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君はまだ、本当の自分を知らない  作者: 曖昧


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21/29

全てが消えるまで

(二十一日目)


 朝、目が覚めたとき、隣に彼はいなかった。一瞬、ただの早起きだと思おうとした。でも、その思い込みを否定するように、胸の奥が嫌な音を立てた。


 すぐに飛び起きる。彼が眠っていた場所のシーツが冷たい。そこには、もう彼の体温が残っていない。


 リビングから、かすかな物音。何かをそっと置く音。足音は、少し慎重で、よそよそしい。


 扉の隙間から覗く。彼はソファに座っていた。


 背筋を伸ばし、両足をきちんと揃えて。まるで、誰かの家に招かれた客みたいに。


 膝の上には万年筆。


 キャップは外れていて、ペン先が光を反射している。指先にインクが少し付いていた。


 それを見た瞬間、どうしてか胸が締めつけられた。あれは、私があげたもの。


「拓真」


 声をかける。彼は、ゆっくり顔を上げた。


 その目には、昨日まで残っていた曖昧な迷いすらなかった。探すような、不安な揺れもない。


 ただ、静かだった。


「……どなたですか?」


 呼吸が止まる。喉が、ひゅっと小さく鳴った。


「冗談やめて」


 笑おうとした。でも頬が動かない。自分の声が、他人の声みたいに震えている。


 彼は立ち上がり、半歩、距離を取った。


「すみません」


 深く頭を下げる。


「ここは、どこでしょうか」


 足元が揺れる。


「私の家だよ」


「……あなたの?」


「違う」


 声が裏返る。


「私たちの」


 彼は困ったように眉を寄せた。その仕草は昔と同じなのに、意味が違う。


「申し訳ありませんが、記憶が……ありません」


 完全に、ない。


 昨日まであった断片も。名前を間違えることも。迷いながら私を見るあの目も。候補すら存在しない。


 私は一歩近づく。彼は、もう一歩下がる。


「触らないでください」


 優しい声だった。拒絶というより、礼儀。その礼儀が、何よりも残酷だった。


 彼は万年筆を見つめる。


「これは、僕のものですか?」


「そうだよ」


「……なぜ、持っているのでしょう?」


 知らない。


 私があげたことも。箱を開けて一緒に笑ったことも。嬉しそうに「一生使う」と言ったことも。全部、消えてしまっていた。


 壁の時計の音が、やけに大きい。秒針が一回動くたび、何かが終わっていくみたいだった。


 私は彼をソファに座らせる。


「大丈夫」


 と言いながら、全然大丈夫じゃない。


「あなたの名前は、拓真」


「……拓真」


 口の中で転がすみたいに言う。


「僕は、拓真」


 初めて覚える単語みたいだった。


「私は、緋依」


 彼は私を見る。まっすぐに。丁寧に。


「……緋依さん」


 "さん"がついた。視界が(にじ)む。


 前は呼び捨てで、時々ふざけて、「ひい」って省略して笑っていたのに。


「あなたは、私の――」


 恋人。何度も好きって言ってくれた人。


 オムライスに星を描いてくれた人。


 目玉焼きを半分くれた人。


 万年筆を抱きしめた人。


 でも、彼はまっさらな顔で待っている。


「知り合い、ですか?」


 小さな声。私は、頷く。


「……うん」


 それしか言えなかった。しばらく沈黙が続く。


 彼は部屋を見回す。慎重に、壊れ物を扱うみたいに。


 ふと、写真立てを手に取る。


 そこには、星形のケチャップのオムライスを持って笑う二人。


 彼は首を傾げる。


「これは……あなたですか?」


「うん」


「隣の方は?」


 喉が焼ける。


「拓真」


 彼は写真と私を交互に見る。まるで、似ているかどうかを確認するみたいに。


「……思い出せません」


 知ってる。もう、思い出せない。私はノートを開く震える手で、書く。


 文字が揺れる。インクが滲む。一文字ごとに、視界がぼやける。


 ページの中央に、大きな水の跡が広がる。何度も、何度も涙が落ちる。


 書き直そうとした。でもやめた。


 これが今日。これが、二十一日目。


 彼は静かにソファに座っている。背筋を伸ばして、両手を膝に置いて。


 まるで、間違えて知らない家に来てしまった人みたいに。


「……帰った方がいいでしょうか」


 その言葉で、世界が崩れた。


「ここが、あなたの帰る場所だよ」


 必死に言う。でも、彼の目には、安心も、戸惑いもない。ただ、理解しようとする静かな光だけ。


 私は彼の前に膝をつく。少し迷ってから、そっと手を伸ばす。彼はびくりとしたけれど、振り払わなかった。


 そのぬくもりだけが、現実だった。


「これから、教えるね」


 声が(かす)れる。


「あなたのこと、全部」


 彼はゆっくり頷く。


「……お願いします」


 知らない人の声。それでも。その手は、あの日と同じ温度だった。私は、離さなかった。


 もしこの先、何度忘れられても。何度初対面になっても。


 私は、何度でも名前を教える。


 何度でも、恋をする。


 ページの右下が大きく裂けている。ペンを強く押しつけすぎて、紙が薄くなっている。


 最後の行は、インクが滲んで読みにくい。


二十一日目


 記憶完全消失。

 自他認識、過去記憶、感情接続、すべてゼロ。

──


 今日、全てが無くなった。


 それでも、

 私はまだ、あなたを好きでいる。

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