突きつけられた現実
耳鳴りがした。高く、細く、途切れない音。
さっきまで普通に存在していた部屋が、急に、遠くなる。
壁も、天井も、目の前の机も、どこか薄い膜の向こう側にあるみたいだった。
「……一度死んでる?」
聞き返した声は、自分のものじゃないみたいに軽かった。
重力がなくなったみたいに、現実感がない。
緋依は、視線を逸らさなかった。いや、逸らせなかった、が正しい。瞳の奥に、逃げ場のない覚悟があった。
「横断歩道で、事故に遭ったの。私は……それを、目の前で見てた」
その言葉と同時に、何かが胸の奥で鈍く鳴った。金属を叩くような、鈍い衝撃。知らない映像が、勝手に脳裏に浮かぼうとする。
白いヘッドライト。急ブレーキの音。誰かの叫び声。
でも、どれも輪郭が曖昧で、掴もうとすると崩れる。ノイズみたいに散っていく。
「再起するのは無理だって、医師に言われた」
「……嘘だろ」
反射的に言った。否定しなければ、自分が消える気がした。
「だって、僕は――」
ここにいる。話してる。考えてる。心臓も、ちゃんと動いてる。緋依は、小さく首を振った。
「あなたは……"今のあなた"は、ね」
その言い方が、決定的に嫌だった。線を引かれたみたいだった。僕と、僕じゃない何かの間に。
「研究所が、あなたのクローンを作ったの。事故の前に記録されていた記憶を使って」
頭が、理解を拒否しているのがわかる。言葉は聞こえているのに、意味として入ってこない。
なのに、感情だけが先に理解してしまう。
ああ、と。
ずっと感じていた違和感の正体が、ぴたりと当てはまる。
「……待って」
喉が、ひりついた。
「じゃあ、このファイルに書いてあることは――」
ページの端が、わずかに震えている。自分の手なのに、遠い。
「全部、本当」
即答だった。逃げ道を、最初から塞ぐみたいに。
沈黙が落ちる。秒針の音が、やけに大きい。こんなに時計の音って、響いたっけ。
「……欠点が、あるの」
緋依が、そう前置きした瞬間。嫌な予感が、背中を撫でた。冷たい指で、なぞられるみたいに。
「クローンはね……」
言葉を選んでいるのが、痛いほど伝わってくる。言いたくないのに、言わなきゃいけない声。
「自分がクローンだって、はっきり認識した瞬間から、記憶が、欠け始める」
「……え?」
一瞬、意味が理解できなかった。いや、理解したくなかった。
「最初は、些細なもの。昨日の出来事とか、会話の一部とか。でも、進行は止まらない」
彼女の声が、少しずつ震え出す。その震えが、現実味を増す。
「最終的には……」
言葉が、一瞬、途切れた。その沈黙が、何より雄弁だった。
「人格ごと、消える」
世界が、一段階、静かになった。自分以外の全ての音が遠い。耳鳴りだけが、残る。
「……じゃあ」
ゆっくり、言葉を繋ぐ。一語一語、確かめるみたいに。
「僕が今、これを読んで」
ファイルを指で叩く。紙の感触が、妙にリアルだ。
「"自分はクローンだ"って理解した時点で、もう、だめってこと?」
僕は、解いてはいけない謎を、解いてしまった。好奇心で開けてはいけない箱を、開けた。
緋依は、唇を噛んだ。その反応が答えだった。
「だから……」
彼女は、一歩、後ずさりした。僕に近づきたいのに、近付けない距離。
「研究所は、ずっと隠してきた。あなた自身にも、私にも、"言わないでほしい"って」
喉の奥から、笑いが漏れそうになる。乾いた、ひび割れた笑い。
「最悪だな」
自分の声が、やけに冷静で怖い。怒鳴りたいのに、怒鳴れない。
「知ったら消えるって。じゃあ、知るなって? 何も考えず、普通の人間のフリして生きろって?」
自分が何者かも知らずに。真実から目を逸らして。それが"生きる"ってことか?
緋依は、何も言えなかった。その沈黙が、一番残酷だった。
頭の奥が、じんわり熱くなる。何かを思い出そうとして、掴めない。さっき言おうとした言葉が、もう思い出せない。
……なんだっけ。忘れていく? 消えていく?
じゃあ、今までの違和感は…
彼女が時々見せる、罪悪感みたいな目は。知らないはずの好みを、知っていた理由は。初対面のはずなのに、懐かしいと感じた理由は。
「……全部」
声が、掠れる。
「全部、俺を騙すためだったのか?」
「違う!」
即座に否定された。涙声だった。
「生きてほしかっただけ。形が歪でも、あなたに"存在して"ほしかったの」
その言葉で、胸が、きつく締め付けられる。優しさなのか、残酷なのか。もう、わからない。
でも、その必死さだけは本物だ。それは分かる。けれど。理解と納得は、別だ。
視界が、少し揺れる。さっき読んだページの内容が、曖昧になっている。
事故の日時。医師の名前。研究所の正式名称。
……あれ? さっき、ちゃんと読んだはずなのに。
文字が、思い出せない。もう、始まっている。止まることの無い記憶の欠損が。砂みたいに、零れ落ちていく感覚。
「……ねえ、緋依」
視線を上げる。彼女の顔が、少し滲んで見える。
「僕が僕じゃなくなる前にさ、一つだけ、教えて」
彼女は、泣きそうな顔で頷いた。声を出したら、すぐにでも崩れてしまいそうな顔だ。
「本物の僕は」
喉が鳴る。怖い。でも、聞かなきゃいけない気がした。
「……幸せだった?」
一瞬。彼女の表情が、はっきりと崩れた。張り詰めていたものが、音を立てて壊れるみたいに。
「……うん」
声が、震えていた。でも確かだった。
「すごく」
迷いのない答え。その一言で、胸の奥が、少しだけ温かくなった。
ああ、そっか。僕は、幸せだったんだ。それなら。それなら、悪くない。視界の端が、少しずつ白くなる。
さっきまで感じていた怒りが、もう思い出せない。何に怒っていたんだっけ。
でも、胸の奥に残る温もりだけは、まだ消えていない。
それが、最後まで残る記憶になるかもしれない、なんてことを思いながら。




