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君はまだ、本当の自分を知らない  作者: 曖昧


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水族館

 そして、とある日。


「今日は、出かけよっか」


 もちろん、拓真は反応しない。それでも緋依はコートを着せ、マフラーを巻き、その手を引いた。


 外気は冷たく、吐く息が白い。駅までの道で、彼は信号の変わる音に一瞬だけ顔を向けた。微細な反応。それだけで、胸が少し温かくなる。


 向かったのは、水族館だった。


 ガラス張りの建物。入り口には大きなマンボウのオブジェ。チケット売り場の上には、青い波を模した装飾が揺れている。


 付き合っていた頃に何度も来た場所。何度も笑った場所。


 自動ドアが開いた瞬間、湿った空気が頬に触れる。塩と水の匂い。遠くで水が落ちる音。


 子どもの歓声が反響して、少し遅れて耳に届く。


 館内は薄暗く、天井近くのスポットライトが水面を照らしている。床には、揺れる波紋の光が映っている。歩くたび、青い影が足元を流れる。


 最初の水槽には、色とりどりの熱帯魚。


 黄色と青の小さな魚が群れを成して、一斉に向きを変える。銀色の鱗がフラッシュみたいに光る。


 拓真は立ち止まる。


 視線が、水の動きに合わせてゆっくりと動く。


 指先が、わずかに揺れた。


「きれいだね」


 返事はない。けれど、目は追っている。


 次のエリアはペンギン。


 水中を弾丸みたいに滑る黒と白の影。陸に上がると、よちよちとぎこちなく歩く。


 子どもがガラスを叩き、係員が注意する。


 拓真は、音のほうへ顔を向ける。一瞬だけ、瞬きが増える。刺激は、届いているらしい。


 さらに進む。


 巨大な回遊水槽。エイが頭上をゆっくり横切る。腹側が白く、口が笑っているみたいに見える。


 サメが、静かに円を描いて泳ぐ。水の重みが、ガラス越しに伝わってくる。


 進むに連れて周りの色が青く深くなる。

 緋依は、その奥へと足を進めた。

 

 その先にあるのは、クラゲの展示室。そこは、他の部屋と違って一段と暗い。


 壁も床も黒に近く、中央に円筒形の大水槽がある。上から落ちる光が、ゆっくり色を変える。青、紫、淡い白。


 無数のクラゲが、静かに漂っていた。


 半透明の傘。細い触手。


 ふわり。ほどける。また、まとまる。


 鼓動のように、ゆっくり収縮する。


 形は一定じゃない。


 崩れ、伸び、丸まり、そして戻る。水の流れに乗って、上へ、横へ、下へ。衝突しそうで、ぶつからない。


 光が内部を透過して、体の奥がほのかに光る。まるで、小さな宇宙船。あるいは、星雲みたい。


 緋依は拓真の隣に立つ。


「覚えてる?」


 もちろん、返事はない。


「宇宙みたいだって、言ってたよ」


 水槽の光が、拓真の横顔を照らす。


 頬のライン。まつげの影。あの頃と同じ横顔。変わらない、穏やかな無表情。


 けれど、視線だけは、確かにクラゲを追っている。


 ひとつの個体が上昇し、傘を縮める。その動きに合わせて、彼の瞳がわずかに動く。


 拓真は、ゆっくりと手を伸ばす。ガラス越しに、浮かぶ光をなぞる。


 指先が、青く染まる。

 

──そのとき。


 ほんのわずかに、目の奥が揺れた。それは、本当に微細な変化だった。


 焦点が、奥へと沈む。


「……きれい」


 はっきりした声だった。緋依は息を止める。


 拓真は、まだ水槽を見ている。


「……うちゅう、みたい」


 (つたな)く、途切れながら。でも確かに、あの頃の言葉。


 クラゲの光が、彼の瞳の奥で反射する。緋依の喉が震える。


「うん。宇宙みたいだよね」


 声を壊さないように、ゆっくり言う。


 彼が、こちらを向く。一瞬だけ。本当に、一瞬だけ。焦点が合う。


 青い光の中で、懐かしい光が灯る。迷いでも、空白でもない、"理解"の光。


「……ひい…ろ?」


 名前を呼ばれた。かすれた、壊れそうな音。でも、呼んだ。確かに、彼が呼んだんだ。


 次の瞬間。それは消えてしまった。


 水面に浮かんだ泡みたいに、静かに弾ける。


 瞳は、また穏やかな空白へ戻る。


「……どうしたんですか?」


 小さく、丁寧な声でそう言った。


 その言葉を聞いた時、緋依は泣かなかった。だって、見たから。ほんの一秒くらい。短い時間だったけれど、確かにいた。 


 クラゲは、形を崩しながらも、完全には消えない。


 ほどけても、また集まる。崩れても、また、ゆっくりと戻る。


 水の流れに押されても、光を失わない。


『記憶』も、きっと同じだ。


 今は深い海の底に沈んでいるだけで、どこかで揺れている。


 完全な空白なんて、本当は存在しないのかもしれない。


 そんな事を考えながら、そっと彼の手を握る。


 冷たくない。温かい。脈がある。確かに、拓真は今ここにいる。


「大丈夫」


 彼に向けてなのか、自分に向けてなのか、分からないまま、そう呟く。


 クラゲの光が、二人を包む。


 青。紫。淡い白。形を変えながら、それでも存在し続けるもの。揺れながら、消えないもの。


 緋依は、静かに微笑んだ。いつか、全ての記憶がまた、揺らりと登って来るはずだと。


 未来に向かって、確信を込めた。


──君はまだ、本当の自分を知らない。

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