表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/20

二度目の初めまして

 その時間の電車は、拓真がいつも乗っていたものだった。朝のホームは、通勤と通学の人で溢れている。私は、その中に立っていた。


 冬の終わりの空気は、少しだけ冷たく、吐く息が白く(にじ)む。電光掲示板の光が、まだ目に刺さるほど(まぶ)しい。


 足音。改札の電子音。アナウンスの無機質な声。


 全部、以前と同じ。でも、私だけが違う。


 電車に乗り、わざと、少しだけ改札寄りの位置に立つ。前なら、自然と隣に並んでいた場所。


 あの頃は、何も考えずに立っていた。隣に彼が来ることを、疑いもしなかった。けれど、今は違う。


 計算している。立ち位置も、距離も、視線の角度も。偶然を装うための、必死な演出。


 私は、スマートフォンを見ているふりをしながら、何度も、視線だけで時間を確認する。


 画面はほとんど見ていない。指先が、わずかに汗ばんでいる。


(……来る)


 胸の奥が、きゅっと縮む。


 人の流れが、一瞬だけざわついた気がした。その中に、見慣れた背中があった。


 少し猫背で、リュックの紐を片方だけ肩にかけている。


 心臓が早鐘(はやがね)を打った。


(……拓真)


 呼びそうになった名前を、喉の奥で、必死に噛み殺した。


 絶対に我慢しなければ。今ここで呼んだら、すべてが崩れる。


 扉が開くと同時に、風が吹き込み、スカートの(すそ)が揺れる。


 扉が開き、人が流れ込んだ。その流れに押されるまま、私も足を踏み出す。


 私は、拓真のすぐ後ろに立った。車内は、少し混んでいた。


 以前より、少しだけ距離がある。それが、こんなにも遠い。つり革に掴まる指が、震えていた。白いプラスチックの輪が、やけに冷たく感じた。


 拓真は、何気なく振り返った。人の流れを確認するための、ただの動作。そこで視線がぶつかる。


 その瞬間、胸がぎゅっと潰れた。知っている目。


 黒目の奥に、ほんの少しだけ光があるところ。笑う前に、わずかに細くなる形。


 全部、覚えている。でも、そこにあるのは、"初対面の距離"だった。記憶を持たない、透明な瞳。


 私は、自分から一歩、踏み出した。足が、重い。


「あの……」


 声が、ちゃんと出たことに、少し驚いた。


 喉が乾いているはずなのに、不思議と音は震えなかった。


「突然すみません」


 拓真は、少し戸惑った顔をしてから、笑った。


「いえ……」


 その笑い方も、変わらない。でも、その笑顔は、私を知らない。


 そして、首を傾げる。


「あれ、僕たち……会ったこと、ありましたっけ?」


 心臓が、強く跳ねた。背中に冷たいものが走る。


「なんか、すごく懐かしい感じがして」


 その言葉が、胸に刺さる。


(やめて。それ以上、思い出さないで)


 研究所の男の声が、脳裏をよぎる。


 「絶対に気付かせてはいけません」


 私は、唇に力を入れて、出来るだけ笑顔を作った。


「いいえ」


 声は、少しだけ高くなった。


「初めまして、です」


 一瞬だけ、沈黙が落ちる。電車の揺れが、大きく感じる。


 拓真は、驚いたように目を瞬かせた。


「そう、なんですね…なんかごめんなさい。変なこと言っちゃって。気にしないでください」


 彼は、困ったように笑う。その仕草も、知っている。謝る必要なんてないのに、すぐ謝るところ。


 私は、軽く肩をすくめる。


「もしかしたら、運命かもしれませんね」


 冗談めかして、笑ってみた。本当は、運命なんかじゃない。これは契約であり、実験だ。それでも、そう言うしかなかった。


 拓真も、つられて笑った。


「そんなことあるんですかね」


 その笑顔が、昔と同じで。胸の奥が、音を立てて崩れた。


(知ってるよ。それ全部、一度失った笑顔だよ)


 あの日、装置の光の中で終わった笑顔。それが、今ここにある。でも、私の存在は、その中にない。


 電車が揺れる。誰かの肩が、私に当たった。その衝撃で、少しだけ現実に戻る。


 吊り革が、揺れている。誰かのイヤホンから盛れる音が、小さく流れている。


 世界は、何も知らない顔をして、動いている。


 私は(うつむ)いた。涙が落ちないように、必死だった。


(苦しい。でもここで泣いたら、全部終わる)


 泣くのは、契約違反じゃない。でも、怪しまれる。不自然になる。ほんの小さな違和感が、彼の記憶を揺らすかもしれない。


 私は、もう一度顔を上げた。笑顔を、張り付けて。


「……私、緋依(ひより)って言います」


 名前を名乗るのが、こんなに怖いなんて思わなかった。


 以前は、当たり前のように呼ばれていた名前。でも今は、ただの音。


 拓真は、少し間を置いてから、言った。


「拓真です」


 その一拍。わずかな間。


 まるで、どこかで聞いたことがあるように考えているような、ほんの一瞬の空白。


 でも、すぐに消える。


 それは、私が二度目に聞いた、彼の名前だった。あの日、初めて名乗ってくれたときと同じ響き。


 でも、彼は知らない。それで、よかった。知らないから、生きている。


 電車は、次の駅へと滑り込む。扉が開き、人が降りる。


 拓真は、少し迷ったように私を見る。


「えっと……同じ駅で降ります?」


 私は、頷いた。


「はい」


 本当は、ずっと前から一緒だったのに。


 同じ駅で降りて、同じ道を歩いて、同じ時間を過ごしてきた。


 でも今は。今日が、最初の日。彼は、少しだけ歩幅を合わせてくれる。その優しさも、覚えている。


 それでも私は、初対面の距離を守った。


(大丈夫)


 自分に言い聞かせる。


(これは、やり直しじゃない)


(これは、二回目の恋)


 ホームに降りた瞬間、朝の光が差し込む。その眩しさに、私は一瞬だけ目を細めた。


 隣を歩く彼の横顔を、そっと盗み見る。知らないはずの人。それなのに、誰よりも知っている人。


 私は、心の中で静かに誓った。


(今度は、絶対に壊さない)


 彼が、私を知らなくてもいい。

 また好きになってくれなくてもいい。


 それでも彼が、笑って生きているなら。

 それだけで、いい。


 それだけで――


 私は、歩き出せる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
拝読させていただきました! この世界での一般的な倫理観や、法律、クローン技術の普及具合など気になりましたが 冒頭より主人公が感じた違和感に端を発する事の真相、緋依さんの苦悩と決断に至るまで きれいに纏…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