長も同意する。
「ああ。
居抜きでも、充分やっていけるほど綺麗だ。
リフォームが要らないかもしれないな。
とても事故物件とは思えない代物だ」
入口に入ってすぐの天井は、吹き抜けになっていた。
見上げると、間には黒い梁や横柱などが走り、一部分、金網が覆っているが、二階の屋根まで見える。
天井が高いので、開放感があった。
その下には、窓辺にテーブルを据えた客席が幾つもある。
左手、斜めになった壁には、大きな窓と三つのソファ席を据えたカウンターがあり、右手には、先端部分のお椀を逆さにした形状の窓を正面にした一人席、そして二つのテーブルと、それに据えられた座席などが、所狭しと並んでいた。
さらに進むと、左手には窓が三つ並ぶ三人席があり、右手には、大きくて長いカウンター席がキッチンに沿って伸びている。
そのさらに奥には、四つのテーブルと、それに据えられた客席があり、右手奥にはトイレもあった。
喫茶店の天井と床は、どちらも焦茶色の板間になっていた。
柱や梁も古めかしいが、積み重ねた年輪を思わせるドッシリとしたもので、落ち着きが感じられる。
壁はクリーム色で、天井や床のダークブラウンの木製部分と相まって、いかにも昭和レトロを感じさせた。
テーブル席が奥まであって、ほぼ籐椅子デザインで、キッチンに面した長いカウンター席まで統一されている。
カウンターには上からアンティークな電灯が吊るされ、それぞれのテーブルの上には小型のシャンデリアが吊るされていた。
キッチン部分に回ってみると、全体的に真四角のシンプルデザインのシンクで、料理道具や調味料を置く棚は、天井や床と同じシックな木製だ。
カウンター越しに広がる視界も悪くない。
カウンターのお客さんや、テーブルに就くお客さんの様子、さらには窓の向こうに行き交う車や土手の緑が見渡せる。
椅子やテーブルなどの家具や、照明器具はみな、センスの良いアンティークで固められていた。
「このまま使える感じですね。
あと、トイレも」
トイレの引き戸を開ける。
狭いながらも、緑色のデザインタイルが腰壁に貼り巡らされて、綺麗なままに保たれていた。
いかにも、つい最近まで使われていた感じだ。
間取りを描けば、こんな感じだ。
「さあ、今度は二階部分を探検だ。
売主さんは、四十代のご夫婦に、高校二年生の息子さんがいる。
それを念頭に入れて、内見してみよう」
竜胆社長は、仲介不動産会社からもらった鍵を回して、喫茶店の入口とは別の、住居用の玄関を開ける。
私は、率先して進む社長の後をついていった。
白い住居用玄関扉を開けると、入ってすぐ左手に階段が延びていた。
反対の右側にもドアがある。
一階の喫茶店からも二階に上がれるようになっているようだ。
二階は住居スペースだから、当然の配慮だろう。
でも外から玄関に入ったというのに、下足入れがない。
仕方なく、靴のままで階段を昇る。
でも、この階段は、もとより土足で上がるものだったらしい。
階段も土で汚れるのを見越したように、コンクリート製のものだった。
二階に上がると、広めのフリースペースになっていて、真正面の引き戸を開けるとトイレと洗面所のスペースになっていた。
結構広く、隣のバスルームには、ここから入るよう、磨りガラスの扉が付いている。
脱衣所も兼ねているようだ。
トイレは白い壁で、一階トイレのようなタイルは貼られていない。
洗面所も目の前に窓があるだけで、素っ気ないものだ。
便座と洗面所の間に、脱衣を入れる籠とか、掃除道具を入れるボックスがある。
バスルームには窓があり、全面、青いタイルで覆われた部屋で、ちょっと古めだが清潔に保たれていた。
割と几帳面な住人だったようだ。
トイレと洗面所の部屋から出ると、左手は和室、正面奥には洋室があった。
両方とも、部屋に入る際、靴を脱ぐ仕様になっていた。
今は住人が退去しているから靴が置かれていないが、本来はフリースペース用のスリッパなんかが部屋の前に置かれていたのだろう。
そして和室も洋室も、部屋に入る際には裸足になっていたと考えられる。
畳も床も綺麗だった。
和室は横長に、洋室は正方形の形で、とても広く間取られている。
和室は床の間と仏間がある立派なもので、天井には無骨な梁が渡してあった。
押入が二つ、さらに畳の凹みから見て、壁が広いスペースには箪笥もあったみたいだ。
この和室が、オーナー夫妻の寝室と考えられる。
それにしても広く部屋が取られている割に、二階にはキッチンやダイニングルームがない。
家族で食事を摂るときは、一階に降りていたのだろう。
とすると、洋室は息子さんの個室だったと考えられる。
飴色の床に残った痕を見るに、片方の壁にはベッド、反対側の壁には学習机、その横には本棚が置かれていたようだ。
さらに洋室の奥に進み、クローゼットの隣にある扉を開ける。
すると、吹き抜けになっていて、少し身を乗り出すと、一階を見下ろすことができた。
太い梁から下された、緑色の笠が掛かった巨大電灯に誘導されるように下に視線を移していく。
贅沢仕様のカウンター席と、二つのテーブル席、そして出入口から入ったり出たりする客の姿を、頭上から見下ろすことができそうだった。
加えて、一階と二階の間には、細めの梁や横柱が走り、斜めの壁に沿って大きな二重窓があって、陽光が差し込んでいた。
さらに四方の壁に沿って、金網が張られていた。
本来はここを物置として、何かを置こうとしていたのかもしれない。
でも、お客さんの頭上にある格好になって少し危ないだろうし、天井への視界を遮って見栄えが悪くなるだろうから、結局は金網の上には何も置かなかったと考えられる。
結局、この吹き抜けの扉は、ほとんど開かれなかったようだ。
実際、開けるとき、相当力を込めなければ動かなかった。
これほどの絶景なのに、普段使いしていないことは結構、もったいないことだ。
二階の間取りを描けば、ザッとこんな感じだった。
特に変なところはなかったように思うが、唯一、目立っておかしいところがあった。
二階の洋室の片側の窓だけが、黒い板で塞がれていることだ。
灯りがつくから気にしなかったが、日中には陽光が燦々と入るはずだ。
それなのにーー。
竜胆社長は、呆れ声をあげた。
「もったいないな。
位置的に見て、こっちの窓を開ければ、九州最大の河川『筑紫次郎』が見えるはずなのに」
「なんですか『筑紫次郎』って?」
「関東の利根川を『坂東太郎』って言うから、それにちなんで付いた、T川の仇名だそうだ。
大規模な灌漑工事をするまでは、このT川もしょっちゅう氾濫して、ここら辺一帯を『呪われた地』と呼ばせるほどだったそうだからな」
たしかに、この大きい窓は、方角と高さから見て、川辺を見下ろせる位置にある。
なのに、窓を開けようにも、大きな黒い板で塞がれている。
ご丁寧に、鉄枠が嵌めてあって、ボルトまで締まっている。
「こりゃあ、頑丈に取り付けられてるな。
よっぽど、ここから外を眺めたくなかったらしい。
トラウマでも抱え込んだのか?
あるいは、外から覗かれるのが嫌だったのか。
ナットで鉄枠まで嵌められてる。
コイツを外すためにはスパナとか、他にも板を壊すための工具が必要だ」
「だったら、駅近くの駐車場にまで戻らないと。
工具とかはみんな、ワゴン車に詰め込んだままですよね」
「ふう。仕方ない。
幸い、こっちに駐車スペースは、広々と空いてるんだ。
すぐにでも藤野君に車で来てもらおう」
竜胆社長はスマホを手に取ると、藤野亨を呼び出す。
藤野先輩には運転手としてワゴン車を運転してもらって、天神から九州自動車道を、四十分ほどの間、突っ走ってきてもらっていた。
竜胆光太郎社長はスマホを手に、気軽な口調で、藤野亨に語りかける。
「ああ、トオル君、悪いんだけど、お願い。
事故物件の窓にくっつけられた板を取り外したいんだ。
工具が必要なんだよね。
だから、車を現場にまで持って来てよ。
車を停めるところは山ほどあるからさ。
ーーうん。わかった。
それなら、少し待つよ」
社長はスマホを切った。
「ちょっと観光が終わったら、こっちへ来るってさ」
藤野先輩がこちらへ来たら工具が手に入り、この黒板を引き剥がせる。
そうなると、陽光がたっぷりと入り込むだろう。
となると疑問なのは、どうしてここの住人は、風光明媚な景観を遮断するように、黒板を窓にかぶせたのか。
その意図がわからない。
私は首を捻った。
「窓がこんなふうに塞がれてるのって、もしかしてオーナー夫妻が休憩のためにここで仮眠をとってたからじゃないかしら。
光が入ると眠れないから。
喫茶店ってずっと立ち仕事だし、案外、疲れるんですよ」
竜胆社長は半分、目を閉じつつ、首を横に振る。
「それは違うよ。
オーナー夫妻は和室を使っていて、そっちの窓は塞がれていない。
黒い板で窓が覆われているのは洋室だけで、ソッチは息子さんの部屋だと思う。
それに洋室には、反対側にも窓があるのに、こちらは塞がれていない。
川を見渡せる窓だけ、板で覆っているんだ。
ほんと、もったいないよね。
この窓から見たら、川がバッチリ見えて、凄く景色が良いのに。
吹き抜けから見下ろせる扉も閉めっぱなしみたいで、景観を楽しむ気がない住人だったようだ」
「ずっと住んでいたら、どんな絶景も当たり前になってしまうものですからね」
竜胆社長は、ごもっともとばかりに肩をすくめる。
「社長。
これから近場を散策してみませんか。
せっかく来たんですから、T川に沿って歩いてみません?」
「僕はやめとく」
なぜだか、竜胆社長はあらぬところをーー何もない、斜め上の空間を凝視していた。
まるで猫が、何かを気にして、何もない空間を見詰めているときのような感じだ。
私は、構わず、
「じゃぁ、私一人で河原の方へ散歩に行ってきますね。
広くて、良い感じの川だし。
こんな時じゃないと、歩かないでしょうし」
と言って、一人で川辺に向かった。
◆2
喫茶店ウエルカムの玄関前には、二車線の県道が走っている。
その県道と、一級河川・T川とに挟まれた土手は、結構な広さがあった。
そして、一面、緑だった。
草が青々と茂っている。
私、神原沙月は、草を踏み分けるようにして土手から川岸へと降りていく。
T川の川幅は広い。
豊かな水量を湛えている。
川岸に辿り着くと、小さな背中を丸めてうずくまっている人がいた。
薄いベージュのブラウスに、淡いグレーのスラックスを着込んだおばあさんだ。
彼女は、自分で編んだであろう、手編みの紺色のベストを着ていた。
そんな服装をしたおばあさんが、川に向かって花束とジュースをお供えしていたのだ。
びっくりして、
「ここで何かあったのですか?」
と私が尋ねると、おばあさんは振り向きざまに曇った顔を見せ、
「ええ。そこの川辺で十代の男の子が亡くなったんです」
と、嗄れた声をあげた。
「足を取られて溺れたんですか?」
と、私は尋ねた。
T川も、昔は物凄い暴れ川だったらしいから、今でも増水時には、危険なのかも。
そう思ったのだ。
が、違った。
「いえ。
溺れさせられて、死んだんです。
