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君はまだ、本当の自分を知らない  作者: 曖昧


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19/29

観察開始

 次の日、私は研究所に来ていた。


 昨日と同じ道を歩いたはずなのに、足取りは重かった。駅から続く人通りの少ない歩道。風に揺れる街路樹。遠くの車の走行音。


 すべてが、現実感を失っている。研究所の自動ドアは、相変わらず無機質な音を立てて開いた。


 白い。何度来ても、この白さには慣れない。


 壁も、床も、天井も、白。感情を拒絶する色。ここでは、悲しみも、怒りも、愛も、ただ測られるだけの対象になる。


 受付を通され、奥の会議室へ案内される。廊下を歩くたび、靴音がやけに響く。


 机の向こうに座っていたのは、あの日と同じ男だった。姿勢も、視線も、何も変わらない。


「……報告に来ました」


 声が、思ったよりも冷静だった。昨夜はほとんど眠れなかったのに。


「彼がファイルを読みました」


 男の表情は、わずかにだけ動いた。ほんの数ミリ、眉が上がる。


「そうですか」


 それだけ。それだけなのに、胸の奥がざわつく。その一言で、すべてが「予定通り」に処理された。


「症状は?」


「まだ明確ではありません。でも……欠損が、始まっています」


 言いながら、自分の声が遠くなる。彼が言葉を思い出せなかった瞬間。怒っていた理由を忘れた瞬間。


 あれが、始まりだった。


 男は指先でタブレットを操作しながら、淡々と言った。


「予測どおりですね」


 予測。分かっていたこと。契約書にも、説明資料にも、明記されていた。でも、分かっているのと、起きるのは違う。


「これからは研究所で保護観察します」


「え?」


 反射的に声が出る。


「被験体──T-03は、こちらで管理します」


 その呼び方。番号。心臓が跳ねた。


「それは、どういう……」


「記憶が完全に消失するまでの経過を、正確に観察する必要があります。貴重なデータです」


 データ。その言葉が、耳鳴りみたいに響く。


 拓真が、データ。笑った顔も、怒った声も、全部。


「だめです」


 思わず、声が出た。


 椅子がわずかに(きし)む。


 男がゆっくりと顔を上げた。初めて、私を「感情のある存在」として見たような視線。


「彼は、実験材料じゃない」


 声が震える。


「契約時に同意されています」


「それは、私が──」


 言葉が詰まる。私が選んだ。私が望んだ。私が、署名した。彼の命を繋ぐ代わりに、すべてを差し出した。


 それでも。


「最後まで、一緒にいたいんです」


 机に、両手をつく。震えが止まらない。


「彼が全部忘れる、その瞬間まで」


 自分でも残酷だと思う。"その瞬間"を見届けたいなんて。でも、誰にも奪われたくなかった。


 彼が消える瞬間を。男は、しばらく無言だった。


 画面に視線を落とし、何かを考えている。やがて、小さく息を吐く。


「……分かりました。(ただ)し、条件があります」


 私は顔を上げた。


「あなたが、記録を取ること」


「記録?」


「彼が何を忘れたか。どの順番で欠落したか。言動の変化。感情の揺れ。すべて」


 冷たい声で続ける。


「それをノートに詳細に記す。そして、記憶が完全消失した時点で、そのノートを研究所へ提出する」


 提出。寄付。彼の崩れていく記憶を、差し出す。愛した時間を、研究資料に変える。


「それが条件です」


「……もし、断ったら?」


「その時点で、我々が強制的に保護します」


 淡々とした宣告。逃げ場はない。選択肢も、ない。私は、目を閉じた。


 彼が笑っていた日々を思い出す。


 水族館で、クラゲを見上げながら言った言葉。


「前から知ってる感じしない?」って、照れた顔。


 初めて手を繋いだときの、少し汗ばんだ掌。


 全部、消える。それを、私が、記録する。"愛の記録"じゃない。


 "欠損の記録"。


 喉の奥が、熱くなる。


「……分かりました」


 声が、(かす)れた。


「書きます。一つ残らず」


 私が最後の証人になる。男は小さく(うなず)く。


「では、本日から観察を開始します」


 引き出しから取り出された、紙のノート。


 装飾のない、真っ白な表紙。研究所のロゴだけが、小さく刻まれている。まだ、何も書かれていない。


 これから、彼の"失われていくもの"で埋まる。私はそれを、両手で受け取った。


 重い。何も書かれていないのに、重い。


「後悔は?」


 男が、不意に聞いた。視線は真っ直ぐだ。


 試すようでもあり、確認するようでもある。私は少しだけ考えて、首を振る。


「……後悔する記憶も、いつか無くなりますから」


 言ってから胸が痛んだ。


 それは、彼のことか。それとも、私のことか。


 研究所を出ると、外は夕暮れだった。空が、薄い橙色に染まっている。こんなにも普通の景色なのに、世界は静かすぎる。


 その時、ポケットに入れていたスマホが震える。画面に表示された名前を見て、息が止まる。


 拓真からメールが来ていた。


『今日、何時に帰る?』


 その文字を見た瞬間、涙が落ちた。画面に、ぽたりと雫が広がる。まだ、私を覚えている。


 まだ、「帰る」という言葉の先に、私がいる。


 でも、少しずつ消えていく。やがて、「帰る場所」も分からなくなる。


 私は、ノートを開いた。白い一ページ目。ペンを持つ手が、震える。何から書けばいいのか、分からない。でも、書かなければ。


 私は、ゆっくりと文字を刻んだ。


──


一日目。


 まだ、私の名前を呼べる。

 呼び方は、いつもと同じ。


 どうか。


 明日も、呼べますように。


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