全てが消えるまで
(二十一日目)
朝、目が覚めたとき、隣に彼はいなかった。一瞬、ただの早起きだと思おうとした。でも、その思い込みを否定するように、胸の奥が嫌な音を立てた。
すぐに飛び起きる。彼が眠っていた場所のシーツが冷たい。そこには、もう彼の体温が残っていない。
リビングから、かすかな物音。何かをそっと置く音。足音は、少し慎重で、よそよそしい。
扉の隙間から覗く。彼はソファに座っていた。
背筋を伸ばし、両足をきちんと揃えて。まるで、誰かの家に招かれた客みたいに。
膝の上には万年筆。
キャップは外れていて、ペン先が光を反射している。指先にインクが少し付いていた。
それを見た瞬間、どうしてか胸が締めつけられた。あれは、私があげたもの。
「拓真」
声をかける。彼は、ゆっくり顔を上げた。
その目には、昨日まで残っていた曖昧な迷いすらなかった。探すような、不安な揺れもない。
ただ、静かだった。
「……どなたですか?」
呼吸が止まる。喉が、ひゅっと小さく鳴った。
「冗談やめて」
笑おうとした。でも頬が動かない。自分の声が、他人の声みたいに震えている。
彼は立ち上がり、半歩、距離を取った。
「すみません」
深く頭を下げる。
「ここは、どこでしょうか」
足元が揺れる。
「私の家だよ」
「……あなたの?」
「違う」
声が裏返る。
「私たちの」
彼は困ったように眉を寄せた。その仕草は昔と同じなのに、意味が違う。
「申し訳ありませんが、記憶が……ありません」
完全に、ない。
昨日まであった断片も。名前を間違えることも。迷いながら私を見るあの目も。候補すら存在しない。
私は一歩近づく。彼は、もう一歩下がる。
「触らないでください」
優しい声だった。拒絶というより、礼儀。その礼儀が、何よりも残酷だった。
彼は万年筆を見つめる。
「これは、僕のものですか?」
「そうだよ」
「……なぜ、持っているのでしょう?」
知らない。
私があげたことも。箱を開けて一緒に笑ったことも。嬉しそうに「一生使う」と言ったことも。全部、消えてしまっていた。
壁の時計の音が、やけに大きい。秒針が一回動くたび、何かが終わっていくみたいだった。
私は彼をソファに座らせる。
「大丈夫」
と言いながら、全然大丈夫じゃない。
「あなたの名前は、拓真」
「……拓真」
口の中で転がすみたいに言う。
「僕は、拓真」
初めて覚える単語みたいだった。
「私は、緋依」
彼は私を見る。まっすぐに。丁寧に。
「……緋依さん」
"さん"がついた。視界が滲む。
前は呼び捨てで、時々ふざけて、「ひい」って省略して笑っていたのに。
「あなたは、私の――」
恋人。何度も好きって言ってくれた人。
オムライスに星を描いてくれた人。
目玉焼きを半分くれた人。
万年筆を抱きしめた人。
でも、彼はまっさらな顔で待っている。
「知り合い、ですか?」
小さな声。私は、頷く。
「……うん」
それしか言えなかった。しばらく沈黙が続く。
彼は部屋を見回す。慎重に、壊れ物を扱うみたいに。
ふと、写真立てを手に取る。
そこには、星形のケチャップのオムライスを持って笑う二人。
彼は首を傾げる。
「これは……あなたですか?」
「うん」
「隣の方は?」
喉が焼ける。
「拓真」
彼は写真と私を交互に見る。まるで、似ているかどうかを確認するみたいに。
「……思い出せません」
知ってる。もう、思い出せない。私はノートを開く震える手で、書く。
文字が揺れる。インクが滲む。一文字ごとに、視界がぼやける。
ページの中央に、大きな水の跡が広がる。何度も、何度も涙が落ちる。
書き直そうとした。でもやめた。
これが今日。これが、二十一日目。
彼は静かにソファに座っている。背筋を伸ばして、両手を膝に置いて。
まるで、間違えて知らない家に来てしまった人みたいに。
「……帰った方がいいでしょうか」
その言葉で、世界が崩れた。
「ここが、あなたの帰る場所だよ」
必死に言う。でも、彼の目には、安心も、戸惑いもない。ただ、理解しようとする静かな光だけ。
私は彼の前に膝をつく。少し迷ってから、そっと手を伸ばす。彼はびくりとしたけれど、振り払わなかった。
そのぬくもりだけが、現実だった。
「これから、教えるね」
声が掠れる。
「あなたのこと、全部」
彼はゆっくり頷く。
「……お願いします」
知らない人の声。それでも。その手は、あの日と同じ温度だった。私は、離さなかった。
もしこの先、何度忘れられても。何度初対面になっても。
私は、何度でも名前を教える。
何度でも、恋をする。
ページの右下が大きく裂けている。ペンを強く押しつけすぎて、紙が薄くなっている。
最後の行は、インクが滲んで読みにくい。
⸻
二十一日目
記憶完全消失。
自他認識、過去記憶、感情接続、すべてゼロ。
──
今日、全てが無くなった。
それでも、
私はまだ、あなたを好きでいる。