いじめですよ」
いきなりの重い言葉に、私はギクッとする。
「冬の寒い季節だというのに、三人組の『トモダチ』から『泳げ!』と言われてね。
可哀想に……」
おばあさんが語るにはーー。
男子高校生三人組が一人の子をいじめて「泳げ!」と強要した。
脅されて、冬の川に落とされて、いじめられっ子が亡くなった。
そういう事件があったというのだ。
ところが、加害者連中は未成年ということで、世間に名前も出なかった。
それ以前に、「いじめがあった」とすら、学校でも警察でも認定されなかった。
「友達同士で、遊んでいたら、一人が溺れ死んだ」
という形で報道され、片付けられてしまったのだという。
いじめによる殺人事件が隠蔽された、とおばあさんは訴えたのである。
おばあさんは、ここの喫茶店ウエルカムについても、不満を漏らす。
「先代のマスター直義さんの頃から、私はこの喫茶店の常連だった。
先代さんは優しかったよ。
私の夫はお祖父さんの代に、別の地方から流れてきてね。
ここと同じT川の川縁に住んでいたんだけど、川の氾濫で実家が流されてしまったんだ。
なので、ここまで逃げて来て、移り住んだ。
でも、それからもう何十年も経つというのに、私ら夫婦はいつまでも新参者扱い。
そうした弱い立場は、ずっと続いてきた。
今では、私ら夫婦はここらで町内会をまとめてるっていうのに、やっぱり距離がある。
特に、私は四国の方が実家で、本物の他所者だからね」
私は思わず、
「そんなことはありませんよ、きっと」
と口にしてしまった。
「私も福岡で生まれ育ちましたけど、そんなことは……」と。
すると、おばあさんは睨み付けるような目付きになった。
「あんたは、見るからに筑前モンだけん。
筑後じゃなかろうもん。
第一、筑前のモンは、筑後や肥前や豊前のモンに対してもーー」
おばあさんは手にした黒い数珠を繰りながら、縷々と喋り始める。
なんだか、深い恨みを抱えているようだ。
私は話題を変えた。
「こちらの喫茶店、何度も交通事故に遭っているようですね。
店の一部が壊れるほど、ぶつかってきたそうで。
呪われているっていう噂を耳にしたんですが」
「呪われている?
いんや。
あれは欲に釣られただけのこと。
誰も彼もが理屈を立てちゃあ、欲に突き動かされてーー。
それよりも、喫茶店の息子さんーー直茂くんも、そのいじめのことを良く知っていたっていうのに、何もしなかった。
酷い話だ……」
供養の花に川水を注ぎながら、おばあさんはボソボソと言い募る。
私は空気が重くなるのを感じて、この場を切り上げるために、スマホをおばあさんに差し出した。
「私は仕事でここら近辺の噂話を聞いて回っているんです。
よろしかったら、お名前と連絡先を教えていただけるとありがたいのですが」
自分の名刺も渡した。
だが、おばあさんは突然、けたたましい声で笑い出した。
「あたしゃあ、スマホなんての、持っとらん」
「ああ、すみません。つい……」
私はメモとペンをおばあさんに手渡す。
すると、おばあさんは固定電話の番号と、菊池晴子という名前を書いた。
見ると、菊池源太という男性の名前も、その横に添えられている。
「これは主人の名前だ。
私らは、ここからT川を下った岸辺に住んどるで。
主人はここら辺で顔が利くでよ。
町内会長をしとったから。
今は事情があって、家におらんけどーー」
私は何度もお辞儀をして、おばあさんと別れた。
おばあさんは私の方には見向きもせず、ひたすら川面を眺めていた。
そんなおばあさんの背中を見ていると、なんだか、ほんとうにこの地が呪われた土地に思えてきて、怖くなった。
◇◇◇
喫茶店ウエルカムに戻ると、近所の主婦らしき二人連れが、玄関の辺りをウロウロしていた。
太った方は、黒のカットソーに白いジーンズといった出姿で、痩せたもう一人は、赤のトレーナーに紺のプリーツスカートを穿いている。
そんな中年女性たちが身を寄せ合って、窓から喫茶店の中を覗き込んでいる。
そして互いに顔を見合わせては、喋り続けていた。
「やっぱり、閉店したのね。
残念だわ。気晴らしする場所だったのに」
「この辺り、喫茶店ないものね。
なんか寂しいわ」
私は、彼女たちの背後から近づき、その会話に割って入った。
「素敵な喫茶店だったのに、残念ですね」
そう声をかけただけで、二人の主婦はハッとして、私の方を振り向く。
痩せ型の奥さんと、太った奥さんだった。
揃って目を丸くして、口にせずとも、「あんた、誰!?」と問うているのがわかる。
私は改めて頭を下げ、名刺を差し出した。
「私、インテリアコーディネーターの神原沙月と言います。
今度、私たちの会社が、ここを買うことになったんです。
けれども、何かこの辺で、いろいろな不幸な事件が起きたって聞いたんですよ。
だから、お話を伺いたく思ってるんですけど、よろしいでしょうか?」
二人のおばさんは、互いに見つめ合ってから、ほぼ同時に頷き、こちらに顔を向けてくれた。
「参考になるようなお話ができるかどうか、わかりませんけど。
ねえ。そんなに悪い噂なんてあるかしら?」
「まぁ、あると言えば、たしかに、あるけど。
ちなみに、こちらの喫茶ウエルカム、車が何台も突っ込んできて壁を壊したの、ご存知?」
私が首を縦に振ると、
「でも、近くであった事件は知らないでしょう?
ねえ」
「ああ、あの、近くの土手であった……。
でも、それって子供たちの噂でしょ?」
と二人でヒソヒソと囁き合うばかりで、私に対しては、言葉を濁す。
興味深く感じられたので、私は積極的に出た。
「もし良かったら、中でお話を聞かせていただけませんか?」
と言って、喫茶店ウエルカムの中に彼女たちを招き入れた。
幸い、喫茶店では水道もガスも使えた。
なので、持参してきたティーパックで紅茶を入れた。
竜胆社長はまだ帰ってはいなかった。
だから女三人組でテーブルを囲んだ。
「こちらの喫茶店で出していたコーヒーには遥かに及ばないでしょうけど」
私が紅茶を勧めると、二人は愛想笑いを浮かべ、カップに口をつける。
聞けば、彼女たちは、細い道路を挟んだ向こう側、小さな公園の背後に並ぶ住宅街の人たちだった。
それぞれ、ミチコ、ノリコと名乗り、普段はK市郊外の食品工場でパート勤めしているが、今日は休日で、喫茶店ウエルカムの現状を確認しに来たのだという。
やがて、近所で囁かれている呪いの噂を、訥々と語り始めた。
彼女たちが言うには、川で溺れて亡くなった男の子がいたが、その後、不幸が立て続けに起こって、「呪いが渦巻いているんじゃないか」と子供たちが噂している、という。
それは、さっきおばあさんから聞いたネタだと思ったので、
「それ、つい先ほど、聞きました。
お花を供えているおばあさんから……」
と応じたら、彼女たちは揃って、早口に言い募り始めた。
「ああ、町内会長さんとこの、菊池のおばあさんね。
でも、高校生の子が亡くなったの、悲しい事故で、いじめじゃないんですよ。
ここら辺の子は少しヤンチャですけど、悪い子はいませんから!」
「そうなのよ。
事故だっていくら言っても、おばあさん、聞く耳持たなくって。
すっかり性格が怖くなって。
以前は、この喫茶店の息子さんにも、飴玉をあげたりしていたのに。
皮肉なことよね……」
他にも、まだ何か言いたそうだったが、それ以上は口を噤む。
何か、言いにくいことがあるようだ。
私は、町内会長のおばあさんから、話を逸らす。
どうやら、彼女たちは「いじめはなかった」という公式見解に従っているようなので、いじめの有無を争っても無駄だと思ったのだ。
「ところで、『呪いが渦巻いている』とはーー?」
私が質問すると、ハッと気がついたような顔をして、ミチコさんもノリコさんも身を乗り出すようにして喋り出した。
「そうそう。
その溺れ死んだ男の子がいたんだけど、その子たちと一緒に遊んでいた三人の男の子たちも、その後、車の事故に遭って、死んだり、大怪我したり。
結局、『四人で遊んだから、死人になったんだ』と言われて」
「そうなのよ。
挙句、『筑紫次郎に引き摺り込まれた』とかまで、言われて。
河童伝説も近くにあるけど、さすがにねえ。
河童に話を繋げる人はいなかったわね。
おばあさんの時代じゃないから……」
そこまで、私の顔を見て話してから、急に太ったノリコさんが、隣に座るミチコさんに顔を向けて、
「でも、いじめがあったのはホントだって、娘が言っていたわ」
と、それまでの見解を覆すような発言をした。
ミチコさんは驚いて、
「え!? そうなの?」
と声をあげて、身をそり返す。
ノリコさんは、とっておきの話をするように、声を潜める。
「ええ。
詳しくは知らないですけど、その子たちが、いじめの動画をアップしたっていう噂はあったのよね。
『そのせいで呪われた。だからみんな死んだんだ』
って、ウチの娘が言ってた。
娘は彼らと同じ高校に通ってるから、確かな話よ。
学校のネット掲示板に、その動画がアップされてるんですって。
アドレスはーー」
ご近所さんの話では、溺れたいじめられっ子だけでなく、三人のいじめっ子たちまで、みな交通事故に遭って死んでしまったり、大怪我を負ってしまったという。
他人の車を盗んで、三人で暴走運転をしていたところ、オイル漏れだかブレーキが壊れるなどして、勝手に事故ってしまったらしい。
一人だけ重傷で生き残ったけれども、あとの二人は死んでいる。
彼らに死なれた実家も、結局、家族ごと、この街から去ってしまったーー。
ノリコさんは、太った身体をテーブルに押し付けるようにして話す。
「そのときに、一人の生き残った子の母親から聞いたの。
小学校のとき、私は彼女と同級生だったから、本音をぶちまけてくれたわ。
『なんだか、ここのあたりは呪われてるみたい。
私たちの会社関係の子供ばかりが事故で死ぬだなんて、おかしい。
この街を開発して、かつての活気を取り戻そうと、主人たちは一生懸命になっていたのに、仇で返されたように、こんな不幸な目にあって悔しいーー』って」
ここで、私が、
「みんな同じ会社?」
と疑問形で口を挟むと、今度はご近所さん二人が、さもおかしそうに笑って手を振った。
「ここは田舎だからね。
ちっともおかしくない、フツーのことですよ。
この喫茶店の裏にあった冷凍機器の組み立て工場、今は撤退して場所を変えたけど、ウチの近所、そこで働いていた人が家族に一人はいたわよね」
「そうそう。
ここら辺は産業自体が少ないからね。
その男の子たちは、たまたま企業誘致とか開発事業のお仕事をしている家のお子さんだったようだけど」
しばらくの間、ご近所さんは自嘲気味に「地元あるある」を口にして笑い飛ばしていた。
が、やがて、二人は揃ってプリプリと怒り出した。
二人とも地元愛が強いようで、自分たちのような地元民が自ら卑下したことを言うのは構わないが、私のような他所者に、「呪い」だとか「いじめ」だとかを口にして、積極的に地元のことを悪く言う人がいることは許せないようだった。
「呪われた土地だなんて!
