交換条件
「これ、書いてきました。約束通りです」
封筒を差し出す。男は無言で受け取り、中を確認する。
「……二十一日目までですね」
「はい。抜けはないと思います」
紙をめくる音だけが続く。
「対象は安定していますか」
「ええ。いつも通りです。起きる時間も、食べるものも。変わった様子はありません」
「学習兆候は」
「ありません。一度破壊された後の記憶は更新されないので」
男は封筒を閉じる。
「結構です。これで記憶移植型クローンの研究は前進します」
緋依は小さく頷く。
「確認します。社会的に露見した場合、本研究は即時凍結。そのため、彼の機能は今日を持って停止します。」
「……機能停止、ですか」
「はい」
「それは、ちょっと……無理です」
男の視線が上がる。
「感情的判断は不要です」
「でも、無理なものは無理です」
静かな間。
「対象は成長しません。更新もありません。人の形をしていて、会話ができるだけです。」
「知っています。でも、それでも」
「更新されない存在は、いずれ不自然になります」
「どうしてですか」
「人は変化するからです。価値観も、関係も。でも、彼は変わらない」
「それって、そんなに危ないことですか?」
「予測不能になる可能性があります」
「彼の場合は、予測できます」
「設計上は、です」
緋依は一度目を伏せる。
「露見しなければ、いいんですよね」
「理論上は」
「じゃあ、どうすればこれからも一緒に過ごせますか? なんだってします」
男は淡々と言う。
「あなたを監視対象とします」
「私を、ですか」
「世間に露見する兆候、あるいは対象の異常行動が確認された時点で強制停止」
「異常行動って」
「学習です。固定状態からの逸脱」
「もし……少しでも変わったら?」
「停止します」
短い沈黙。
「承認しますか」
緋依は、ゆっくり息を吐く。
「……わかりました。承認します」
「それでは、監視は本日より開始します」
「わかりました」
「逸脱がなければ停止はありません」
「……ありがとうございます」
「礼は不要です」
覚悟を決めて、部屋を出る。
「大丈夫だよ」
誰に向けるでもなく、小さく呟いて、歩き出す。
研究所を出たあの日から、数日が過ぎた。拓真は、相変わらず静かだった。
いや、もともと静かな人だった、という言い方もできる。けれど今の静けさは、音が吸い込まれるみたいな静けさだった。
話しかければ、こちらを見る。手を引けば、歩く。食事を出せば、口に運ぶ。それだけ。
名前を呼んでも、反応はない。笑わない。困らない。怒らない。ただ、生きている。
──朝になり、カーテンを開けると、冬の光が細く差し込む。埃が、光の中でゆっくり回る。
「おはよう」
返事はない。
それでも緋依は、毎日声をかけた。
服を選んであげる。ボタンを留める。靴紐を結ぶ。隣に座ってテレビを見る。
拓真は、画面の中の芸人が大声で笑っても、動物番組で赤ちゃんが生まれても、表情を変えない。光が瞳に映るだけ。
──夜になると、まるで決められているかのように、ベッドに横たわる。
寝息は穏やかで、胸は規則正しく上下する。そのたびに緋依は、"生きている"という事実だけを抱きしめる。
何も戻らない。それでも、何も変わらない日々を重ねる。まるで、乾いた土に、毎日一滴ずつ水を落とすみたいに。
吸い込まれて、消えていく。それでも、やめない。




