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君はまだ、本当の自分を知らない  作者: 曖昧


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T-03

 次にその日が来たのは、思ったより早かった。


 水曜日の朝、緋依は、いつもより少しだけ早く起きた。目覚ましが鳴る前に、静かに布団から抜け出す。カーテンを開ける手つきも、どこか慎重だった。


 支度を終えたあと、鏡の前に立つ。そして、しばらく自分の顔を見つめてから、深く息を吸った。


 吐くとき、ほんのわずかに肩が震えた。


 それだけで、分かった。


(……今日だ)


 理由はない。ただ、それは確信に近い直感だった。


 緋依の後ろをこっそり着いて行く。二回目にして、もう慣れていた。駅までの道。ホーム。電車。すべて、前回と同じだった。


 緋依は前回と同じ位置に立ち、同じドアから乗る。吊り革に手をかける角度まで、同じに見えた。


 僕は二両後ろに乗る。視界に入らない距離。でも、見失わない距離。心臓の鼓動が、やけに速い。


 言い訳はいくらでもできた。


 偶然だとか、心配だったとか。


 でも、本当は違う。確かめたいだけだ。彼女を疑いたいんじゃない。自分を、疑いたくないだけだ。


 そんな事を考えているうちに、例の駅に着いた。


 改札を抜ける人は、やはり少ない。駅員の姿も見当たらない。カメラだけが、天井からこちらを見下ろしている。


 外に出ると、昼間なのに光が弱い。建物の色が、空をくすませている。あの建物は、昼間に見てもやっぱり無機質だった。


 緋依は迷いなくカードをかざし、扉の向こうへ消える。電子音。閉まる音。その短い音が、胸の奥に重く沈む。


 今しかない。そう思い、周囲を確認する。誰も見ていない。それでも、どこかに監視されている気がする。


 僕は足早に、建物の裏へ回った。配管と室外機の並ぶ、生活感のない裏側。


 通用口らしき扉があった。小さなプレートには、何も書いていない。


 試しに押してみると、静かに、開いた。鍵は、かかっていなかった。授業で想像していたよりも、管理が甘いみたいだった。


(……こんなに簡単でいいのか)


 罠みたいだ、と少し思った。


──中は白かった。壁も、床も、天井も。光が均等に回っているため、影がほとんどできない。


 匂いがない。音も、ない。まるで世界のボリュームが下げられているみたいだった。


 足を踏み出す。コツ、と音が鳴る。それだけで、心臓が跳ねる。廊下の両脇には、番号や用途の書かれた扉が並んでいる。


 【解析室】


 【管理区画】


 【資料室】


 その文字を見た瞬間、胸の奥がざわついた。


 理由は分からない。


 でも、"そこにあるべきではない何か"が、そこにある気がした。


 僕は咄嗟(とっさ)にノブに手をかけた。冷たい。金属の冷たさじゃない。もっと、体温を奪う冷たさ。


 ほんの一瞬、戻ろうかと思った。今なら、まだ間に合う。何も知らないまま、日常に戻れる。


 でも。


 ここまで来て、何も知らずに帰れる気がしなかった。覚悟を決めて扉を開ける。


 中には棚とファイルが整然と並んでいた。背表紙はすべて同じ色。同じフォント。同じ厚み。埃はない。床に足跡もない。それだけで、人が、頻繁に出入りしている場所だと分かった。


 適当に一冊、引き抜く。紙の感触が、妙に重い。専門用語ばかりで、意味は分からない。


 それでも、いくつかの単語が、視界に引っかかる。


 被験体。経過観察。記憶安定率。情動反応。


(……研究、なのか?)


 何の?誰の?


 奥の棚には、個別管理用らしいファイルが並んでいた。番号だけが書かれた、無機質な背表紙だ。


 01。


 02。


 03。


 整然と並ぶ中で、一つだけ目を引くものがあった。


 『T-03』


 他のファイルと違って、アルファベットが混じっている。その時、急に心臓が一度、強く鳴る。


 なぜか、それは最初から知っている気がした。触れてはいけないものを、知っている気がした。


 気になって手に取ってみる。重い。紙の重さ以上の、何かがある。掌に、じわりと汗が滲む。


 中を開いた瞬間、思考が止まった。最初に開いたページの上部に貼ってあった写真。


 その写真は、僕の顔写真だった。


 真正面からで、表情は無表情。背景は白。


 証明写真のようで、どこか監視映像の切り抜きにも見える。


 撮られた記憶がない。一瞬、理解が追いつかない。


 そのままページを(めく)る。


 身長。体重。血液型。既往歴。家族構成。学歴。交友関係。全部、僕のものだった。事細かく書いてあるその情報には、一つとして間違ったものは含まれていなかった。


 誤差が、ない。


 喉が、ひくっと鳴ると同時に、呼吸が浅くなる。


 さらにページを(めく)る。


 【外部関係者:緋依(ひより)


 その文字だけ、はっきりしていた。


 【精神安定に大きく寄与】


 世界が、一瞬だけ遠のく。


(……なんで、彼女の名前が)


 関係者。寄与。緋依が、僕の構成要素みたいに書いてある。僕は、目の前に広がる光景を、夢だと思うしか無かった。


──そのときだった。


 廊下から足音が聞こえた。規則正しい音。こちらへ近づいてくる。


 僕は、反射的にファイルを抱えたまま、棚の影へ滑り込む。


 心臓が、耳元で鳴っているような気がする。じっと呼吸を止める。


 誰かが資料室の前で立ち止まる。そしてすぐに、ドアノブに、手がかかる音が鳴る。金属が、わずかに軋む。


 一瞬、終わったと思った。ここで見つかる。もし見つかったらどうしよう。きっと説明できない。言い訳もできない。


 幸い、扉は開かなかった。足音が、再び遠ざかる。規則正しく。感情のない歩幅で。


 僕はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。背中に、汗が流れる。


「ここにいたら、いつか必ずバレる。」


 直感じゃない。確信だった。


 僕は『T-03』と書かれたファイルを見下ろす。これを戻す、という選択肢はなかった。戻した瞬間、何も知らなかった自分に戻る気がしたからだ。


 震える手で、それを鞄に入れる。重い。まるで、罪の重さみたいだった。


⸻資料室を出るとき、自分が犯罪者みたいに感じた。廊下の白さが、やけに眩しく感じる。


 監視カメラがあるかもしれない。誰かが見ているかもしれない。でも、誰とも目が合わない。


 来た道を通り、通用口を抜ける。外の空気を吸った瞬間、僕の膝がわずかに笑った。


 空気に匂いがある。音がある。世界が戻ってくる。でも、自分はもう戻れない。それだけは、確かだった。

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― 新着の感想 ―
日常の些細な違和感から始まり、愛情と自己のアイデンティティが崩壊していく恐怖。自分の人生は誰のものか、もとの日常には戻れない喪失感。主人公が、今後どう考え行動して行くのか気になりました。
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