菊池のおばあさん、町内会長の家だっていうのに、その奥さんが熱心に、地元のことを悪く吹聴するのは、どうかと思うわ。
ほんとだったら、地元を盛り立てる立場なのに」
「ほんと、そうよね。
やっぱり、元は他所から来た人だからかしら。
でも、菊池さんとこのおばあさんも、こちらへ来て、もう随分経つっていうのにね」
一頻りおばあさんを悪く言ってから、急に二人揃ってこちらに顔を向けて、苦笑いを浮かべる。
「重たい話でごめんなさいね。
私は、この街の住み心地が良くて素敵だと思うけれど、中にはそんなふうに、不吉だと言う人もいるから、わからないものね。
あなたが呪い縛りで話を振るから。
でもね、ここら辺にも、素晴らしい場所は幾つもあるんですよ」
「そうですよ。
M神社の白梅とか。
あと、T山神社を昇って、石段を見下ろす景色は、絶景なんですから。
足をちょっと伸ばして、市の中心部に行けば、I文化センターという、世界的な大企業の創業者が市に寄贈した公園もあるんですよ。
薔薇の季節は綺麗よ。立派な公園なんです。
大きな池があって、白い鳥も来るし。紅葉の季節も素敵なの。
図書館もあって、すぐ裏口の公園外には、日帰りの温泉施設もあるんですよ。
ほんと、良いお湯なんだから」
ミチコさんは郷土のお勧めスポットを、あれこれ紹介してから、慌てて口に手を当て、
「すみませんね。いろいろ話しちゃって」
と恥ずかしがる。
その隣で、ノリコさんも、少し顔を赤らめていた。
「いえ。
大変、参考になりました。
貴重なお話、ありがとうございました」
私は深々と頭を下げて、お礼の言葉を言った。
ミチコさん、ノリコさんも、
「お役に立てたら嬉しいわ」
と笑顔を向けた。
二人は帰って行った。
◇◇◇
しばらくすると、入れ違いのように、竜胆光太郎社長が喫茶店に帰ってきた。
水色のジャケットの襟を正しながら、笑顔で、私に尋ねた。
「沙月さん、川原の散策はどうだった?」
私はノートパソコンを開いていた。
「ちょっと調べたいことができまして。
そぐそこの川でいじめがあって、その結果、いじめられっ子も、いじめっ子も、みな、死んでしまったって」
「そりゃあ、なんとも重い話だな……」
竜胆社長は、殊更大袈裟な身振りで、高い天井を見上げる。
社長としては「気にするな」と言いたいのかもしれない。
けれども、いじめ事件というのは、とかく隠蔽されがちなものだ。
公的にはいじめ認定されなかったようだけど、こういうのは、たいがい本当だったりする。
実際、同じ高校生の娘さんが「いじめがあった」という前提で「呪われている」と言っているのだ。
いじめ殺人があった、と考える方が断然、信憑性があると感じられた。
そこで、ネットを調べてみた。
ノリコさんから聞いたアドレスで、学校のネット掲示板を開く。
それからしばらくして、その裏掲示板にアクセスすることに成功した。
アドレスさえ知れば、少しの工夫で暗証番号を探り当てることができたのだ。
さっそく、いじめ動画を探す。
すると、たしかに、いろいろと生徒たちが書き込んでいるスレの合間に、動画が投稿されていた痕跡があった。
クリックして、そのサイトに飛ぼうとしたが、NO imageという表示になっていた。
投稿動画が削除された痕跡だった。
その動画があった箇所のすぐ下には、「名無し」の書き込みで、
『お前、何処で撮ったか、知ってるぞ!』
とあった。
露骨な警告文ーーというか、脅し文句である。
この不穏な書き込みがあったから、動画が削除されたようだ。
「ああ、この動画が見れたらなあ!」
と声に出して、私も天井を見上げて、唇を咬む。
そこへ玄関の鐘がガランガランと鳴る。
派手目のチェックのシャツを着た藤野亨が、喫茶ウエルカムへと入って来たのだ。
でも、彼は工具箱らしきものを持っていなかった。
「すみません。遅くなりました。
で、さっそく言い訳させてもらえば、僕、まだここに車、回してないんです。
ここまで歩いて来ただけなんで、今、工具、持ってません。
今まで、M神社に行ってたんです。
でもーーいやあ、残念でした。
梅の咲く季節じゃないから、空振りました。
T山神社にもチャレンジしたかったんですが、さすがに疲れそうなので、参拝は後日にします。
でも、他にも行きたいところがあるんですよね。
ということで、社長もサツキさんも、一緒に来てくれません?」
私が怪訝そうな顔で、
「何処に?」
と問うと、藤野先輩は照れたように頬を指で掻く。
「車を拾う前に、史蹟巡りをしようかなって。
無駄に遠回りしますが、付き合ってくださいよ」
すると、竜胆社長が席から立ち上がり、目を輝かせた。
「それじゃあ、出かけようか」と言いながら。
「え? 行くんですか?」
私が驚きの声をあげると、竜胆社長は私の頭にポンと手を置いた。
「地域のことを知るのも、物件については必要だからね」
◆3
九州最大の一級河川に架かるT川大橋からほど近い、T川沿いの土手へと、私、神原沙月は、降りていく。
藤野亨先輩と竜胆光太郎社長とに先導されながら。
草むらを進んで行くと、何もないと思いきや、白い看板と共に、一本の石塔が突っ立っていた。
「史蹟 杜渡之跡」といった文字が刻まれている。
「何ですか、ここ」
と私が尋ねると、藤野先輩はポンポンと石塔の頭を叩きながら答える。
「ここに書いてあるでしょ。
杜の渡し跡の史蹟ですよ。
正確には、『杜』は『えづり』と読むそうですが。
昔は『森』の字だったんですが、訓が同じだから『杜』の字になっちゃったそうです」
言葉の来歴を聞いたところで、何のことだかわからない。
藤野先輩は、
「二人とも、興味ないし、知らないよね」
と笑った。
得意そうに笑っている藤野先輩に、私は苛立ちの声をあげた。
「だから、何の史蹟なの?」
尋ねると、ようやく藤野先輩は、説明すべき事柄を理解したみたいだった。
「この史蹟の裏面を見てください。
『大保原戦前官軍主力ノ渡河セシ所ナリ』
とあるでしょ。
地元武将が渡河して敵軍に夜襲をしかけた場所で、『日本三大合戦の一つ』と言われる『T川の戦い』が、ここから始まったんですよ。
凄いでしょ?」
そう言われても、ピンと来ない。
竜胆社長も面白がりながら、茶化す。
「『日本三大合戦』? 『T川の戦い』?
知らないなぁ。
でも、いかにもちょっと昔のネーミングみたいで面白い。
昔の日本人って好きだよね、日本三大ナントカっていうの。
『T川の戦い』なんて、聞いたことないけど、あとの二つは?
『関ヶ原の合戦』とか?」
「そうです。
あと、『川中島の合戦』。
これと『T川の合戦』で、『日本三大合戦』だそうで。
なお『T川の戦い』は、主戦場となった地名から、『大保原の合戦』とか『大原の合戦』ともいうんですよ」
「そんな合戦があったって知ってるの、地元の人だけじゃないの?」
「だとしても、それも仕方ないですよ。
戦国時代の合戦じゃないですもん。
現代日本人にとってはマイナーな南北朝時代の合戦ですから」
「南北朝?
後醍醐天皇とか、足利尊氏とかの?」
「そう、それ!
今から六百五十年以上も前のこと。
日本に二つの朝廷、二人の天皇が並び立った時代のことです。
室町幕府の足利尊氏が擁立する北朝の天皇と、それを認めず、奈良の吉野に逃げ込んだ後醍醐天皇の南朝とが対立し、その争いが全国に飛び火しました。
南朝の後醍醐天皇は、当時、七、八歳の実子・懐良親王を征西将軍として九州へと派遣しました。
懐良親王は、北朝勢力に邪魔されながらも、何年もかけて薩摩に渡り、ついには肥後の阿蘇氏や菊池氏らの武将を糾合し、太宰府を拠点とする少弐頼尚が率いる北朝勢に対抗したんです。
結果、南朝と北朝の代理戦争が、ここ、K川近辺の平野で盛大に展開しました。
南朝軍四万、北朝軍六万、両軍合わせて十万もの軍勢が、ガチンコでぶつかったんです」
「十万!?
そんな昔で、それだけの軍勢を運用するなんて。
ほんとなの、それ?」
「史実みたいですよ」
「事実だったら、たしかに凄い規模だよね。
『日本三大合戦の一つ』って謳うのも頷ける」
でも、六百年以上昔には、ここら辺で渡河したのかもしれないけど、令和の現在では、この史蹟の位置からT川は見えない。
せいぜいT川大橋の上に架かる白い鉄骨が見えるだけだ。
藤野亨は周囲の草むらを見渡しつつ、手を広げる。
「今では何もないところだけど、中世まで、ここは水路・陸路の要衝だったそうですよ。
ここには北朝の主力である少弐頼尚軍の前衛が、陣を構えていたんです。
ところが、そこへ南朝軍の菊池武光がT川を渡って夜襲を仕掛け、成功しました。
一三五九年、八月六日のことだそうです。
それから一気に、大戦争へと展開しました。
戦いは、翌日の夕刻まで続けられたんですよ。
かなりの激戦だったようで、近在の大刀洗町という町名も、このときの大戦の結果、刀を小川で洗ったら刃こぼれして、川の水が赤く染まったことから付けられた名前だそうで」
「結局、どっちが勝ったの?」
「南朝軍です。
二万も軍勢が少ないのに、大健闘でした。
ここの近くで、懐良親王が本陣を構えた場所は、今でも『宮ノ陣』と呼ばれています。
そしてその後、南朝軍は太宰府攻略を果たし、九州を平定したんです。
もっとも、十年ちょっとの支配で、結局、北朝から新たに派遣された勢力に九州を奪還されてしまうんですけど」
「ほんと、『兵士どもの夢のあと』ってやつだね。
それほどの大戦争があったというのに、目に見える形で今に残るのは、この史蹟だけ、か……」
「あと、ですね。
このまま、車が停めてあるところに行く前に、別の史蹟へ行って良いですかね?
歩きだと、ちょっと距離がありますが、道は単純なんで。
その史蹟に手を合わせてから、車に乗って物件に向かいましょう」
やがて、私たちは一枚の石碑の前に辿り着いた。
東京の青山霊園にあるような、ちょっと大きめのお墓みたいだ。
「五万騎塚」と銘が刻まれていた。
碑の前方左右に花が供えられている。
その石碑に手を合わせてから、藤野亨が延々と語り始めた。
「T川の戦いは、両軍ともに甚大な被害が出ました。
負けた北朝軍は副将が討死し、三千名を超える死者が出て、遺体を放置したまま太宰府にまで撤退しました。
勝った南朝軍も、総大将の懐良親王は深手を負い、菊池の軍勢も千八百もの死者を出した結果、敵の退却を追う力もなく、本陣まで退くしかなかったそうです。
その結果、両軍合わせて五千名以上の死体が、戦場に放り置かれたわけです。
しかも、戦争は八月六日から七日、暑い最中のことでした。
残された大量の死体の腐敗臭が辺りに蔓延して、T山の上にまで届いたといいます。
これは酷いということで、T山のM院の僧侶が敵味方の区別なく遺体を集めて、一緒に供養したとのことです。
これが、この五万騎塚の由来だとか」
竜胆社長は茶化す。
ちょっと不謹慎な気がするが、そういう性格のようだ。
「死者五千名っていうのに、『五万騎』だなんて。
十倍は盛りすぎだな」と。
藤野亨は、頬を膨らませつつも、受け応える。
「とはいえ、南北軍合わせた死傷者は、二万五千名を超えていたんですからね。
それほどたくさんの遺体を前にしたら、五千も五万も一緒にしちゃうのもわかりますよ。
それに、この時代の武士がどれほどの従者を連れていたのか知りませんが、一人の騎馬武者には、馬の口取りのほかに、槍持ち、太刀持ちなど、史書に名を記されない大勢の従者がいたはずです。
彼らも死者としてカウントしたならば、弔った死体は何万もの数にのぼっていたかもしれません」
そう言われて、竜胆光太郎社長も、急に真面目な顔付きになった。
「たしかにね。
これで納得した。
だからこそ、ここら一帯に『空間の裂け目』が、そこかしこに見られたわけか。
たしかに、それだけ大勢の人間が一気に死ねば、瘴気も溜まるだろうさ」
なんだか男二人の間だけで、会話が続きすぎる。
話の内容が理解できず、私が横槍を入れた。
「空間の裂け目? 瘴気?
何ですか、それ」
すると、藤野先輩も竜胆社長も、キョトンとした顔をする。
「あ、ここには沙月さんもいたんだ」と、今更、気付いたような表情だ。
やがて竜胆社長は大きな手で、私の背中をバン! と叩いた。
「ははは。
沙月さんには馴染めない、オカルトなネタだよ。
気にしないでくれ。
さて、工具を持って、物件に行こうか」
◇◇◇
五万騎塚で手を合わせてから、小一時間後ーー。
喫茶ウエルカムの上、二階の洋室では、男二人が黒い板を相手に格闘していた。
藤野亨がスパナを回して、鉄枠のナットを外す。
だが、それでも、鉄の枠が窓から離れない。
枠と黒い板も外れない。
どうやら、強力な接着剤で鉄枠と板がくっつけられていたようだ。
竜胆社長はそれまで、鉄枠や板を腕力でどうにかしようとしていたが、ようやく諦めたようだ。
額に浮かんだ汗を手で払いつつ、社長は私の方を振り返った。
「沙月さん。
どうせ、リフォームでは、この窓を替えるよね?」
「たぶん」
「だったら、仕方ないよね」
竜胆社長は首をゴキゴキと鳴らすと、腕を回す。
それから、ハンマーを手にして、思い切り横に振り切った。
窓を覆う黒い板を、窓ガラスごと叩き割ったのだ。
なかなか割れなかったが、何度も叩きまくって、ようやく板と窓が割れて、爽やかな風が流れ込んでくるとともに、視界が開けた。
案の定、開かれた窓からは、九州最大の一級河川・T川を見渡すことができた。
私と社長は、鉄枠からはみ出すガラス破片に気を遣いながら、窓から身を乗り出す。
私たちは大きく息を吸い込んで、景色を楽しんだだけだった。
が、後ろから顔を覗かせた藤野亨は違った。
窓から見える視界を認めて、大きな声を上げる。
「ああ! これ、見たときある景色だ!」
藤野先輩はノートパソコンを取り出す。
そして、ある画面をネットから拾い出すと、私と社長に向けてモニターを向けた。
「見てください。
これ、まさに、この窓から撮った映像ですよ!
高校生のいじめ動画として、ネット内で有名になったやつです」
私と竜胆社長は顔を見合わせた。
窓を塞いでいた黒板を取り外したら、ドンピシャだった。
私が学校の裏掲示板で見損ねた、削除済みの映像に間違いなかった。
藤野亨は、事故物件それ自体には興味がないくせに、物件がある場所で起こった事件や、歴史についての事前調査を欠かさない。
それゆえ、彼はすでに拡散されたいじめ動画を見つけていたのだ。
川べりでのいじめを撮った、証拠映像である。
アップにされた映像では、制服姿の一人の少年が、三人の身体が大きい私服の連中に、殴られたり、蹴られたりしながら、川で水飛沫をあげている。
川中まで追い詰められたいじめられっ子は、バタバタと必死に手足を動かしている。
それを三人の男が、笑いながら、いじめられっ子の頭を押さえつけて、川水へと頭を沈める。
まさにいじめの目撃映像だった。
この窓から撮影したんだな、と動画を見たらわかる。
この二階の洋室に住む息子さんが、いじめの現場を撮っていた。
その映像を動画サイトと学校の裏掲示板の双方でアップした。
ちょっとした正義感から、投稿したのかもしれない。
だが、その正義気取りは高くついた。
動画の撮影場所として、この喫茶店の上の洋室が特定されてしまったらしい。
『お前、何処で撮ったか、知ってるぞ!』
という書き込みがあってから、ここの住人、高校二年生の牟田直茂くんは慌てた。
そして、急いで、学校の裏掲示板と動画サイトの双方から動画を削除した。
でも、遅かった。
特に動画サイトにアップした映像は、瞬く間に拡散されていた。
「誰がその書き込みを?」
と私が口にすると、さも当たり前のように、竜胆社長は答える。
「やっぱり、その、いじめた三人組じゃないのか?」
撮影していた、その映像が、いじめの証拠となっている。
これが周知されたら、「友達同士で遊んでいるうちに溺れ死んだ」という設定が崩れてしまう。
多くの人の目に触れる前に、この投稿動画を取り下げさせなくてはいけない。
幸か不幸か、いじめっ子たちにとって、この映像を撮れる場所の特定はさほど難しいことではなかった。
「動画をアップしたの、お前だろう!?」
と場所を特定して、いじめっ子三人組が、喫茶ウエルカムの、招かれざる客として、やって来たのだろう。
直茂くんは、
「もう動画は削除したし、映像を撮った窓も塞ぐから許して」
と懇願したに違いない。
でも、その動画はすでに拡散されていた。
おかげで、その映像を藤野亨が拾えたのだ。
当然、三人組の嫌がらせは止むことはないだろう。
だったら、もう、逃げるしかない。
そう思い詰めた直茂くんは、父親にお願いして、逃げるように引っ越したーー。
あり得る話に思われた。
竜胆社長は膝を叩く。
「なるほど。
ここのオーナー家族が引っ越したのは、車が何度も突っ込んで来た、という気味の悪い事故が理由ではなかった。
息子さんが不用意にいじめ動画をアップしたことによって、いじめっ子連中に脅されていたからだ、とーー」
でも、疑問は残る。
高校生の息子が訴えただけで、親が引っ越しまで決意してくれるものだろうか?
ひょっとして、このいじめっ子の背景に、オーナーの親御さんまでが恐れる何かがあるのかも。
竜胆社長は腕を組む。
「このいじめっ子三人、素性が気になるな。
沙月さんが会ったおばあさんの話では、いじめで人を殺しても無罪放免だったっていうし。
有力者のドラ息子ってやつか?
でも、ご近所さんの話じゃ、ソイツらも亡くなってるっていうんだろ?
自動車の事故か何かで。
だから、『呪われてる』って評判になってるって。
ーーいや、そうだな。
良く考えてみると、引っ越しの理由が、ガキどもの脅しによるものとは限らない、か。
親御さんにしても、そのいじめっ子の背景に恐れをなして引っ越したとは限らない。
だって、死んでるんだからね、そのいじめっ子どもも。
ひょっとしてーー。
いかん、妄想が膨らんで、止まらんな。
ーーとにかく、この三人の高校生、脅した連中が何者なのか?
売主の息子さんに直接、事情を聞ききたい。
とりあえず、渚ちゃんにアポを取ろう」
竜胆社長はスマホを手に取る。
事故物件を仲介する不動産会社の古賀渚さんに電話した。
そして電信が繋がった音がすると、向こうから何の返答もないうちから、社長は早口で捲し立てた。
「ああ、渚ちゃん?
俺、竜胆だけど。
今、例の喫茶店付きの物件にいるんだけどさ。
窓を割ったりして、いろいろ手を出しちゃったから、絶対、この物件、買う気でいるんだ。
でも、その前に、確認したいことがあって。
だからさ、単刀直入に言う。
売主さんの息子さんに会いたいんだよね。
高校生だっていうのは承知してる。
でも、だからこそ、直接、話をする機会を設けて欲しいんだ」
スマホの向こう側から、呆れた声が響いてきて、私の耳にまで聞こえてきた。
それからは、相変わらずの、竜胆光太郎社長と古賀渚さんの、「学生時代からの腐れ縁」同士の、小慣れた会話が続いた。
「はあ?
売主さんではなく、その息子さんに会いたいって?」
「そう。
親じゃあ、事態が良く掴めないかもしれないから。
出来れば、親御さんの目が届かないところで、息子さんに会いたいんだけど」
「無理でしょ、それは。
まだ高校生なんだし」
「でも、どうやら、この物件、まだまだ裏がありそうなんだ。
五度も車が突っ込んだだけじゃなくって、いじめによる死亡事件が絡んでたりするかも」
「何、それ?
聞いてないわよ、そんなの。
いじめで子供が死んだなんて事件があったら、全国ニュースになってるでしょ?」
「そうだろうね。
でも表向きは、『高校生同士で遊んでいたときの事故死』ってことで、処理されちゃってるみたいだから」
「もう、イチイチ、厄介な事件を掘り起こさないでよ」
「でも、売主さん一家は、息子さんの要望で引っ越した可能性が高いんだ。
息子の意向に従って、親までが引っ越しするってのは、ちょっと珍しいでしょ」
「そうでもないわよ。
いじめの事例では、そんなの多いっていうし」
「でも、まだ俺たちは知らない何か、裏があるとしか思えないんだ。
何度も車に突っ込まれたのに、ほとんど意地になって営業し続けていた喫茶店を、なぜ急に畳んで引っ越したのか?
その事情に、いじめ事件や、その後の少年たちの事故死に関わっていると思うんだ。
もちろん、例の如く、俺の妄想ってやつだけど」
「ほんとに、もう!
そこを突けば、安値で買い叩けるっていうの?
ーーはあ、わかったわよ。
相変わらず、手段を選ばないヒトね」
「別に良いじゃないか。
何も警察沙汰にするってわけじゃない。
どれだけの事件が絡んでいたとしても、俺は表沙汰にするつもりはない。
有利に値段交渉をするネタを、手に入れたいだけなんだ」
「わかったわ。
まず住所と電話番号をあなたに教えて良いか、売主さんに聞いてみる。
それから、息子さんと話できないかって、買主が要望している旨を伝えておくわ。
これだけ、お膳立てしてあげるんだからね。
もし売主さんに直接会っても、ウチにちゃんと仲介手数料を払ってよ。
私抜きで、物件の売買はしないでね」
「わかってるって。
そんな不義理なこと、しないよ」
竜胆社長は満足げな表情で、電話を切る。
それでも何事か思案し続けているようで、社長は顎に手を当て、視線をあらぬ方向へと向けていた。
私が、社長に向かって、改めて確認する。
「えっと、つまり、社長がその高校生の息子さんに直接会って問いただしたいことは、その三人組に脅されているかどうかってことと、どうして引っ越すように、親を説得できたのか、といったところでしょうか?」
藤野亨も話に加わってきた。
「でも、そんなこと、わざわざ確かめる必要、あります?
息子さんが、三人のいじめっ子から脅されていたらしいことは、学校の裏掲示板の書き込みと動画削除から、容易に想像される。
だから、ソイツらの脅迫から逃げようとして引っ越したってのが、今のところ導き出した推論ってやつで、そんなの、改めて当事者から言質を取らなくてもーー」
そこで、竜胆社長がいきなり大声を出した。
「だからさ、そうとも限らないって思い付いたんだよ、僕は!
『三人組に脅されたから、逃げるために引っ越した』とか、
『親も引っ越しに同意する背景が、あのドラ息子どもの後ろにあるんじゃないか』という、
そうした推測自体が、とんでもない間違いだったかもってね。
僕たちは、肝心なファクターを考察する際に、入れ忘れていた。
『ソイツら、いじめっ子どもも、一人の重傷者を除いて、残らず死んでしまった』
というファクターを!」
私は首を傾げる。
「その条件を考慮に入れたら、どうなるっていうんです?」
竜胆社長は両目を大きく見開いて、爛々と輝かせる。
「こうも考えられないか?
売主の息子が、脅された挙句、そのいじめっ子三人を返り討ちにして殺してしまった。
だから慌てて、この土地から逃げたっていうーー。
それでも、筋が通るとは思わないか?」
「え、まさか?」
と絶句する私と違って、藤野亨は妙に納得したように、
「僕も、ソッチの案の方があり得るって思うな」
と頷いていた。
でも、竜胆光太郎社長の思考は、さらに続いていた。
まるで舞台俳優のように大袈裟な身振り手振りで、喫茶店を歩き回る。
またも、新たな着想を得たようだ。
「いや、待てよ。
この三人の死傷の事情ってのが何かあって、息子さんはその何かを知ってしまったから、必死に両親を説得して引っ越したのかも。
『今度は自分が犠牲になるのでは』
と怯えて、逃げ出したのかもしれん。
ーーマズイな、ほんと。
マジで妄想が膨らんで、止まらん。
困ったな、これは」
「困った」と口走りながらも、社長は心の底から楽しそうに笑みを浮かべている。
我が竜胆不動産のボスは、妄想に耽ることを、こよなく愛しているようだった。
そこへ、スマホから着信音が鳴り響く。
大手不動産会社の古賀渚から、連絡が来たのだ。
思ったより、遥かに早い報告である。
電話を受けた竜胆光太郎は、まさに顎が外れんばかりに驚愕した。
予想外の返事を売主から得られた、と渚さんが伝えてきたからである。
「売主さんにあなたの意向を伝えたら、
『是非、家にお呼びしたい。
息子にも、どうぞ会ってやってください』
ですって!」
◆4
翌日ーー。
曇天の空の下、私たちは売主の牟田直志さんの住む、K市I文化センター近くの住宅を訪問した。
売主の牟田さんが自宅にお招きしてくれたおかげで、息子の直茂くんに会うことができたのだった。
こちらへ伺う前、竜胆光太郎社長は、どうやったら牟田直志・貞子らご両親に退席してもらって、高校生の直茂くんとだけの面会に持ち込むことができるか思案していた。
一対一でないと、本音が聞き出せないと懸念していたからだった。
少しでも相手の心象を良くしようと、竜胆光太郎社長は気を遣った服装をしていた。
今日はダークブラウンのスーツ姿だ。
私、神原沙月も、紺のスーツに、リュックを背負うのではなく、ショルダーバックを肩に提げていた。
多少、フォーマルを意識したスタイルになっていた。
だが、そうした気遣いは一切、無用になってしまった。
息子の牟田直茂くんとは対面できたが、会話自体が出来なかったからだ。
なんと、息子の直茂くんはこちらへ引っ越す直前に交通事故に遭い、以来、意識不明の重態になっていたのだ。
直茂くんは、例の喫茶店付き住居に住んでいた際に事故に遭い、K市の総合病院に担ぎ込まれ、なんとか一命を取り留めた。
しかし、もはや以前のような生活は望めなくなり、両親は病院に通い詰めるために、病院に近いK市の中心街に引っ越したのだった。
竜胆社長が、売主さん一家が引っ越した原因をあれこれ考えていたが、すべて推測が外れていた格好になる。
息子の直茂くんは介護用のベッドに横たわっていた。
機械から空気を入れる管が繋がれたプラスチック製のマスクを装着しており、昏睡状態のまま、彼はずっと目覚めることはなかった。
「あんなところ、すぐに手放せば良かったんです」
と、母親の貞子さんが涙目になって、喉を震わせる。
着古したジャージ姿で、彼女の顔はすっかりやつれていた。
とても長年、喫茶店のウエイトレスをやって来た女性に見えなかった。
対して、売主である夫の牟田直志さんは、いかにも喫茶店のマスターらしく、紫のサマーセーターに、黒のチノパンツといった格好だった。
が、その表情は暗く、時折、感情的になって顔を上げるとき以外は、始終、俯くばかりとなっていた。
◇◇◇
喫茶店に五台も車がぶつかって来たため、オーナーの牟田家には保険金が下りていた。
その賠償金で、三度も店を修復したうえに、余財もあった。
まだ未修理な段階でも車が突っ込んだりしたので、再度、改築を目論んでいた。
その矢先に、息子の直茂くんが事故に遭い、急遽、喫茶店ウエルカム自体を売り払うことに決めたらしい。
改築費用予定のお金があったので、直茂くんの治療費に心配はなかったが、長期入院となると、資金にゆとりはなかった。
なので、新居に直茂くんを引き取り、意識の回復を願う日々となっていた。
ちなみに、直茂くんが事故に遭う前の段階で、すでに喫茶ウエルカムにお客さんが寄り付かなくなっていた。
事故の多発を怖がられていたからだ。
それでも、オーナーである牟田直志は喫茶店を畳むつもりはなかった。
そんなとき、息子の直茂くんが、「いじめっ子から脅されている」ことを両親に打ち明けた。
「動画を削除しても、いじめっ子たちは許してくれない」と。
息子さんは、いじめっ子三人組、足利高俊、今川翔、大友尚志と、小中高ともに一緒の学校に通っていたが、グループは別で、顔見知り程度の仲だった。
たまたま、自分の部屋の窓から外を見たとき、K川の土手でいじめが展開していたので、スマホの望遠レンズを駆使して撮影し、直茂くんはその動画をネットにアップした。
ウケ狙いの気軽さだったが、軽く義憤に駆られていた面もあったろう。
遠方からの撮影だったので、自分が撮ったことはバレないだろうとタカを括っていた。
だが、あっさり撮影場所が特定されてしまった。
足利、今川、大友の三人は、時折、喫茶ウエルカムでナポリタンやカレーを食べていたので、客席から窓の外を眺めたことがあり、喫茶店から見える景色を少し上から眺めたらどのような映像になるか、容易に想像が付いたのである。
一方、牟田直茂くんは、彼らに撮影場所を特定されて慌てた。
掲示板に脅しの書き込みがあったので、急遽、動画を削除した。
だが、時すでに遅く、映像は拡散していた。
結果、いじめっ子三人組は、直茂くんを学校の裏庭に呼び出して脅したという。
「お前、なんで、あんな動画、撮ったわけ?
なに? あのクソが可哀想だって言うの?」
彼らが「クソ」と言うのは、溺れ死んだ大原武光くんのことである。
いじめっ子たちは、例のいじめ殺しについて、まるで反省などしていなかった。
「クソが想像以上に根性がなかったから、死なれてしまった」としか思っていなかった。
三人組は、直茂くんを校舎裏の壁際にまで追い込んで、取り囲む。
「せっかく、俺たち、無罪放免ってことになったのに、マジでヤバくなったら、どーしてくれんのよ?
今更、削除したって、あの川辺の映像、拡散してるし。
下手したら、俺ら、退学になるっちゃろ。
仕方ねーから、あの動画はフェイクだって、親にも言ってあるから。
お前、勝手に口出しするんじゃねえぞ」
「ったく、あの動画はインチキってことで押し通すからな。
だから、お前が盗撮に使った窓、キッチリ塞いでおけよ。
あそこから撮った映像だって人にバレたら、わかってるな!?
ほんと、人の迷惑ってのを考えろよな。
オトモダチ作戦で、あのクソをいじめてたこと、なかったことになってたっていうのに、どーしてくれんのよ。
俺なんか、マジで泣く演技までしたんだ。
その苦労が無駄になるっちゃろ?」
「もし退学になってみ?
俺なんか、親父にドヤされるから、お前に慰めてもらうしかなくなるだろーな。
もちろん、金銭で。
慰謝料、請求すっから。
俺らはしつこいよ。
ナオシゲ、俺らのこと舐めてっと、あの溺れたクソと同じ末路になるよ?」
ゲラゲラと、三人いっせいに笑う。
主犯格の足利高俊が、直茂くんの襟首を掴んで凄む。
「ゴタゴタ言い立てる、町内会のジジイやババアの家にも、何度も嫌がらせしてやった。
そしたら、ジジイが寝込んでね。
結局、腰が引けたババアが、俺らに、
『私どもの車を差し上げますから、それで許してください』
って言ったから、好きに使わせてもらうことにしたんだよ」
主犯に同調して、今川と大友の二人も、唾を吐きかける。
「お前にも、キッチリ、落とし前をつけさせてもらうけん。
お前ん家の店の名前、ウエルカムっていうの、マジでウケるわ」
「俺たちが車を転がして、この喫茶店にぶつけたら、どうなるかなあ。
お前ん家、何度もぶつけられたっていうけど、マジで突撃したの、なくね?
俺だったらマジで喫茶店の入口から粉砕しちゃるけん」
ーーそのように、三人組から脅されたという事実を、半分、泣きながら、直茂くんは両親に訴えてきたという。
それを受けて、母親は即座に引っ越すことを提案した。
ところが、オーナーである父親は首を縦に振らなかった。
そればかりか、逆に息子を叱り飛ばした。
「オトコんくせに、情けなか!
やり返せばよかろうもん!」
と平手打ちにした、という。
三人組ーー足利、今川、大友の親は、土地開発会社の人だった。
政治家との繋がりも濃くて、巨大スーパーを誘致して、あの喫茶店があった地域一帯を開発しようとしていたーー。
◇◇◇
お母さんの牟田貞子さんは、両手を強く握り締めて語る。
「それまでは、あの喫茶店も、買い取ろうと持ちかけてきた会社がありました。
相場の何倍もの値段を提示されてたんです。
それなのに、主人が首を縦に振らなくて。
そのうちに沙汰止みになって。
あのとき、さっさと引っ越していれば……」
妻の呻き声を聞きたくないとみえて、オーナーの牟田直志さんは耳を塞ぐような格好になって、自分に言い聞かせるように言った。
「あそこでの生活に満足していたんだ。
あの店、喫茶ウエルカムにだって、愛着があった。
俺はあそこで生まれ育ったんだ。
祖父の代には煙草屋だったが、親父の代で喫茶店になった。
築八十年以上を数える住まいだったんだ。
だからーー」
言い訳めいた物言いに、妻が金切り声をあげる。
「でも、こんなことになったじゃない!
肝心の息子がーー跡取りが、こうなっちゃって、どうするのよ!
やっぱり呪われてたのよ、あの土地は!」
「……」
結局、近隣の土地を買収して大手スーパーを誘致しようとした、土地開発会社も急に潰れてしまった。
おかげで、喫茶店が高値で売れる見込みもなくなってしまった。
貞子さんは、血が滲み出るほど強く唇を咬む。
「ご近所では、大手スーパーが来るのを楽しみにしていた人も多かったけん、その会社が倒産したことにガッカリしたっちゅう声もあった。
『アンタらがさっさと立ち退かなかったせいだ』
と後ろ指をさす者もいて、結局、土地に居づらくなった。
お金を手に入れることもなかったのに、ご近所さんからは、『強欲だ』と罵られて。
なのに、このヒトは……!」
貞子さんが睨み付ける。
オーナーの直志も俯いたまま涙ぐみ、深く後悔しているようだった。
当時の彼は、息子を脅していた三人組が交通事故で自滅したうえに、強引に家を買い取ろうとしていた会社までが倒産したことを知り、ざまあみろとばかりに自分の店でその話しを吹聴していた。
「脅しがなくなったけん、もう引っ越す必要はなか!」と。
それから一週間後のことだった。
息子の直茂くんが車に轢かれて、重傷を負ったのは。
轢いたのは、近所に住むおじいさんで、ブレーキとアクセルを踏み間違えたという。
よくある老人の運転操作ミスだった。
犯人のおじいさんは今現在も収監されているが、過失による事故だから、数年もすれば出所してくると思われる。
息子の直茂くんが寝た切りになったことを同情する人もいたが、「欲が深いけん、バチが当たった」と陰口を叩く人や、おじいさんが罪を得て留置所で生活することになったのを憐れむ人も多かったという。
喫茶店を経営していたご家庭は、踏んだり蹴ったりのありさまだったのだ。
「轢いたのは、この人」
奥さんの貞子は、スマホの写真を、身近にいた私、神原沙月に見せる。
「ーーこのおじいさん、ウチの常連客だったわ。
ほら、隣に写ってる奥さんのおばあさんと一緒に、店を気に入ってくれていた。
それなのにーー」
その画像を見て、私は驚く。
(この、おばあさんは……!)
でも、声を出さなかった。
傷心の売主夫婦を気遣ってのことだ。
幸い、私の表情の変化に、売主の牟田さんご夫婦は気付かなかったようで、
「ほんとうに不幸なことばかりが起こって」
「もう、何が何だか……」
と呟いて、結局、ご夫婦二人して泣いていた。
しばらくしてから、オーナーの牟田直志は泣き腫らして赤くなった顔を上げ、竜胆光太郎社長の方を向く。
「あなたの言い値で売ります。
すぐにでも買ってください。
祖父の代からの建物ですが、もう住みたくないんです」
牟田さんは、夫婦揃って、深く肩を落とし、意気消沈していた。
交通事故で昏睡状態となった息子を抱えての生活を、これから何年も送らなければならないのだ。
さすがに竜胆社長も、事情を聞いた後で値切るのには、気が引けたらしい。
「当初の値段で結構です。
さっそく仲介不動産の人に連絡しておきますので……」
◇◇◇
それから三十分後ーー。
私たちは、売主の牟田さんご夫婦の新居から出ていった。
駅までの帰り道、竜胆社長は大きくひとつ伸びをしてから、私に問いかけた。
「さっき、何に驚いていたんだい?」と。
私は、なぜだか答えるのに抵抗を感じた。
が、それでも、誰かに伝えたい思いもあったので、口にした。
「売主の奥さんがスマホで見せてくれたヒトーー。
息子さんを轢いたおじいさんの隣りに写っていた奥さんが、私に河原でのいじめ事件を語ってくれた、あのおばあさんでした」
「ということは、高校生の息子さんを轢いたのは町内会長さん、というわけか……」
竜胆社長は腕を組んで、しばし黙っていた。
それからしばらくして、ポン! と手を打って宣言した。
「今日のところは、ここで解散しよう。
あとの手続きは渚ちゃんに任すとして、一週間後にあの喫茶店で落ち合おう。
リフォームの検討もあることだし、その前に、事故物件の周囲で起こっていた事実を検証していこう。
トオルくんにも連絡を入れて、事故物件から事故の原因を取り除き、普通の物件に塗り替えようじゃないか」
私は黙って頷くのみだった。
◆5
それから、一週間後ーー。
すでに手続きが終わり、竜胆不動産が所有する物件となった例の喫茶店で、私たち、神原沙月、藤野亨、竜胆光太郎は集まった。
これから仕事の総括が始まる。
私は少し緊張した面持ちで、香りの良いコーヒーを淹れて、テーブルに並べる。
事故物件について、なぜ? という疑問を解き明かしていく時間だ。
竜胆光太郎社長と藤野亨の活躍で、いろいろとわかった。(ちなみに、私、神原沙月は、彼らのように、事実解明の役には立っていない。だが、リフォーム案の具体化に向けて、資材の調達やそのための費用の算出とかをしていたから、決して遊んでいたわけではない)
まず、どうして五台もの車が、この喫茶店にぶつかったのか。
わかってしまえば、じつに簡単なことだった。
車で突っ込んだ人、五人分のリストを藤野亨が提出したのだ。
私は思わず声を上げた。
「すごい情報ですね!
藤野先輩って、どういうツテがあるんですか?
警察関係にまで手が伸びているの?」と。
年齢もそんなに離れていないのに、有能すぎやしませんか?
ほんとうに、私は恥入るばかり。
それでも、藤野亨は照れくさそうに、首筋に手を当てる。
「いやあ、これは警察から手に入れたモノじゃないですよ。
あのヒトたちは身持ちが堅くって、ドラマみたいに内部情報なんか開示してくれません。
新聞記者でもない僕には、とてもとても。
コイツは事故で発生した賠償金を支払った保険会社から引っ張ったリストっす。
ラストの一人はマジに事故っただけみたい。
だけど、ほかの四人には共通点があった。
みんな、同じ会社に勤めていたんです」
「やっぱり、例の開発会社か?」
と竜胆社長が問うと、藤野先輩は黙って頷く。
社長は、ふーむ、と鼻息を荒くした。
「なるほど、五台も車が突っ込んで来たのには、やはり真っ当な理由があったんだな。
車を物件にぶつけて、住人を追い出そうとしたのか。
地上げを仕掛けていたーーつまり、人為的な事故だったというわけか。
なにが、『急にブレーキが効かなくなった』、『まるで何かの力で引き寄せられるようだった』だよ。
テキトーな証言してんじゃねえよ。
ったく、まるで昔のバブル時代のようだな。
ーーそれにしても、何度も車をぶつけるってのは、しつこいな。
脅しの役に立ったら、それで良い、という気組みか。
その度に保険会社が金出してるのもおかしいな。
よほどのマヌケか、癒着してたか」
地元の土地開発会社が、社運を賭けたプロジェクトに乗り出していた。
喫茶店の裏にあった工場跡地を買って、巨大なショッピングモールを誘致しようとしたのだ。
全国チェーンのスーパーの社長と、地元の有力者とが、背後で音頭を取っていた。
だが、問題があった。
土地の先端に位置付く喫茶店の住人が頑固で、一向に立ち退こうとしなかったのだ。
ヤキモキした開発業者は、車をぶつけるなどして脅しかけたが、無駄だった。
そうして三年の月日が過ぎ去るうちに、変化が起こった。
手を組んだ地元有力者が反社組織と癒着しているとして、他の政党から叩かれ、さらにそこに誘致される予定だった全国チェーンのスーパーがいきなり進出を断念したのだ。
「地元の方が反対し、三年も計画が頓挫しているようでは、進出し難い」
という言い分だった。
が、これはあくまで表向きの理由に過ぎない。
ほんとうは、全国進出推進派の社長が金銭トラブルで退陣し、代わって社長となった人物が緊縮財政を主張して、全国各地で展開予定だった事業から手を引く方針を打ち出した結果だった。
おかげで割を喰ったのは、自社の資金まで投げ打って土地を買い占めてきた地元の土地開発業者であった。
大手スーパーの誘致に失敗したばかりか、別の勢力に、別の場所に地方スーパー施設の誘致に成功されてしまい、完全に計画が破綻し、資金繰りがショートした。
取引銀行が急に取り立てを始めて身動きができなくなってしまい、不渡りを出して、その開発会社はあっという間に倒産してしまった。
その土地開発業者は八、九十年代には地上げ屋として活躍し、反社とのつながりもあると噂されていたが、潰れてしまったのだ。
竜胆社長はスーツの襟を正しつつ、淡々と説明する。
「売主の息子さんを脅した三人のいじめっ子についてだけど、彼らはみな、スーパーを誘致しようとした土地開発会社社員の息子だった。
トオルくんが持ってきたリストでは苗字が違ってるから、直接の親ではないんだろうけど、売主さん一家を追い出そうとして、喫茶ウエルカムに車をぶつけた連中も、みんな親父さんの仲間だろうよ。
だから、その子供たちも、親やその仲間たちのやっている所業を見て、
『言いなりにならない相手には、脅しかければ良い』
っていう、悪い癖がついてしまったようだね。
ーーいやあ、それにしても、ほんとに狭い世界だよな。
そんな彼らが息子の直茂くんに語ってたセリフ、覚えてる?
『ゴタゴタ言い立てる、町内会のジジイやババアの家にも、何度も嫌がらせしてやった。
そしたら、ジジイが寝込んでね。
腰が引けたババアが、俺らに、
『私どもの車を差し上げますから、それで許してください』
って言ったから、好きに使わせてもらうことにしたんだよ』
って言ってたよね?」
そんなふうに正確に覚えているのは竜胆社長だけだと思い、私は苦笑いを浮かべる。
竜胆光太郎社長には奇妙な特殊技能があった。
書物の頁を一目見るだけで、丸ごと写真を撮るように記憶してしまい、その記憶から随意に必要な箇所を引っ張り出すことができるという「速読術」だ。
しかし、それは驚異的な記憶力があってこそ可能な技能であり、現に、今も聞き伝えで得た言葉を正確に再現しているようだった。
実際、直茂くんのご両親によれば、そのようなことを言って脅しかけられたはずだった。
竜胆光太郎社長は椅子に身を預けつつ、両目を爛々と輝かせる。
「で、その『ジジイ』というのが、あのおばあさん・菊池晴子の夫、町内会長の菊池源太さんだったらしい。
そして菊池源太さんは、三人組が死傷事故を起こす前に、『自家用車を盗まれた』と警察に被害届を出していたんだ」
藤野先輩が目を丸くして、竜胆社長の方に顔を向ける。
「なんですか、社長。
警察情報なんか手に入れちゃって。
警察にコネがあるんですか?」
竜胆社長は髪を掻き上げ、口を窄める。
「コネって言い方、なんか人聞きが悪くないかい?
警察関係のOBに、ちょっとした知り合いがいるだけだよ。
さすがに現役の警察官に手出しはできないよ。
ーーとにかく、そんなことだから、例の三人組は『盗難車』で勝手に暴走して事故ったことにされたんだ。
で、問題なのは、その過程でわかったことなんだけど、その『盗難車』が、意図的にブレーキ部分が細工されていたかも、っていうんだ」
「意図的な細工?」
と私が聞き返すと、竜胆社長は私の方に目を遣って語った。
「そう。
いつブレーキが効かなくなっても、おかしくなかったっていうんだ。
鑑識は首を捻っていたってよ。
でも、その三人組の素行が悪いことは知られていたから、
『三人組が勝手にブレーキをいじったんだろう』
ということで決着させたようだ。
例のいじめ動画、警察の人たちも目にしていて、実際にヤツらが『友達』をいじめ殺したんじゃないかって思ってた人もいたらしい。
でも、政治家経由の圧力もあったうえに、学校が『いじめはなかった』ってことにしてたから、捕まえようがなかったって。
とはいえ、確実に、あの三人組はクロ認定されていたんだな。
だから、ヤツらが事故っても、ざまぁと思う人しかいなかったらしい。
もちろん、これはオフレコだけど」
「だったら、そのブレーキの細工をした人物はーー」
私は息を呑む。
竜胆社長は、意を得たりとばかりに、強く頷く。
「そう。
その車の所有者が、あらかじめブレーキに細工をして、三人組にくれてやったと考えるほうが自然だよね。
しかも、町内会長の菊池源太さんは年金生活に入る前は、自動車整備工をしていたそうだよ。
だから、菊池夫婦と面識がある年配の人ほど、
『町内会長の菊池さんの車が盗まれた挙句、事故を起こして、悪ガキが亡くなった』
と聞くだけで、ああ、と納得したような顔をしていたな。
もっとも、誰もが嘆声をあげた後、口を噤んでいただけだけど。
ったく、なにが『私どもの車を差し上げますから、それで許してください』だよ。
嘲っていた老夫婦に、ヤツらは見事に嵌められたってわけだ」
「そして、直茂くんを轢いたのも、あのおばあさんの夫、菊池源太……。
でも、どうしてーー」
「これについては、意外と簡単に想像できる」
と、今度は藤野先輩が、テーブルに身を乗り出すようにして語り始めた。
「町内会長の菊池さん宅の戸籍関連を調べてみたら、三人組にいじめられて、亡くなったとされる高校生ーー大原武光くんっていうんだけど、じつは町内会長夫妻のお孫さんだったんだ。
母方の祖父母だったので、姓が違っていたから、わかりにくかった。
お二人の娘さんの息子だったんだ。
そして、娘さんはすでに病死している。
『くれぐれも孫を頼みます』って、亡くなる前に娘さんから、おじいさんとおばあさんは言われていたのかもね」
「ああ、そういう……」
疑問が一気に氷解した。
老齢の町内会長夫妻にとって目に入れても痛くない孫が、近所に住んでいた。
彼は母亡き後、父子家庭で育てられ、男手だけでは行き届かないことも多かっただろうから、菊池のおじいさん、おばあさんがなにくれとなく面倒を見てきたに違いない。
そうして、高校生にまで育った。
それなのに、悪ガキどもに、面白半分に殺された挙句、その事実を、地元の有力者や学校によって隠蔽されてしまったーー。
そんな事情があったなら、菊池のおじいさんとおばあさんが、いじめっ子三人組を深く恨んでいて当然だ。
この喫茶店近くの河原で犯行があったのも、ひょっとしたら近所の菊池夫妻宅へお邪魔した帰りか何かの折に、起きた事件かもしれない。
結局、菊池さんご夫婦は、お孫さんがいじめ殺された復讐を、見事に果たしたのだ。
「でも、おじいさんが売主の息子さんを轢いたのは、どうして……」
彼、牟田直茂くんも、いじめっ子たちに脅しかけられていた。
その意味では、彼もいじめの犠牲者といえる。
それに、いじめによる殺人だという証拠映像を残してくれた功績もあったのに。
その疑問には、眉間に皺を寄せながらも、竜胆社長が答えた。
「沙月さん。
君は恨み深くなった人間の厳しさってのを甘く見ているよ。
牟田直茂くんはね、三人組から脅しかけられていたとはいえ、菊池さんとこのお孫さんがいじめられているのを承知していながら、何もしなかったんだ。
しかも、いじめの現場を撮影までしていたのに、警察で何も証言してくれなかった。
それが許せなかったんじゃないのかな。
結果、『あの三人組と同じだ』と、おじいさん、おばあさんに思われてしまったらしい」
たしかに厳しい見方だと思う。
だけど、おばあさんの恨み深い表情を思い起こせば、彼ら菊池夫妻にとって、直茂くんを恨む、もっと直接的な理由が何かあったのでは、とも思った。
いじめ認定をお願いしたとき、無視するばかりか、おじいさん、おばあさんを嘲ったとか。
じつは、その直茂くんのせいで、お孫さんがいじめられるようになった、とか。
様々に考えられる。
だが、そうした理由説明を、あの菊池夫婦から聞き出すことはできないだろう。
菊池晴子さんの恨みはいまだに深く、源太さんは、今も囚われの身なのだから。
私は竜胆光太郎社長に、上目遣いで、オズオズと尋ねた。
「社長。今回も、もちろん、警察にはーー?」
竜胆社長はコーヒーをグイッと飲み干すと、大声で答えた。
「当然、何も言わないよ。
だって、それこそ妄想に妄想を重ねた推論だもの。
それに、晴子おばあさんにまで獄中に入ってもらうのは忍びないだろ?
現在収監中の源太おじいさんだって、死ぬまで出てこられなくなる。
というより、そもそも、こんな妄想話だけじゃあ、警察に通報することもできないよ。
ネタが薄弱すぎる」
そう断言すると、竜胆光太郎社長は、いきなり顔を藤野亨に向け、優しい声をかける。
「今回は史蹟巡りが無駄になったようで、悪かったね」
藤野亨はゆっくりと首を横に振る。
「そんなこと、ありませんよ。
『日本三大合戦の一つ』とされる、『T川の戦い』は、僕たちに、第三者であることの気組みってやつを教えてくれました。
地元の僧侶は、敵味方の区別なく、両軍の死者を一緒に供養して、五万騎塚を立てた。
そんな僧侶のような気組みになれってことです」
南北朝時代の大戦争と、地元の利権のゴタゴタや若者のいじめを同じ次元で語ることはできないかもしれない。
でも、大義名分を掲げた者同士がぶつかった結果の悲惨さ、そして被害に遭うのは現場で動いた末端のものばかり、というのはいつの時代でも同じかもしれない。
そして、どちらが勝とうとも、その栄華は長続きしないだろうことも。
「所詮、『この世は諸行無常』、『栄枯盛衰は世の常』というわけか。
軽々しく、いじめなんか、するもんじゃないな」
そう締め括ると、竜胆社長は立ち上がり、二階天井にまで広がる高い吹き抜けを見上げてから、急に私に話を振った。
「ーーということで、沙月さん。
この三角地、うまいこと邪気を祓って、商売繁盛に結びつけてくれ。
喫茶店を開業したい人に、あたりは付いている。
改装できそうか?」
「はい。任せてください」
私は明るい声をあげた。
内心、なんだか、ホッとしていた。
あとは、私が私の仕事をするだけだ。
何枚もの写真と図面をテーブルに広げて、私は一気に捲し立てた。
「まず外装ですが、あの腰壁に使われているタイルはそのままで、板壁部分を塗り直しましょう。もっと明るめの色で。
それから、三角地が風水的に不吉だというなら、庭の先端部分に植え込みを増やしましょう。ツツジあたり、どうですか。
結果、尖った部分が丸まれば、それだけ運気も良くなるんでしょうから。
まあ、ここら辺は、新たな住人のご趣味もあるでしょうから、要相談ですかね。
あと正面玄関の布製の庇は古いので、撤去しましょう。
玄関扉はこのままで。趣があって良いと思いますので。
中については、居抜きで使えるほど、十分綺麗ですが、ちょっと手直ししましょう。
カウンターの板は綺麗なものに張り替えて、キッチンには新しいタイルを貼るのはどうでしょう。
他にもいろいろありますが、基本、一階の喫茶店部分は結構、このままでイケると思います。
問題は住居部分です。
入口の扉から、変えましょう。
白色はヘタに目立って良くないし、あの『喫茶店の入口じゃないですよ』といった警告文、あるだけでダサいです。
一見すると、壁にしか見えない仕様にしようかと。腰壁のタイルを延長して、扉の表面を壁の板間と同じにしてしまうんです。
そして二階トイレは一階トイレ並みにお洒落にしてあげましょう。せっかく広いし、洗面所、脱衣所を兼ねてるんですから。
和室と洋室については、畳を入れ替えて、板床を綺麗に塗り直します。
そして吹き抜け部分は金網だけじゃ危ないですから、いっそしっかりした足場を作って、ロフト仕様にするのも悪くないかと。
ーーああ、洋室の、壊しちゃった窓ですか?
もちろん現状より、さらに大きめの窓に張り替えて、T川を良く見えるようにします。
いじめ現場を撮影した不吉なところかも知れませんが、そんなことを知らなければ、ただ単なる絶景ポイントですからね、使わない手はないですーー」
私が熱心に語る間、社長はニコニコと微笑みながら頷くばかりだった。
そして、テーブルに広げた紙に、丸や四角、三角の、怪しげな図形を描いていた。
何枚も、何枚も描き続ける。
「社長、聞いてます?」
と私が言うと、社長は図を描きながら、
「聞いてるよ。
ほんと、君を雇って良かった。
安心して任せられるよ。
うん」
と、形通りの返事する。
「ほんとですか?
なんだか軽くあしらわれているような……」
と私が食い下がっても、竜胆社長は怪しげな図形と、ミミズが這ったような文字を、黒や黄色のペンで記すのをやめようとしない。
それも何枚も。
そういえば、今まで佐賀県K市や、福岡N公園の事故物件でも、何やら変な図形を描いて呪文めいた言葉をブツブツと唱えていた。
思わず尋ねてしまった。
「それ、曼荼羅だそうですけど、何を描いてるんですか?
それに、いつも事故物件を買ったあと、変な呪文を唱えてるでしょ?
何なんですか、それ。
気になっちゃって」
竜胆光太郎は、私の顔に向けて、にこやかに微笑み、
「悪いね。
今からあちこちに、コイツを貼ってくるから、ちょっと待ってて。
それから会社に帰ろう。
それで今日のお仕事はアガリってことで」
と、私の質問には何も答えないままで、社長は席を立ってしまった。
大きな背中が、玄関扉から出て行ってしまう。
そのさまを眺める私の顔が、よほど不満げに見えたのだろう。
代わりに同僚ーーというか、ちょっと先輩の藤野亨が、コーヒーカップを片手に説明してくれた。
「サツキさん。
今まで、いつも事故物件のすぐ近くに、心霊スポットがあること、おかしいと思わなかった?」
「それは、まあ……。
でも、全国津々浦々、どこにでも事件や事故はあるものだから、たまたま、とーー」
「それも、わかるけどね。
でも、竜胆社長が狙う事故物件は、当てずっぽうで選ばれているんじゃないんだ。
じつはね、そういう心霊スポットが近い、影響を受けた物件を狙って、買い上げているんだ」
「え? なに、それ?」
「安値で買い叩けるから、商売上、美味しいってのもあるだろうけど、それ以上の理由もあるんだよ。
オカルトじみてるけど、笑わないで聞いてくれる?
じつは社長は全国を渡り歩いて、あの世へと通じる『霊道』を塞いで回ってるんだ」
「レイドウ……ああ、『霊道』ね?」
なんだか、何日か前に、社長が口にしていた気がする。
藤野先輩は両手を組んで、その場所に顎を乗せる。
とても年上とは思えない童顔男の、可愛い仕草だった。
が、顔付きは至って真面目だった。
「『霊道』ってのは、『死者の霊の通り道』のことなんだ。
臨死体験をした人が揃って『三途の川を渡る』って口にするのを知ってるだろ?
その前段階、死者の霊魂が肉体から抜けて、この世からあの世に向かう際に通る道があるっていうんだ。
それが『霊道』で、その入口は、この世の空間に裂け目が出来たら現れるんだって」
「『空間が裂ける』って、どういうーー」
「僕も良くわからない。
でも、社長が言うには、心霊スポットや、呪いの現場ってのは、そういう空間の裂け目が広がっている場合が、極めて多いって言うんだ。
今回で言えば、大昔のこととはいえ、十万もの軍勢がぶつかって殺し合って、五千人も死んだ場所近くの物件だった。
だから、昔から空間が裂けていて、霊道が無駄に広がっていたっておかしくない。
昔から、そのままだったそうだし。
お坊さんが供養碑を立てたけど、それだけじゃとても塞げない穴が空いちゃって。
穴の向こうは、こっちの現実世界とは別の空間に繋がっていて、何やら良くわからないモノが溢れ出てきたりするんだって。
だから、普通だったら、ここまでヤバいことにはならない事象ですら、悪い方へ悪い方へと事態が転がっていく。
実際、心霊スポットや呪いの噂が立つようなところって、事故物件が多いんだよ。
もっとも、客観的な統計を取ったっていうんじゃなくて、社長が言うには、『僕個人の、今までの経験で培った主観というヤツに過ぎない』のだそうだけど。
ーーああ、でもサツキさんは、僕の言ったことを気にしないでいてもらうと嬉しいな。
別に、僕も社長も、ヘンな宗教団体に属していたり、自分の信条をサツキさんに押し付けようとしているわけじゃないんだから。
社長が、君に何も言おうとしていないのにも、きっと理由があるんだろうし。
だからさ、社長が期待しているように、買い上げた事故物件をリフォームで魅力を引き上げてくれれば、サツキさんはそれで良いから」
そう諭すように言って、藤野亨は肩をすくめて笑う。
「はあ」
と、なんとも釈然としない気分を残したまま、私は生返事するしかない。
霊道?
空間の裂け目?
実際に、そんなことが、あるのだろうか?
正直、私としては、妙な説得力があるのが怖い。
今度訪れる事故物件がまた、歴史的な曰くや、心霊スポットの場所だったら、今の話が信憑性が出てきそうで、ちょっと怖かった。
(了)




